聖書 ミカ書6章6~8節、マタイによる福音書5章1~12節
人よ、何が善であり主が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。(ミカ6:8)
「幸いはここに」
若い人にとってどのように生きるかは大問題ですが、高齢になってもどのように生きるかは依然として大きな問題です。私たちは両親や出会った人たちを通してどのように生きるかを教えられて生きてきましたが、こう生きれば良いという確信を持って生きているわけではありません。詩人の高村光太郎は「僕の前に道はない、僕の後ろに道は出来る」という詩を書きました。世の多くの人が共感するのではないかと思います。何十億の人がいようとも一人ひとりの人生はその人ただひとりのものです。誰もこう生きれば良い、と教えてくれる人はいません。人生の分かれ道で決断しなければならない時には心細くなるものです。聖書は一人ひとりの人生を手取り足取り導いてくれる指南書ではありませんが、喜びをもって生きるための知恵がたくさん書かれています。その言葉に出会ったならば、決断の時にも正しい決断をすることができるでしょう。
ミカ書6章6節から8節に聞いてまいりましょう。6節と7節には神殿に高価なあるいは唯一の献げ物をして神を喜ばせようとする人の姿が描かれています。神に受け入れてもらうためなら自分の息子をも献げようとする究極の切羽詰まった姿まで描かれています。しかし神はその行為を否定して次のように言われます。8節です。「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている」と。そして8節後半でそれが何であるかを明かしました。「正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。」こういう言葉です。これが、神が人に求めている生き方です。この3つは奥が深いと言いますか、ひとつひとつに深い意味が隠されています。
正義を行うこと
当時のユダ王国では権力者が立場が弱い人を利用して、自分だけ得をしてぜいたくな暮らしをし、それを裁く法廷も正しいかどうかより、権力がある方の味方をする場所になっていました。つまり力のある者が社会や人々を自分のモノにしてしまっていたのです。このような状況にあって神が言われる「正義を行う」とは、「権力者や一部の人が好き勝手できる世の中をみんなが納得できる場所にする具体的な行動」のことです。「みんなが」というのは特に弱い立場の人々です。旧約聖書にはそのような立場の人々の代表として孤児とひとり親と寄留者が記されています。現代日本でも特に弱い立場の人たちは当時と同じ状況に置かれていると言えます。
イエス様はこの正義を行うことについて、どのように弟子たちに教えたでしょうか。マタイによる福音書5章6節に「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」と記されています。義に飢え渇く人々とは虐げられている人々や人権が踏みにじられている人々です。食べる物がない人々、弱い人々がそうです。イエス様は幸いだと言ってその人たちを祝福されています。神はその人たちを心に留めておられます。決して無視したり放っておいたりはなさいません。その人たちは時が来れば満ち足りるようになる、つまり奪われていた自由や安心を得て一人の人間として大切に扱われるようになるという約束の言葉です。
また10節に「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」と記されています。イエス様が言われる「義」とはミカ書で言うところの「正義」です。弱い人々と共に生きようとする人々が迫害されることがあります。その人々は口にすることができないほどの悪口を浴びせられることもあります。イエス様はその人たちに幸いだと言われ、「天の国はその人たちのものである」と教えました。なぜなら迫害は「義」の証明だからです。
1月26日、先週の月曜日に日本基督教団は他の団体と共同で『衆議院選挙にあたり排外主義の煽動(せんどう)に反対する緊急共同声明』を発表しました。声明を出す背景と理由を述べた後に、「総選挙にあたり、各政党・候補者、政府・自治体、報道機関が排外主義を煽動(せんどう)しないように求める」という声明が書かれています。文末には次の文章が記されています。「国籍、民族によって差別されず、誰もが人間としての尊厳が保障され、未来に希望を持ち、平和に生きる共生社会を作っていきたい。そのために、私たち一人一人が、選挙における差別の煽動を放置せず、声をあげることを訴えます」。このような文です。声明文の全文は日本基督教団のホームページに掲載されています。
これはキリストの教会が正義を行うことの具体的な取り組みの一つだと思います。外国人が増加することに恐怖を感じる人々から批判や攻撃を受けることに怯(ひる)むことなく意見を公けにしたのです。この声明が元で迫害やバッシングが起きたならば、それは真実の証です。つまり迫害は世の流れに迎合せず、神の側の原理で(神に御旨に)生きていることの動かぬ証拠です。12節に「昔の預言者たちも同様に迫害された」とある通り、迫害を受けることは神の御計画の正統な流れに身を置いていることを意味します。このことを「大いに喜びなさい」(12節)とイエス様は仰っています。
慈しみを愛すること
2つ目は慈しみを愛すること。慈しみはヘブライ語で「ヘセド」と言い、これは神との契約に基づいた強い愛を意味します。これは義務感からではなく、神の無償の愛に応える喜びとして、他者を慈しみ、一緒に生きることです。
