聖書 エレミヤ書31章10~14節、ヨハネによる福音書1章1~5、14~18節
『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。』(ヨハネ1:1)
「初めに言(ことば)あり」
クリスマスの喜びの中で新しい主の年2026年が始まりました。今年も主と共に御国への道をご一緒に歩いてまいりましょう。今日初めてのお方がおられましたら、どうぞ一緒に讃美歌を歌い、聖書の言葉を聞いて新しい年に希望を持って、人生を歩むきっかけを見つけていただければと思います。神さまはすべての人に言葉を与えておられます。その言葉は今も人を生かす力を持っている「生ける言葉」です。
ヨハネによる福音書1章1節に「初めに言(ことば)があった。」と記されています。この言葉には不思議な響きがあります。このことについて黙想する前に、まずは私たちが使っている言葉について考えてみたいと思います。言葉は他の人に意思を伝えるためのものであり、これは誰でも日常おこなっていることですから不思議ではありません。一方、言葉には力があるという理解があります。日本語には「言霊」(ことだま)という言葉があります。これは、発した言葉が現実になるというのを表しています。夢枕獏という小説家が『陰陽師』(おんみょうじ)という小説を書き、ひところブームになったことがありました。この陰陽師は呪文を唱えて平安京の都にのさばる魑魅魍魎(ちみもうりょう)を退治するというものです。今もインターネットテレビでアニメが放映されているようです。小説やアニメが流行するのは日本に言葉は単なる伝達の手段ではないという文化があるからだと思います。この理解があるので初めに「言」(ことば)があったというのを受け入れる素地はあるのではないかと思います。そしてこれは日本だけではなく外国にもあります。
ヨハネによる福音書が書かれた2世紀初頭のギリシア文化圏の人々にとってもこの言葉は受け入れやすい素地がありました。ギリシア哲学には言葉、すなわちギリシア語の「ロゴス」は世界を定める秩序という思想がありました
この「言」ロゴスについて1節後半から5節に説明がされています。「言」(ことば)は神と共にあって言葉は神であった(1節)。この世界のすべてのものは言によって成った(3節)。言霊を受け入れるならばこのヨハネの言葉は無下に否定できないのではないかと思います。
4節と5節には「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」これも言葉には力があることを受け入れるならば理解できないことではありません。聖書著者ヨハネは「言」(ロゴス)を光に譬えました。言葉が人間を、それぞれの人の人生を導くからです。
14節に重要な事柄が証しされています。『言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。』という文章です。ギリシア人たちはこの言葉に驚きました。ギリシア人たちには、「ロゴスが汚れた肉体と同化した」というヨハネの証は大きなつまずきとなしました。
人間となられた「言」ロゴスこそ乙女マリアから生まれたイエス様です。イエス様が言葉を発して出来事が起きたひとつの出来事をお示ししたいと思います。ルカによる福音書4章31節から37節に記されている出来事です。ユダヤ人の礼拝所である会堂に悪霊に憑りつかれた男の人がいました。イエス様が悪霊に「黙れ。この人から出て行け」と命じると、悪霊はその人から出ていきました。そのとき人々は「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」と驚いたのです。これは一つの出来事ですが、イエス様は方々で言葉によって病気を癒したことが記されています。
14節の『宿られた』という言葉は『幕屋を張った』ということを表す言葉が使われています。幕屋とは移動できる聖所のことです。今や、十字架にかかり死んで葬られ三日後によみがえって弟子たちに現れ、天に上られたイエス様が幕屋となられたのです。イエス様は「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)と言われました。今ここに集まって礼拝していますけれども、この建物に復活のイエス様がおられるのではなく、イエス様のお名前によって集まっている私たちの間に聖霊を介してイエス様がおられます。
わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けています(16節)。礼拝で主を賛美し、命であり光りである御言葉を聞いて、霊に満たされて喜んでこの世の務めを果たしています。務めとは仕事ではなく、その人に与えられた使命です。苦労はあっても御言葉を心に抱いて喜んで務めを果たしています。ある方は長期の入院を余儀なくされましたが、その治療の生活において主を証しされました。またある方は礼拝に出席することが困難になりましたが御言葉を聞いて感謝して日々を送っています。
エレミヤ書31章10節から14節には神さまの慰めが語られています。エルサレムは破壊されてしまい、自分たちの国は滅びました。人々は散らされました(10節)。人々は嘆き、悲しんでいます(13節)。このような時に預言者エレミヤは神の言葉を預かって人々に、希望は失われていないことを告げました。「イスラエルを散らした方は彼を集め/羊飼いが群れを守るように彼を守られる」のです。彼らは贖われ(11節)、喜び歌いながら神のもとに来て主の恵みを受けるのです。それは無条件の贖いであり癒しです。エレミヤは「主の言葉を聞け」(10節)と告げます。この主の言葉、これこそが「言」ロゴスです。
福音書著者ヨハネは「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」(16節)と告げます。恵みの上に更に恵みを受けた、という証しは私たちのものでもあります。生きる意味を見い出し、苦難の中でも希望を失わずに日々を送ることができるのは幸いであり、喜びです。
ところで、土地の大きさや傾きを調べるために測量をします。たまに測量しているところを見かけることがありますが、数名の人で三脚に乗せた測量機器を使って作業をしています。土地にはいろいろな形状があり、それを正確に測らなければ、家も道路も橋やトンネルも作ることができません。測量はすでに分かっている基準点からの距離や高さを測ることでおこなわれます。その大元の基準点がなければ土地を測ることができません。また基準点から計測する場所までまっすぐの線が引けなければ土地は測れません。
人間を土地に譬えるならば、それぞれの人がどのような存在であり、どの様な人生を歩めばよいかを知るには大元の基準点とそこからまっすぐの線が必要です。人間は大元の基準点にはなり得ません。動いてしまうからです。大元の基準点は神さましかあり得ません。そしてまっすぐの線を引くためには光は必要です。闇の中でも光があればまっすぐの線を引くことができます。この光こそ「言」ロゴスです。そのロゴスが人となられて私たちのところに来てくださいました。私たちはこのことを喜び祝うのです。私たちが大元の基準点である神さまとの関係を知る光がこの世界に現れたのです。
この世界を創造した言ロゴスが朽ち果てる肉体を持つ人間としてこの世に現れ、今やよみがえられて天におられます。この方は御父に願って聖霊を遣わし、私たちの間に幕屋を張って宿られました。私たちはもう迷うことはありません。すでに私たちと御父とはイエス様によってはっきりと関係づけられています。そして私たちの歩む御国への道は命の光によって照らされています。たとえこの世が滅びようとも人となられた神、救い主イエス様を信じるならば御国へと導いてもらえます。イエス様の光によって歩む人生を選んで、一緒に主の道を歩んでまいりましょう。