12月21日クリスマス礼拝説教「インマヌエル、神は共に」

聖書 イザヤ書7章13~14節、マタイによる福音書1章18~25節 

『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。』(マタイ1:23)

「インマヌエル、神は共に」

今日はイエス様のご降誕をお祝いするクリスマス礼拝をおこなうことができますことを嬉しく思います。クリスマスおめでとうございます。

暗やみのように先行きが分からず不安が人々の心を覆い尽くすような現代にあってもイエス様の誕生の光は私たちに希望を与えます。それは「愛」という言葉が空しく聞こえ「力」が現実を支配しているように見えても、イエス様がこの世界に来られたことで神の愛が世界を包んでいることが明らかになった出来事です。

 

マタイによる福音書1章21節「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。」と記されています。このイエスという名前の意味は「神は救い」というものです。ですから主の天使は「この子は自分の民を罪から救うからである。」と告げたのです。

そしてもう一つの名が23節「インマヌエル」です。これは旧約聖書が書かれた言語であるヘブライ語の発音をそのまま記していて、意味は「神は私たちと共に」というものです。23節の「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」というのは旧約聖書からの引用で、先ほど司式者によって読まれたイザヤ書7章14節の預言の言葉です。そこには「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」と記されています。主なる神が人間にしるしを与えていました。主の天使によって「神は救い」、イエスという名を与えられた男の子は「インマヌエルと呼ばれる」(マタイ1:23)お方なのです。

 

こんな詩があります。

キリストはこの家のかしら
すべての食事の見えざる客
すべての会話の黙せる聞き手

短い詩ですが、神が私たちと共にいてくださることを良く表している詩だと思います。あなたが誰にも存在を認められていないとしてもイエス様だけはあなたのそばに居てくださるのです。この詩にはなぜそのような存在として私たちのそばに居てくださるのかが書かれていませんが、その理由は神があなたを愛しておられるからです。ヨハネの手紙1の4章16節には「神は愛です。」と証しされています。またヨハネによる福音書3章16節には「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と記されています。このように神は私たちを愛しておられるので、私たちを救おうとなさっているのです。神に愛されていない人は一人もいません。この世に要らない人は一人もいません。このことをお示しになるためにイエス様はお生まれになりました。

 

イエス様はマタイによる福音書1章18節にあるように「聖霊によって身ごもりました」。「聖霊によって」とはギリシア語原典では「聖霊から」と書かれています。つまり聖霊の力が働いてマリアの胎にイエス様が宿ったのです。ヨハネによる福音書1章14節には「言(ことば)は肉となって私たちの間に宿られた。」と記されています。このことは、イエス様はマリアの胎に突然現れたのではなく、この世界が造られる前から神の言葉として存在しておられたことを表しています。その言(ことば)が聖霊の力によって人間の肉体を持ってこの世に現れたのです。世界が造られる前から神と共におられた言(ことば)がご自分の造られた世界に突入してこられた。このお方がイエス様です。

イエス様はこの世を裁くために来られました。人間は神を忘れ、被造物は虚無に服しています(ローマ8:20)。そして裁きが行われました。それは私たちには驚くべきものでした。神を忘れて神に背く人間を滅ぼすのではなく、イエス様ご自身が人間の罪を負って死ぬというものでした。そのことによって私たちが誤った人生を過ごしていることを知り、神の言葉に立ち帰ることができるようにしてくださいました。

 

このあと、洗礼式が執り行われます。洗礼式の中でマタイによる福音書28章18から20節が読まれます。次の言葉です。

主は復活の後に弟子たちに命じて言われました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行つて、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

このような言葉です。私たちが洗礼式を行うのも、インマヌエル「神は私たちと共におられる」という事実がなかったならば成り立ちません。マタイによる福音書は1章でイエスという名を与えられた男の子が「インマヌエル」と唱えられること、そしてそれはイザヤ書7章14節の預言の成就であることを知らせました。その福音書の最後に再びイエス様ご自身が「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」とインマヌエルであることを告げたことが記されているのです。最初と最後にこのようにインマヌエルということをはっきりと書き記したのは「神さまが私たちと共にいてくださる」という事実です。このインマヌエルの神が私たちの一番深いところでいつも共にいてくださっているのです。

 

この世がどのように暗やみに閉ざされ、未来に希望が見えないと思える時にも、インマヌエルのイエス様は私たちと共にいてくださいます。私たちがどんなに無価値な存在だと思える時にも共にいてくださいます。神が人間の肉体をとってこの世に突入して来られたことがこのことを証ししています。

まったく希望が見えない時にも、すべての策が尽き果てた時にも、イエス様が共にいてくださることを信じることができる幸いを感謝します。