イエス様はこの慈しみを愛することについて、どのように弟子たちに教えたでしょうか。マタイによる福音書5章7節に「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」と記されています。ここに使われている「憐れみ深い」という言葉は新約聖書の中で2回しか使われていません。他にはヘブライ人への手紙2章17節「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となった」と記されているようにイエス様に使われる言葉です。憐れみ深い人はイエス様がなさったように、弱い人や助けを必要としている人を無視することなく、その人々に手を差し伸べる人です。イエス様はその人たちを幸いだと祝福されています。「その人たちは憐れみを受ける」とイエス様は仰っていますが、これは未来形で書かれています。つまりその人たちは時が来れば憐れみを受けることが約束されています。「時が来れば」というのは凄いことだなと私は思います。イエス様の約束を信じる人は神の憐れみを受けることができます。しかし今すぐに報酬が欲しい人は憐れみ深くしていても、時が来るのを待ちきれずにそのような行動をやめてしまうかもしれません。約束を信じて憐れみ深い行いを続けることをイエス様は求めておられるのです。
へりくだって神と共に歩むこと
3つ目はへりくだって神と共に歩むこと。前の2つは他者との関係における生き方でしたが、これは神との関係における生き方です。自分の力を誇らず、絶えず神の御心を問いながら生きることです。「歩む」という言葉には礼拝の時だけへりくだって神と共にあるということではなく、日常のそれぞれの人の置かれた場所でへりくだって神と共にあるということが含まれています。
イエス様はこのへりくだって神と共に歩むことについて、どのように弟子たちに教えたでしょうか。マタイによる福音書5章3節に「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」と記されています。「心が貧しい」とは、自分の内側に神に差し出せるような立派なものが何一つないと自覚し、神の助けなしには一歩も進めない状態を指します。これは言い換えれば、自分を卑下し生きる力を失った状態のことです。自分の力ではどうすることもできなくなることってあるじゃないですか。皆さんの中にはそのような経験をした方がおられることだと思いますし、私はその一人でした。今も時々、その病にかかることがありますが、今ではイエス様に祈って助けを求めることができます。もう自分の力ではどうにもならない、白旗を上げて神さまに降参するしかありません。しかしそうすることで不思議と平安が得られるのです。この平安はまさに天の国、神の国で得られる平安の先取りです。イエス様はこのことを「幸いである、天の国はその人たちのものである」と仰っています。
4節の「悲しむ人」も5節の「柔和な人」も8節の「心の清い人々」も9節の「平和を実現する人々」も同様です。悲しむ人は天の国で、あるいはその先取りとしてこの地上において慰められます。柔和な人というのは心の優しい人のことです。自分の力で現状を打破しようと暴れるのではなく、すべてを神の支配に委ね、神に対して謙虚です。柔和は弱さではなく従順さです。慢心や強欲を捨て、神の主権に全面的に依り頼む生き方こそが、最終的に永遠の安息を勝ち取ります。このことをイエス様は「その人たちは地を受け継ぐ」と言われています。
「平和を実現する人々」は単なる「平和主義者」や「穏やかな人」ではなく、壊れた関係を修復し、和解のために具体的に動く「平和の創出者」を指します。「平和をつくる者」は、神の最も崇高な「愛と和解」を地上で体現する存在です。それゆえに、その人たちは神の家族として認められるという特権を授かるのです。
楽して生きたいと思うのは悪魔の罠
神さまは金持ちになる生き方や楽に生きる方法を教えてはいません。これこそ悪魔がイエス様を誘惑した罠(わな)ではないかと思います。マタイによる福音書4章に悪魔の誘惑の言葉が3つあります。第1は「食べ物に困らないようにしなよ」という誘惑、第2は「何しても大丈夫なんだからやってみな」という誘惑、第3は「全世界をあなたにあげるよ」という誘惑です。なぜこれらの生き方が私たちを駄目にするかと言えば、悪魔はすべての人にこの誘惑の言葉を語りますから、その誘惑に目がくらんだ人たちは働かずに暮らして人のものを欲しがるようになり、争いが起きて遂には誰も安心して暮らせなくなってしまうことは明白だからです。
神に知られている幸い
ある方がこのような証しをされました。『私は心の貧しい人間だと自分を卑下していました。力がないのに力を誇示しようとしていました。何とかまわりの人から認められなければ存在価値がないと思っていました。しかしイエス様の「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」という言葉を聞いて、私のような卑屈な人間でも神さまは覚えていてくださることを知りました。私は喜びの涙を流して心から神に感謝しました。イエス様が心の貧しい私のことを知っていてくださるのです。これ以上の幸いはありません。』このような証しです。
私たちの生き方について聖書の御言葉を通して思いめぐらしてきました。ミカ書6章8節の言葉「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと」には深い意味がありました。神の裁きや罰を恐れてそれに遭わないように生きるのは、いわば後ろ向きの生き方です。その生き方には喜びや希望はありません。悪魔の誘惑にさそわれて刹那的な喜びを求めれば人生の先行きは闇です。しかし預言者ミカが告げた神の言葉やイエス様の言葉のように生きるならば人生を前向きに生きることができ、喜びや希望は失われることがありません。