聖書 イザヤ書58章1~10節、マタイによる福音書5章13~20節
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」(マタイ5:13~16より)
「地の塩、世の光とは」
先週の礼拝で私たちはマタイによる福音書5章1節から12節の「8つの幸い」の箇所を味わいました。そして今日はそれに続く13節から20節の「地の塩、世の光」の譬えとイエス様が旧約の律法を完成させるお方であることを知らせる箇所が与えられました。
山上の説教は私たちが生きるこの世界の現実の姿を描き出しているといえます。すなわち3節の「富に対する貧しさ」の対比、4節の「失うことと悲しみ」、5節の「抑圧する者と抑圧される者」、「持つ者と奪われた者」の対比、6節の「不正義と正義」、7節の「慈しみと残虐さ」、8節の「清らかさと汚(けが)れ」、9節の「戦争と平和」、そして10節から12節の「迫害と報い」の対比が刻み込まれています。私たちはこの世界の目に見える現実に戸惑うことなく、目に見えない神の支配とイエス様の約束を信じてこの世界を神の国へと変えていく生き方を選び取りたいと思います。
イエス様は、山上の説教で弟子たちに「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」という驚くべき言葉を告げました。主は「塩になりなさい」とか「光のように努力しなさい」と命じられたのではありません。「あなたがたは、既にそうである」と、私たちの存在の本質、つまり私たちは何者かということを示されたのです。私たちは、イエス様によって救われたときから、この世界の腐敗を防ぐ「塩」となり、暗闇を照らす「光」としての存在意義を与えられました。「あなた方キリスト者とはどういう存在ですか」と問われた時に、私たちはあるがままの姿で「地の塩、世の光です」(マタイ5:13~14)と答えることができます。
本日与えられたイザヤ書とマタイによる福音書の御言葉を通して、私たちがこの時代にどのように「地の塩、世の光」として歩むべきかを共に分かち合いたいと思います。
「地の塩」としての義と憐れみ
まず、「地の塩」について考えてみたいと思います。 当時の塩は、現代のような精製された純粋な塩ではなく、多くの不純物を含んだ岩塩でした。塩分が溶け出してしまうと、形は塩のようであっても、もはや味はなく、腐敗を防ぐ役目も果たせません。主はそれを「もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」(13節)と厳しく戒められました。
では、キリスト者にとっての「塩気」とは何でしょうか。 それは、預言者ミカが語った言葉に集約されます。ミカ書6章8節です。「人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである」。
塩は、自らが溶けて見えなくなることによって、食べ物に味をつけ、肉や魚が腐らないようにします。同じように、私たちが、自分の名誉や財産を誇るのではなく、神の前にへりくだり、目立たないところで「正義(義)」と「慈しみ(憐れみ)」を神の御旨として当たり前に実践する時、私たちは「地の塩」なのです。
「世の光」としての解放と分かち合い
次に、主は「世の光」について語られました。「山の上にある町は、隠れることができない」(マタイ5:14)と主は言われます。光は、暗闇が深ければ深いほど、その存在を鮮明にします。どんなに小さなあかりであっても、真っ暗闇の中では人々に希望を与え、進むべき道を指し示します。
この「光」の具体的な姿を、預言者イザヤは58章において見事に描き出しています。当時のイスラエルの民は熱心に断食をしていました。しかし、神は預言者イザヤを通して、「見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし/お前たちのために労する人々を追い使う。見よ/お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし/神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては/お前たちの声が天で聞かれることはない。」と告げ、そのような断食を喜ばれないことを示しました。イザヤ書58章3節と4節です。
神が喜ばれる「真の断食」、すなわち「世を照らす光」となる生き方とは、「悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと」です。これはイザヤ書58章6節、7節に記されています。
私たちが自分の「パン」を分かち合い、他者の「痛み」を自分のこととして受け止める時、イザヤ書58章10節に約束されているように、「あなたの光は、闇の中に輝き出で/あなたを包む闇は、真昼のようになります。」
真珠湾からゴルゴタへ ―― 淵田美津雄の回心
かつて太平洋戦争の開戦時、真珠湾攻撃の飛行隊総指揮官として「トラ・トラ・トラ(我、奇襲に成功せり)」という電信を打った軍人がいました。淵田美津雄(ふちだ・みつお)氏です。彼は軍人として、人々を守るために命を懸けて戦いました。
しかし、敗戦を迎え、彼を待ち受けていたのは過酷な現実でした。戦後は、あんなに熱烈に自分たちを支えてくれた国民から一転して迫害を受け、石を投げられることさえありました。彼は「自分が信じ、守ろうとしたものは何だったのか」と深い人間不信と暗闇の中に陥りました。
そんなある日、彼は一人の米国人女性のことを知ります。彼女の両親は日本軍によって処刑されましたが、彼女は日本人捕虜に対して、献身的に尽くしました。なぜそんなことができるのかと、捕虜になった人たちは不思議でした。あるとき彼女はその理由を説明しました。それは、彼女の両親が死の間際に、自分たちを殺そうとする日本軍兵士のために「父よ、彼らをお赦しください。」と祈ったからだというのです。
淵田(ふちだ)氏は衝撃を受けました。そこには、武力による勝利でも、憎しみによる復讐でもない、全く別の「光」がありました。彼は聖書を読み始め、ついにルカによる福音書23章34節の十字架の上のイエス様の祈りに到達します。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」という祈りです。
「真珠湾」で奇襲攻撃の号令をかけた男が、十字架の前にひざまずきました。彼はキリストの贖いによる赦しを受け、完全に変えられました。福音という「希望の光」を伝える伝道者として世界中を駆け巡りました。
彼は「闇」の中から引き出され、「世の光」へと変えられました。彼の著書『真珠湾からゴルゴタへ』は、憎しみの連鎖を断ち切る唯一の力は、キリストの愛による赦しであることを今も私たちに証ししています。受付にこの冊子を置いていますので、ご興味のある方は、お持ち帰りになり、ご自宅でその不思議な神の御業を味わってください。
現代の暗闇と、私たちの行動
今や、世界中で「軍事力による安全保障」を唱える声が大きくなっています。「敵がいるから、もっと強い武器を持たなければならない。守らなければならない」という風潮が、私たちの心を支配しようとしています。
しかし、敵は私たちの内側にある「恐れ」と「不信」です。「集める者は恐れ、分かち合う者は平安です」。自分の安全のために富を増やし武器を蓄えようとする者は、それを失うことを常に恐れなければなりません。しかし、預言者イザヤが説いたように、自分のパンを飢えた者と分かち合い、隣人の重荷を共に担う者は、神が与えてくださる真の平安の中に生きることができます。
イエス様は、当時の価値観とは正反対の「幸い」を語られました。「柔和な人々は、幸いである」「平和を実現する人々は、幸いである」と。これこそが、世の腐敗を食い止める「塩」の働きであり、絶望の闇を照らす「光」の輝きです。
私たちが「敵」を愛し、迫害する者のために祈る時、私たちは神の子としての本質を現します。それは政治的な駆け引きや軍事力よりも、はるかに強力に世界を変革する力を持っています。
主は言われます、「あなたがたは地の塩である、世の光である」。私たちは、自分自身の力で光ろうとする必要はありません。源であるキリストが、私たちの内に住んでおられるからです。礼拝が終わると私たちはそれぞれの場所へ遣わされます。それぞれの遣わされた場所で、世間から見れば小さく、溶けて見えなくなるような「塩」の実践や「光」の実践が神の国の味わいをこの地に広げます。