聖書 イザヤ書42章1~9節、マタイによる福音書3章13~17節
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。」(マタイ3:17)
「神の心に適う人」
世界は混迷の度合いを増してきたように思います。2022年2月24日にロシアのウクライナ軍事侵攻が始まり、2023年10月にはイスラエルのパレスチナ軍事侵攻が始まり、そして今年の1月3日には米国がベネズエラに軍事侵攻しました。ある新聞は社説で「米国のベネズエラ攻撃は、力による現状変更、主権侵害という点でウクライナ侵攻と同質だ」と主張しました。この数年の間に力の強い国が弱い国の主権を力により侵害する悲惨な出来事が起きています。世界は混沌として不安が膨れ上がっています。私たちは「平安」の意味を改めて考えなければならない状況になりました。
イエス様は「平安」を次のように語っておられます。『わたしは、平安をあなたがたに残し、わたしの平安を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。』という言葉です。これはヨハネによる福音書14章27節に記されています。私たちが使っている新共同訳聖書では「平和」と訳されていますがギリシア語原典では「平安」という意味でもあります。
イエス様の言葉にある「世が与える平安」とは戦争やいさかいなどが起きない平和な状態ということでしょう。確かにそのような状態であれば人は平安でいられると思います。心を騒がせることも、おびえることもありません。
それに対してイエス様は「世の中が乱れて混沌としていようとも私は平安を与える。心を騒がせるな。おびえるな。」と言われるのです。なぜイエス様はご自分を救い主と信じる人々に平安を与えることができるのでしょうか。
思い出していただきたいのですが、イエス様の母マリアが聖霊によって男の子を身ごもったことを知った婚約者のヨセフに天使が夢に現れて言った言葉です。天使はヨセフに『「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。』と告げました。これはマタイによる福音書1章23節に記されています。また復活されたイエス様は弟子たちに『わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』と言われて天に上られました。これはマタイによる福音書の最後に記されている言葉です。この言葉からわかることは、世の中が混沌とし、闇のように先行きが分からない状態であっても、イエス様が一緒にいてくださるので平安でいられるということです。
先ほどは司式者によってイエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受ける箇所が読まれ、私たちはそれを聞きました。イエス様は成人して公けの活動を始める前に洗礼を受けられたのですが、これはイエス様がどの様なお方かが明らかになる出来事でした。天使は夢でヨセフにイエス様がインマヌエル、すなわち世の終わりまで私たちと一緒におられるお方だと告げましたが、この洗礼において神が自ら人々にそのことを告げたのです。マタイによる福音書3章17節に『「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。』と記されています。イエス様はインマヌエルであるだけでなく、神自らがご自分の愛する子であること、そして神ご自身の心に適う者であることを人々に告げたのです。この「心に適う者」というのは父なる神が心から喜んでいることを表す言葉で、イエス様が御父の御旨を果たす使命を完全に実行するお方であることを意味します。
御父の御旨を知るために先ほど司式者によって読まれたイザヤ書42章1節から9節に聞きたいと思います。ここに記されているイザヤの預言は神と人とをつなぐ仲保者についてのものであり、具体的にはイエス様を指し示しています。1節に『見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。』と記されています。神がしもべを「わたしが選び、喜び迎える者」として人々に予告しています。しもべの上に神の霊が置かれ、国々の裁きを導き出します。つまり国々に正義をおこなわれます。
2節『彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない』。しもべは正義をおこなうのに非暴力的な方法で任務を遂行します。彼は叫ばず、語りません。
3節『傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする』。「傷ついた葦」や「暗くなってゆく灯心」は弱い人々、限界に達した人々がいまにも倒れることをイメージさせています。しもべはその弱さを共有しながらも沈黙のうちに忍耐強く耐え忍ぶのです。しもべは正義を確立するまで手を緩めることはありません。その正義は傷ついた葦を折ることも、暗くなってゆく灯心を消すことも拒む正義です。
4節『暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む』。しもべは島々すなわち世界の隅々に正義か確立されるまでその働きを続けます。
5節から9節で、神はご自分がこの世界をお造りになったことを告げ、しもべを立てたことが記されています。しもべは『見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出す』使命を受けました。しもべは弱い人々を助ける働きを担うのです。このしもべとはイエス様のことであり、イザヤ書のこの箇所に記されていることが神の御旨です。
しかしイエス様は『「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」』(マタイ10:34)とも語っています。この1節を根拠にイエス様は抑圧されている人々が解放されるためには武力も許されると考える人たちがいるように思います。しかしその理解は間違っています。ここでの剣は、戦争ではなく「切断や分離」を象徴しています。神の真理が語られるとき、それを受け入れる者と拒む者とが現れてしまうという現実を指しています。それでも主のしもべのように力ではなく粘り強く主の言葉を語ることが求められているのです。主の言葉が聞かれれば争いは収まります。
イエス様はご自分が捕らえられる時に弟子たちに「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」(マタイによる福音書26:52)と命じました。この言葉は、力による解決がさらなる破壊しか生み出さないという真理を私たちに示しています。イエス様がもたらす「剣」とは、あくまで真理による霊的・精神的な境界線であり、他者を傷つけるための物理的な武器ではありません。
神の正義は暴力によって達成されるのではないことがイザヤ書を通して示されています。イエス様の洗礼はイエス様がどの様なお方かを私たちに示すためのものでありました。それは「御父の心に適う」ことを全く完全におこなうお方であり、そのことを通してイエス様と御父はひとつであることを示すものです。
イエス様は私たちの罪を背負って死なれましたが、復活して天に上られました。このイエス様が聖霊によって私たちと共にいてくださいます。イエス様が私たちに与えてくださった平安はこの世のどのような状況においても復活のイエス様が共にいてくださる安心です。
この点が曖昧になると悲惨なニュースに不安を覚え、何もできなくなってしまいます。しかしキリスト者には平安が与えられているのですから悲惨な出来事に対峙して弱い者も生きることができる世界を実現する働きを担うことができます。今のような世界情勢の時にこそ私たちはこのことを思い起こしたいと思います。