1月18日礼拝説教「来て見れば、わかる」

聖書 イザヤ書49章1~7節、ヨハネによる福音書1章29~42節

イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。(ヨハネ1:39より)

「来て見れば、わかる」

イエス様は十字架につけられ死なれて、三日後に復活して弟子たちに現れた後、天に上られました。そのイエス様に出会ったり一緒に行動した人たちがいた頃はその人たちがイエス様の地上での歩みを証言していましたがだんだんと天に召されていくようになるとイエス様の地上での歩みを記録する必要が出てきました。ちょうど、敗戦から80年経った日本で戦争の記憶を語ることができる人が少なくなってきて、その人たちの証言を記録に残そうという動きが出てきているのと同じです。

それでイエス様の地上での歩みが文章で記録されました。それが新約聖書の最初の4つの福音書です。最初にマルコがいろいろな口頭で伝わっていた伝承を集めて福音書を書き、それをもとにマタイは独自の資料を用いてユダヤ人に向けて福音書を書き、ルカは別の独自資料を用いて異邦人に向けて福音書を書いたと考えられています。この3つの福音書はベースが同じなので内容が似ています。これらは同じ観点で書かれた福音書、共観福音書と呼ばれています。それに対してヨハネによる福音書は共観福音書とは異なる伝承資料を基にイエス様の歩みを記録したと考えられており、そのために他の3つの福音書とは内容が異なっています。しかし神の福音を伝えるという点では共通しています。

本日与えられたヨハネによる福音書1章29節から42節にはアンデレとシモンがイエス様の弟子になったことのいきさつが書かれていますが、これはマタイ・マルコ・ルカの共観福音書の弟子召命の記事とは異なっています。本日はヨハネによる福音書の記事を元にこの出来事から神の御心を尋ねたいと思います。

1章36節にバプテスマ(洗礼者)のヨハネはイエス様を「神の小羊だ」と弟子に証ししたことが書かれています。ヨハネは証人として、自分が目撃したことを他者に語り、世の罪のために自らの命を捧げる「神の小羊」を常に指し示した人です。ここで「子羊」とは神殿にささげられて人が犯した罪を神に赦していただくいけにえです。そして「神の子羊」とはイエス様がすべての人の罪を担い、父なる神が人を赦してくださるささげものとなられることを表しています。ヨハネはイエス様がそのようなお方であることを弟子たちに告げたのです。これは今日、礼拝している私たちに告げられています。小羊は人が罪を犯すたびに神殿にささげられなければなりませんでしたが、イエス様の十字架の贖いは信じる人の罪を清めてくださいます。すべての人の罪が償われたのですが、イエス様を救い主と信じられなければ、このことを悟ることは出来ず、その意味で信じていない人はいまだに罪の中にいるということになります。

ヨハネの証言は30節から34節まで続き、34節でヨハネはイエス様を「神の子」と証言しています。この言葉は先週私たちが聞いたマタイによる福音書3章17節にあった、「これは私の愛する子」という天からの声と響き合っています。

さて、その翌日、ヨハネがイエス様を見て再び「見よ、神の子羊だ」と言うと、二人の弟子はイエス様に従いました。弟子たちがイエス様に従うということから弟子への招きが始まっています。イエス様の第一声は問いのかたちで現れます。それはそれは、一見ありふれた問いでありながら、並外れた重要性を秘めた問いです。すなわち、38節にある「何を求めているのか」というものです。

イエス様の宣教は、マルコによる福音書のように悪霊を、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになり、人を悪霊から解放する力強い命令(マルコ1:25)から始まるのでもなく、マタイによる福音書のように暗やみに光を告げる預言者イザヤの言葉(マタイ4:15~16)から始まるのでもなく、あるいはルカによる福音書のように神の恵みの年を告げるイザヤ書の引用(ルカ4:18~19)から始まるのでもありません。それは一つの問いから始まるのです。『あなたがたは何を求めているのか?』 あなたは何を探しているのか? 何を必要としているのか?

