礼拝ビデオ https://youtu.be/RBvwmzpxdr0?t=1203(西千葉教会HP 期間限定)
聖書 イザヤ書9章1~4節、マタイによる福音書4章12~22節
闇の中を歩んでいた民は大いなる光を見た。
死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝いた。(イザヤ書9:1)
「良いニュースを聞こう」
今日は年に2回の西千葉教会と土気あすみが丘教会との講壇交換礼拝の日です。西千葉教会によって土気あすみが丘教会が誕生してから今年で42年目を迎えます。長い年月を姉妹教会として歩むことができましたことを主なる神と皆さまに感謝いたします。
さて、昨今の世界や日本の政治状況は混沌としています。私たちの目には力によって世界を変えようとする勢力が勢いを増しているように見えます。マスコミやSNSには悪いニュースが沢山出回っています。悪いニュースは刺激に富んでおり衝撃的なので、それを見聞きしていると人は不安になり、将来に希望を持てなくなります。言葉は人を煽り、人は不安を増大させています。私たちは良いニュースを聞かなければなりません。気休めではない希望に満ちた良いニュースは私たちの心を平安にし希望を抱かせます。
本日与えられたマタイによる福音書4章12節から22節は「良いニュース」です。ご一緒に聞いてまいりましょう。バプテスマのヨハネは領主ヘロデによって捕らえられてしまい、イエス様はガリラヤに戻りました。そしてイエス様はガリラヤ湖の漁師の村カファルナウムに移り住みます。この単純なイエス様の行動に重要な意味が隠されています。それは旧約聖書イザヤ書に記されている預言者イザヤの言葉と関係しています。
マタイによる福音書4章15節と16節はイザヤ書8章23節のゼブルンの地とナフタリの地、すなわちカファルナウムを含むその地方一帯についての1節を引用しています。
「ゼブルンの地とナフタリの地/湖沿いの道、ヨルダン川の向こう/異邦人のガリラヤ、闇の中に住む民は/大いなる光を見た。/死の地、死の陰に住む人々に/光が昇った。」
ゼブルンの地とナフタリの地は「異邦人のガリラヤ」であり、そこに住む民は「闇の中に住む民」、「死の地、死の陰に住む人々」と呼ばれていました。そこに住む人々はイエス様の時代にあっても蔑まれていました。マタイによる福音書の「ゼブルン地とナフタリの地」はこのような地でした。イエス様は忘れられた人々、暗やみに住む人々と形容される人々のところに真っ先に福音「良いニュース」を伝えに行かれたのです。預言者イザヤの預言がイエス様のガリラヤ伝道によって実現しました。
イエス様の宣教の言葉は「悔い改めよ。天の国は近づいた」(17節)でした。「悔い改めよ」は「悪い事を悔いてそれをしないようにしなさい」という意味に受け止められがちですがそうではありません。これは神に背いて自分の思いや欲望によって生きている自らの罪を認め、神に立ち返りなさい」という意味です。神に立ち返るということがポイントです。
次にイエス様は「天の国は近づいた」と告げられました。「天の国」には神がおられます。目で見える境界線はありませんし、地図上に線を引くこともできません。そこは神の御心が行われているところです。イエス様は「天の国は近づいた」という言葉で「既に天の国はこの世界に現れあなた方の近くまで来ている」と告げています。
イエス様が洗礼を受けられた時、天が開き、「これは私の愛する子、私の心に適う者」(マタイ3:17)という声が天から聞こえました。この声はイエス様が神の子、すなわち父なる神とまったく同じ、同質のお方であることを示しています。そのイエス様が異邦人のガリラヤに来られたのです。そして福音「良いニュース」を告げ知らせ始めました。
私たちは高齢になると、出来ることがだんだん少なくなっていきます。体のあちこちが痛んだり機能が衰えてきます。あるいは施設に入所して一人で過ごすようになります。今までの交わりができなくなります。そのような人の所にイエス様はまっさきに来てくださいます。先日、私は数か月前に高齢者施設に入所した方にお会いしました。その方は家で家族と暮らしていた生活が突然変化して、一人で多くの時間を過ごすようになりました。訪問したときにこの箇所をお読みし、イエス様の言葉を届けましたところ、その方が「ガリラヤの風かおる丘で」を歌いたいと言われたので一緒に歌いました。1節の歌詞です。「ガリラヤの風かおる丘で、人々に話された恵みの御言葉を、私にも聞かせてください。」 歌い終わるとその方は「子育て中にいろいろな事情で十分に子供たちの面倒をみてあげられなかったけど、今、子どもたちが良く来てくれて話をしてくれる」と思い出したように嬉しそうに話してくださいました。この人は愛情が十分に子どもたちに伝わっていたことを思い出して喜んだのです。
若い方でも同じです。自分の能力の限界を感じたり、自分は必要とされていないのではないかと思っている人のところにイエス様は良いニュースを告げに来てくださいます。それを聞けば慰められ、励まされるのです。
