12月28日礼拝説教「悲惨を越える希望」

聖書 イザヤ書63章7~9節、マタイによる福音書2章13~23節

さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。(マタイ2:16)

「悲惨を越える希望」

降誕節第1主日にイエス様家族がエジプトに避難する聖句が読まれました。神の御子の誕生の喜びとは対極にあるような悲惨な出来事が記されているこの聖書の箇所もクリスマスの出来事です。それでもなお救い主の誕生は私たちの希望です。人間だけではありません。この世界のすべてにとっての希望です。イエス様はよみがえられた後、再び来ることを予告して天に上られましたが、その言葉が真実であり信じるに足るものであることをこの出来事が教えてくれるからです。

先週の主日礼拝や燭火礼拝で私たちは救い主の誕生を追体験しました。受洗者が与えられ聖餐にあずかり大きな恵みを頂きました。しかしイエス様の誕生は私たちがいただいた大きな恵みとは反対に、世界の片隅で命の危険が伴う出来事でした。イエス様は不衛生な馬小屋でお生まれになり、馬の餌箱である飼い葉桶に寝かされました。この情景を想像するならばそれは悲惨な状況です。その悲惨な状況の中に羊飼いたちや東方の三博士が現れてイエス様を礼拝したのです。その礼拝は傍(はた)から見れば10人足らずのわびしいものでした。

そして博士たちが帰って行った後にヨセフは夢を見ました。主の天使はヨセフに言いました。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」(マタイ2:13)。このような言葉です。

そこでヨセフは夜のうちに赤ちゃんとマリアを連れてエジプトに向かいました。生まれて間もない赤ん坊にとってこの旅がいかに危険なものであったかは容易に想像できます。これは通常では考えられない無謀な行動ですが、ヨセフは主の天使の言葉に従い出発しました。

この旅の情景を描いた絵があります。2016年に、ほんの10年前に描かれたその絵のタイトルは「Refugees: La Sagrada Familia(避難民・聖家族)」というもので、くたびれたジーンズをはき、スニーカーを履いて、背中にはバックパックを背負っている両親がイエス様を抱いて夜の道を徒歩で歩いている情景が描かれています。そうです、聖家族は難民となってエジプトへ向かったのです。そしてヘロデ王が死ぬまで難民としてエジプトに滞在しました。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」(15節)と、主が預言者ホセアを通して言われていたことが実現するためでした。この預言はホセア書11章1節に記されています。

16節にはベツレヘムとその周辺で恐ろしいことが起きたことが記されています。ヘロデ王は東方の三博士が戻ってこなかったことを知って大いに怒(「いか」りました。本日の聖書個所の少し前の1節から8節にあるように、博士たちはイエス様に会う前にヘロデ王に面会して、まことの王、メシアが生まれたことを伝え、ヘロデは「不安を抱きました」(3節)。この不安は自分が王の地位から排除されるという不安です。歴史書にはヘロデ王は自分の地位を守るために3人の子供を殺し、妻を殺し、義理の父を殺したことが書かれていて、残忍で疑い深い人であったことが知られています。

このヘロデは何とベツレヘムとその周辺の2歳以下の男子を一人残らず殺させたのです(16節)。これは不条理、絶望的状況です。18節に「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」と記されています。これはエレミヤ書31章15節に記されている預言者エレミヤの言葉です。「ラマ」の場所はベツレヘム近郊だという説があります。この預言の言葉が実現したのです。「ラケル」はユダヤ人の信仰の祖先ヤコブの妻で、彼女の子ヨセフは腹違いの兄たちの陰謀によってエジプトに売られたのですが、ラケルはヨセフが死んだと思い嘆き悲しみました。彼女はヨセフに会うことなく先祖の列に加えられました。子どもを殺された女性たちの激しく嘆き悲しむ声が聞こえてくるようです。

ここで「イエス様は救い主としてこの世に来てくださったのに、この悲惨な状況が起こるのはおかしいではないか」、また「イエス様だけがこの殺りくから逃れるのは不公平ではないか」といった疑問が湧いてくるかもしれません。イエス様はなぜヘロデ王の暴力から女性や子供を守らなかったのか。