これは、個人として、信徒として、そして神の家族の兄弟姉妹として、私たちが真剣に答えを探す価値のある問いです。なぜなら、私たちの「答え」こそが、私たちが見出すもの、そしてそこに到達するまでのいろいろな出来事に大きく関わってくるからです。

「あなたは、何を求めていますか? あなたを突き動かしているものは何ですか? 表面的なレベルではなく、あなたの存在の中心において、本当に必要としているものは何ですか? あなたは、何を探しているのですか?」

イエス様はヨハネの弟子二人にこの問いを投げかけています。ヨハネ福音書を読み進めると、群衆もまたイエス様を探していることがわかります。しかしその理由はまったく異なります。イエス様は群衆に『あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。』と言われました(ヨハネ6:26)。群衆はもう少しパンを食べたいと願っているのです。一方で、宗教的権威者たちはイエス様を殺そうとして探します(ヨハネ7:11、19、20、25)。

しかし、この二人の弟子は、群衆や権威者たちとは異なるものを求めています。二人はただイエス様と一緒にいたいのです。二人はイエス様の質問に自分たちの質問で答えます。ヨハネによる福音書1章38節です。「どこに泊まっておられるのですか?」。この『泊まる』という言葉はギリシャ語では「メノー」と言い、『とどまる』『残る』『耐え抜く』『持続する』『住まう』といった、永続性や安定性を意味する言葉です。

ヨハネによる福音書1章32節でバプテスマ(洗礼者)ヨハネは、聖霊がイエス様の上に『とどまる(メノー)』のを見て、イエス様がどの様なお方であるかを知りました。

また、ヨハネによる福音書6章27節でイエス様は群衆を満たすのに十分なパンを与えた後、人々にこう戒めました。『朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならない(メノー)で、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。』と言われました。

さらにヨハネによる福音書15章4節から10節のぶどうの木のたとえで、イエス様はご自身の中に「とどまる」者(メノー)の中に、自らも『とどまる(メノー)』と約束されています。

イエス様が「とどまる(メノー)」ところはどこでも、人々に信じる機会が与えられます。これはヨハネによる福音書4章40節のサマリアの女性との場面や10章40節のヨルダン川に滞在されている場面に示されています。

弟子たちがイエス様の問いに自分たちの質問で答えるとき、彼らはイエス様に滞在先の場所を尋ねているのではありません。彼らはこの神の子羊の永遠で不滅の住まいについて知りたいのです。どこに泊まってるのですか?どこで会えますか?どこへ行ってあなたと共に、あなたの差し出されるものを受け取ったらよろしいですか?私たちは神とともにどこにいることができるのでしょうか?これが弟子たちの質問「どこに泊まっておられるのですか?」の本当の意味です。

イエス様が発した「何を求めているのか?」という問いは、今、私たちに投げかけられています。物や財産を持ちたいという欲望に支配され、「モノ」を求めることによって生きていることの意味が満たされるかのように思われている現代において、イエス様と「弟子志願者たち」との間で交わされるこの問いの応酬は、現代のさまざまな状況の中で、様々な答えの可能性と、そしてイエス様が提示する答えを深く探求する機会を与えてくれます。

本日の箇所で特徴的な言葉は「見る」ということです。29節、33節、34節、36節に「見る」という言葉が用いられています。39節にはイエス様が「来なさい、そうすれば分かる」と言われたことが書かれていますが、原典では「来なさい。そして見るだろう」と書かれていて、ここにも「見る」が記されています。「見るだろう」とは単に見えるということではなく「わかる」ということが含まれています。41節の「わたしたちはメシアに出会った」の「出会った」は「見つけた」という言葉です。42節にはイエス様がシモンを「見つめて」と書かれています。このように多くの「見る」が積み重なることで、イエス様の招きである『来なさい。そうすれば見る』という言葉に一層の重みが加わっています。

イエス様は私たちに、「来て、見なさい。そうすれば分かる」と私たちを招いておられます。私たちがイエス様を知りたいなら、イエス様が宿られているところに来て、イエス様を見れば良いのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」ということを知りたいならば、もし愛がどの様なものか知りたいのなら、決して朽ちることのないパンで満たされたいのなら、生ける水で渇きを癒やしたいのなら、新しく生まれたいのなら、愛の中にとどまりたいのなら、世の光を仰ぎたいのなら、道・真理・命を経験したいのなら、永遠の命へと入りたいのなら、神の言葉である聖書が語られ、祈りがささげられているところに来て、イエス様を見つけてください。