イエス様はこの「良いニュース」をご自分一人で宣べ伝えるのではなく、弟子を招いて宣べ伝えさせるようになさいました。言葉によって「良いニュース」を伝え、闇を歩く人々が光を見て、光に照らされるようにするのは、人間的な考えでは、どう考えても効率の良い方法ではありません。神は全能ですから人の心を一瞬にして変えてしまうこともお出来になるはずです。しかし神の御心はそうではありません。コリントの信徒への手紙第一の1章21節に「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」と御心を明らかにされています。神は私たちをお造りになった時にご自分に象(かたど)って創造されたと創世記1章27節に書かれています。神は人の意思を尊重されているのです。宣教とは福音「良いニュース」を言葉によって伝え、それを聞いた人々が神を知り、神に出会い、そして光に照らされることです。
弟子たちを招いて宣教することは4章18節から22節のイエス様の呼びかけの出来事に象徴されています。イエス様はガリラヤ湖の岸辺でシモンとアンデレをご覧になり彼らを弟子に招きました。彼らはすぐに網を捨ててイエス様に従いました(20節)。同じようにイエス様はヤコブとヨハネを弟子に招き、彼らは舟と父親を残してイエス様に従いました(22節)。網を捨て、舟や父親を残してイエス様に従うというのは、それまでの生活を捨てて、イエス様の福音「良いニュース」を伝える働きに参加する新しい人生を歩むことを意味します。
私は神学校1年の聖書の最初の授業で、先生が「あなたは何年何月何日の何時に召命を受けたか」という問いを出されたことを思い出します。私は何度か召命を受けたと思っていましたが、この質問を受けて、決心した日時を思い出しました。それは2013年に神学校で行われた献身志願者の会の朝の礼拝の時でした。この18節から22節に記されていることは、こういうことではないかと思うのです。皆さんにとっては洗礼を受ける決心をした日がそうかもしれません。あるいはその決心を家族や牧師に語った日かもしれません。キリスト者にはそのような日時があるのです。暮らしは変わらなくても、イエス様と共に人生を進む決心をした日がイエス様の招きに応えた日です。
23節にはイエス様が異邦人のガリラヤ中を回って御国の福音を宣べ伝えたことが記されています。イエス様のそばには弟子たちが一緒でした。彼らもまた福音を宣べ伝えたことでしょう。
私は本日の箇所を黙想していて、エリーナ・ポーターが書いた『少女ポリアンナ』物語を思い出しました。この物語は「よかった探し」という言葉が有名です。ポリアンナは11歳で孤児となりお母さんの妹の家に引取られ、その人に冷たくされて苦しい毎日を送りました。しかし生前のお父さんとしていた「よかった探し」をして、いつも明るく元気に過ごし、周りの人を元気にしました。
この「よかった探し」はこんなことから始まりました。彼女のお父さんは牧師でした。お父さんはあるとき本当に憂鬱になってしまいました。そのときにお父さんは聖書の中に喜びの言葉をさがそうと思ったそうです。もちろん聖書にはそういうふうには書いていませんが『主によって喜べ』とか、『大いに喜び踊れ』とか、『喜びの声をあげよ』とか、そういう言葉で始まる聖句を数え始めたのです。時代は1910年頃ですから聖書は印刷したものしかありません。その聖書の中から喜びの言葉を探したら、800もあったそうです。お父さんはポリアンナに、「神がわざわざ800回も私たちに喜べ、嬉しがれ、と言ってくださっているということは、私たちにそれを望んでいるからにちがいない」と言って、よかった探しを始めたのです。このことがポリアンナを助け、支え、知らず知らずのうちに周りの人たちに良い影響を与えました。 こういうお話です。
ポリアンナがお父さんと一緒に「よかった探し」ということを始めたのは聖書の言葉があったからで、お父さんとポリアンナが福音「良いニュース」を聞いたからです。
この本に触発されて寝る前にその日の良かったことを3つノートに書いている人がいます。その日が何もなかった日ではなくて良かったことがあった日だったことを思い出して喜びのうちに眠ることができるそうです。
誰でも自分の中に嫌なところや捨ててしまいたいところを持っています。人間は完全ではないからです。イエス様は異邦人のガリラヤに行かれたように、私たちの中の嫌なところや捨ててしまいたいところに行き、そこを福音の光で照らしてくださいます。そうすると自分のそういうところを個性として受け入れることができるようになる。本日の御言葉にはこのような広がりがあります。
「悪いニュース」はテレビやインターネットに氾濫しており、人々を欺き、不安にさせ、互いを分断させる力となっています。戦争の危険が迫っているようなニュースが人々を煽ります。それらの悪いニュースを聞いて、未来を悲観してしまいます。何もできない無力さに打ちひしがれ、仕方がないと諦めるしかないような人々に福音「良いニュース」がもたらされます。私たちは「良いニュース」を聞きましょう。そして毎日は何もなく過ぎ去るのではなく、今日よかったことがあったことを思い出したいと思います。そのような生き方は、神を愛し、自分を愛し、隣人を愛し、そしてそのことによってこの社会は神の御国へと変えられていきます。イエス様が私たちの前を進んで「良いニュース」福音を告げておられます。