この疑問に答えることは難しいのですが、もしイエス様家族が逃げなかったならば恐怖に支配されたヘロデの悪意が勝利し、神の救いは成し遂げられなかったということは言えます。このクリスマスの出来事は神の勝利の約束が現実であるにもかかわらず、悪が神に戦いを続けていることを私たちに知らせます。恐怖から悪が生まれます。そして、一つの危険の源が消えても別のものがその代わりに現れるでしょう。根本の問題は悪の根源である恐れや恐怖が私たちを支配することです。それは罪が私たちに入り込んでいることを意味します。ヘロデ王が抱いた不安は私たちが日常の中で抱く小さな不安とその根っこは一緒です。現代でも戦争は続き、子どもたちは殺され、分断は広がっています。

加藤常昭牧師はこの箇所の説教で、「民主主義の将来は危ない」と警鐘を鳴らしました。その理由について加藤牧師は次のように語りました。「民主主義において大事なことは、人間が自主性を持つということです。しかし自主性を持とうとして私たちが今やり始めていることは、皆が間違った意味での王になりかけているということです。やがていつの間にか皆が王になってしまうと、うまくいかないから、やはり一人だけの王を立ててしまい、皆その王に頭を下げるようにした方が良いではないかといい始める、その危険は目の前に迫ってきていると私は思うのです。」このような説教です。この説教は50年ほど前になされました。

加藤牧師の危惧は、今日、現実になってきているのではないかと思わざるをえません。マスコミやインターネットでいろいろな不安が強調され、自主性が求められます。それは「自己責任」という言葉にも現れています。他国から攻めて来られるのではないかという不安、領土を奪われるのではないかという不安。身近な所では強盗に入られるのではないか、交通事故に遭うことや通り魔に襲われるのではないかという不安が頭をよぎります。

他者と話をしてお互いを知り合って不安を少なくするよりも、自主性によって守りを固めるという方向に、扇動者たちが、あるいはマスコミが人々をあおっていることに気がつかなければなりません。また、私たちの心に不安が積み上がっていないかを見直さなければなりません。もし皆が「自分第一の自主性」を持とうとするならば、それは社会に分断をもたらします。

ベツレヘムで起きた悲惨は神の力が現実の世界に及ばないように思われるかもしれません。しかし赤ん坊は殺されたままでは終わらないのです。その母親たちの嘆きは聞かれています。神はイザヤを通して御旨をお示しになりました。

イザヤ書63章8、9節には次の主の言葉が記されています。「彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。そして主は彼らの救い主となられた。彼らの苦難を常に御自分の苦難とし、御前に仕える御使いによって彼らを救い、愛と憐れみをもって彼らを贖い、昔から常に、彼らを負い、彼らを担ってくださった。」こういう言葉です。

主は弱い者、無意味に殺された人々の救い主となられたのです。もし死が終わりであるならば、権力のある者が世界を支配していて神の力は及ばないということになるでしょうが、主は生死を越えて私たちの救い主なのです。殺された赤ん坊も子をなくした母親も「主なる神の民」であり、主はその人たちの救い主となられたのです。

先ほどのエレミヤ書31章15節の嘆きの続きにはこのように記されています(16~17節)。「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る。」

この預言はユダヤが滅びて人々がバビロン捕囚になる前に、ユダヤの人々に向けて主が語られた約束です。そしてこの約束は主が再臨される時にすべての人に実現します。その時に人間の中に巣くっている罪はことごとく焼き払われてしまうでしょう。

イエス様家族のエジプト避難において多くの人が避難民となったイエス様たちを助けたということを想像したいと思います。私たちは神に象って造られました。人間は本能的に無償の愛を知っています。人間は平和であることは良いことだと知っています。この人間の美しさは神の美しさの反映です。

私たちに入り込んだ罪によって、私たちはその美しさに生き切ることができないでいます。これは悲しいことですが、そのことを嘆くのではなく、私たちを救ってくださる救い主いえす様に罪を清めていただき、聖い者として神の美しさに生きる者になさせていただきたいと思います。

私たちは神のすべての約束が成就することを信じイエス様が再臨することを願いながら、難民となられた聖家族を助けた人たちに連なりたいと思います。聖家族は今も私たちの周りに難民としておられます。