聖書 ルカによる福音書1章26~32節、46~50節,2章8~14節
マタイによる福音書1章23節、2章7~12節
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタ 1:23 )
「インマヌエルの主」
クリスマスおめでとうございます。先ほど、私たちはイエス様が誕生するまでの出来事を聖書朗読と讃美歌の合唱で辿りました。最初に詩編が読まれました。イエス様が生まれる遥か昔から救い主が来られることが語られていました。詩編130編には嘆き祈る詩人の詩が記されています。この詩は次代を越えて人間の弱さや苦難を「罪」という言葉で語り、神さまに赦しを願う祈りです。『わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。』と記されています。実はすべての人が主を待ち望んでいます。具体的には不安であったり、恐れであったりするのですが、それは心の奥底にある「生きていることを確認したいという願い」の現れだと思うのです。詩人は見張りが朝を待つように主なる神が現れるのを待っています。朝が必ず訪れるように、主なる神は必ず現れます。
そして救い主はお生まれになりました。クリスマスは単にイエス様の誕生をお祝いする日ではありません。ヨハネによる福音書1章14節に『言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。』と記されているように、クリスマスは神ご自身が人となってこの世界に来られた日です。
マリアの胎に宿り、生まれた男の子がそのお方であることのしるしは、マリアとヨセフ、さらに羊飼いと東方から来た占星術の学者たちに現れました。先ほど読まれた聖書の言葉を辿りたいと思います。
イエス様の母マリアへのしるしは天使ガブリエルの『あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。』(ルカ1:31)というお告げでした。
イエス様を守り育てるヨセフへのしるしは『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(マタイ1:23)というお告げでした。
そして羊飼いへのしるしは『今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。』(ルカ2:11-12)というお告げでした。さらに東方の博士へのしるしは天空に輝くひとつの星でした。『東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった』(マタイ2:9)のです。
ヨセフに現れたしるしについて思いを寄せたいと思います。「インマヌエル、神は私たちと共におられる」。この言葉は不思議です。神は遠くにいて私たちの考えや行いを裁く存在と思われていました。日本に住んでいる人の多くがそのように思っているのではないかと思います。神がそばにいると窮屈でかなわないという感覚があるかもしれません。
私は教会の礼拝に出席するまでは、どちらかというと神は恐ろしい存在だから普段は遠くにいてもらって、困ったときに助けてもらいたいと思っていました。しかし見ず知らずの人たちばかりの都会に出て来て、頼るものがないことに気づいて心細くなってしまいました。私が生まれ育った地方では私という人間は近所の人たちに知られており、私自身もその人たちを知っていたし、その地域の慣習といったものの中で平和に暮らしていました。実はその環境が私の頼りにしていたものだったのです。生まれ育った環境で当たり前で意味があることだったことが新しい環境では無意味なことになってしまう経験をしました。人に親切にすることは美徳ではなく、自分をアピールしなければ生き残れないといった感覚でした。それは私の存在が根底から揺らぐ出来事でした。
人は、時が過ぎても、場所が変わっても、歳をとっても、変わらない「頼りになるもの」が必要です。それはいつも変わらずに私のそばに居てくださるお方です。救い主イエス様はこのようなお方としてこの世界に現れました。
このイエス様の誕生はこの世を救う救い主の誕生とは思えないほど惨めなものでした。人々から忘れ去られたような寂しい馬小屋で生まれ、馬の餌を入れる飼い葉おけの中に寝かされました。しかしこれこそが救い主のしるしでした。一番弱い姿でこの世に現れ、一番貧しい姿で眠っておられるのです。なぜなら神は人をお救いになるのに「力」を用いるのではなく「無償の愛」を用いられるからです。この「愛」ほど強いものはありません、この愛は忍耐強く、情け深く、ねたみません。この愛は決して滅びません。力を誇る者や国が滅びたことを私たちは歴史を通して知っています。しかしこの愛は続いていて、これからも続きます。力は互いを分裂させますが、この愛は互いを結び合わせ、豊かにします。
先日の12月21日の礼拝で一人の方が洗礼を受けられました。この方はある日突然、不思議なことに、礼拝に参加したいと思って教会の玄関をくぐりました。そして礼拝で神の言葉を聞き、その説き明かしと証言を聞いて安らぐことができるようになったそうです。そして悔い改めて神さまに赦してもらえる道があることを知りました。神さまは礼拝に招いて生ける言葉を与えてくださいます。悔い改めるとは「神さまと共に生きること」です。この方は神さまと共に人生を歩んでいくことを決心されました。そして洗礼により聖霊がこの決心に保証を与えてくださいました。悔い改めて主の道を歩く者には主なる神が共にいてくださることがわかるようになります。
ところで、皆さんは今から61年前、1964年に流行った『だまって俺についてこい』という歌をご存知でしょうか。2001年からテレビアニメ『こちら葛飾区亀有公園前派出所』のオープニングテーマとして使われたので、30歳以上の人は知っているかもしれません。1番はこんな歌詞です。
かねのないやつあ 俺んとこへこい
俺もないけど心配すんな みろよ青い空 白い雲
そのうちなんとかなるだろう
2番には「みろよ波の果て 水平線」、3番には「みろよ燃えている あかね雲」と歌われています。日本が敗戦から約20年経って東京オリンピックや新幹線開業など明るい未来が日本に漂っていた頃の雰囲気が感じられます。
今や、世界でも日本でも問題がたくさんあって暗い未来を感じている人が多いのではないかと思います。それぞれの人にとっても病気、高齢、家庭や社会での不和、経済的な重荷、心の空しさなどを抱えていることだと思います。そのような私たちのそばに神は共にいてくださいます。未来は決められているのではありません。神の言葉に対して、私たちが応答して行動することによって、あなたの未来もこの世界の未来も変わります。神が私たちと共にいてくださるからです。
いろいろな課題があるときに、悲観的になるのではなく「みろよ インマヌエルの主」と歌い、神さまに委ねたいと私は思うのです。未来が明るく思えようと暗く思えようと、インマヌエルの主を心の目で見るならば、愛の神が「なんとかしてくださる」と思えて元気が出てきます。しかもこれは単なるお題目ではありません。救い主イエス様がこの世界にお生まれになるという、人間には想像もできない仕方で、このことをお示しくださったのです。
現代は情報化の中で世代間の分断や経済格差による分断、あるいは国家間の不信の増大といった課題を抱えていますが、クリスマスの出来事は私たちに「あなたは一人ではない」と告げます。神さまがいつも一緒にいて下さり、愛して人生を導いていてくださることを信じる人々は楽観的です。もし悲観的になったらクリスマスの出来事を思い出してください。神さまが私たちと共にいてくださる幸いを感謝します。