2月22日礼拝説教「退け、サタン」

聖書 創世記 3章1~7節、マタイによる福音書 4章1~11節

イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」(マタイ4:10)

「退け、サタン」

本日は創世記3章の「蛇の誘惑」とマタイによる福音書4章のイエス様へのサタンの誘惑の箇所が示されました。人間以外の動物は目の前にエサがあれば食べる、敵がいれば逃げるといった本能に基づく反応によって生きています。しかし人間は意思をもっているために誘惑を受ける存在です。

誘惑に直面した際に人はどのように立ち向かえばよいでしょうか。心理学、行動科学、人間工学などの知見によって対処する方法があります。たとえば、スマホを意図的に隠すことでいつまでも触ってしまう誘惑から自分を遠ざける方法があります。また、たとえばタバコを吸いたくなったら飴を口に入れるといったようにあらかじめ誘惑の対処法を決めておく方法があります。さらに、湧き上がってきた欲求を観察することで欲求を鎮めるマインドフルネスという方法があります。あるいは「10分待ってから行動する」と自分に言い聞かせることで脳のドーパミン分泌(ぶんぴつ)が沈静化する時間を稼ぐという方法も提案されています。ところがこの対処法でも誘惑を退けることはできません。なぜなら努力には限界があり一人では対処できないほど誘惑は強いからです。人は落ち込むか開き直るかしかなくなります。これらの方法が悪いという訳ではありませんが、真に必要な対処法ではないといえます。

まず人が誘惑に惑わされてしまう本質的な問題を創世記3章の「蛇の誘惑」から受け取りたいと思います。ここには人間が誘惑にそそのかされる様子が描かれています。少し丁寧に読んでいきましょう。1節に誘惑者としての蛇が登場します。蛇は女に「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」という言葉でエバに接触しました。この言葉は人を誘惑するきっかけを作る言葉です。心の中に聞こえてくる声の場合もあります。

蛇のずる賢い問いに対してエバが答えた2節と3節の言葉は神さまの戒めと3つの点で異なっています。第1に、エバは神さまが与えた自由を制限しています。つまり、神は「園のすべての木から取って食べなさい。」と人に豊かな許可を与えていますが(2章3節)、エバは「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。」と答えて「すべて」という言葉を省略しました。この言い換えにより、神の寛大な許可が規則としての許可に変わってしまいました。

第2に、エバは神様の禁止の戒め「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。」(2章17節)に「触れてもいけない」という戒めを勝手に加えて神を慈しみ深い父ではなく厳しい管理人にしてしまいました。

第3に、神さまの「食べると必ず死んでしまう。」という条件なしの断定の言葉を、エバは「死んではいけないから」と言い変え、「死ぬ恐れがある」という可能性の言葉に変えてしまいました。これが大きな違いです。またこの言い換えによって、条件なしの神の禁止命令が「死なないために食べるな」という条件つきの禁止命令に変わってしまい、条件が変われば食べても良いということになってしまいました。このエバの言葉は蛇に付け入る隙を与えました。

4節と5節に蛇の言葉が書かれています。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」この言葉はエバが神の命令をあいまいにした隙を突き、神の愛を悪意に塗り替えるという極めて巧妙な心理戦を仕掛けています。これも3つのポイントがあります。第1に、蛇は「決して死ぬことはない。」と言って死を完全否定しました。これはフェイク(偽り)ですが、エバの「死んではいけないから」と言う言葉に取り入って「神はあなたがたを脅しているだけだ」という疑念を抱かせました。

第2に、蛇は「それを食べると、神のように善悪を知るものとなることを神は知っている。」と言って、神が食べることを禁じた理由を人間のためではなく、神が自分の地位を独占したいためであるとすり替えました。神を「恵み深い父」から、「人間が自分と同等になるのを恐れる独裁者」へと変えたのです。

最後に、「神のように」と言う言葉で人が「神に従う者としてではなく、自分自身で善悪を決定する者、すなわち神そのものになれる」と誘惑しました。ここでの蛇の言葉「善悪を知る」とは、単なる知識ではなく「何が正しく、何が間違っているかを自分で裁定する権能」を指します。

この蛇の言葉で善悪の木はエバの目にとても魅力的なものに見えてきました。蛇の誘惑を受ける前までその木はエバの関心を引くことはなかったのですが、今や「その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるようにそそのかしていました。」(6節)。エバは蛇の誘惑に惑わされてしまったのです。それでエバは「実を取って食べ、一緒にいたアダムにも渡し彼も食べました。」(6節後半)。

7節に「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」と書かれています。「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知った」というのは「無知から脱却した」とか「自己意識が芽生えた」という良いことのように見えますが、これは「祝福」ではなく「呪い」の始まりでした。何が問題だったのでしょうか。実際に開いた目は、神のようになって善悪を知る目ではなくて、自分たちの惨めさを確認するための目でした。また、もともとは「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」(2章22節)のが、裸であることを「恥」と感じ、隠さなければならなくなりました。ありのままの自分を見せることができなくなり他者の視線を恐れるようになったのです。さらに、「互いを守り合う関係」から、「自分を守る関係」へと変わってしまいました。この後、二人は神の足音を聞いて隠れます。誘惑に惑わされた結果として得た知恵とは、結局のところ「愛する神から逃げ、自分を偽ること」でしかありませんでした。

このように見ていきますと、エバは、そしてアダムは、神の戒めをそのまま受け取っておらず、自分で解釈してしまった。それでずる賢い蛇の誘惑に引っ掛ってしまったということが分かります。これは誘惑が非常にずる賢いものであり、そして人間が誘惑に弱い存在であるということを物語っています。

わたしたちはこの二人と同じ人間です。弱くて誘惑に抵抗しようとしても、抵抗しきれなくていつの間にか誘惑の魔の手に堕ちてしまう存在です。救われる道はあるでしょうか。

このことについて考えるために、マタイによる福音書4章のイエス様が受けられた誘惑に目を向けたいと思います。この箇所に記されたイエス様への3つの誘惑は人間が直面するあらゆる誘惑の根源を示しています。つまりイエス様が打ち勝った3つの誘惑に対抗する知恵を私たちが身につければどのような誘惑も跳ね返すことができるということです。

イエス様は聖霊に導かれて荒れ野に行かれ、40日間断食をしました。これは悪魔から誘惑を受けられるためでした。最初の誘惑は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」というものでした。イエス様が神の子であることを前提とした誘惑です。死にそうなくらい空腹になっているイエス様を「父なる神に従うことではなく、自分のために力を使うように仕向ける」誘惑です。しかもイエス様は望めばそのことがお出来になります。

この誘惑は私たちの「アイデンティティ、つまり自分が自分である存在価値」を攻撃しています。人は存在していることにおいて価値があるのに何かの成果を出さなければ価値がないと思わせるすり替えがおこなわれています。

これに対し、イエス様は申命記8章3節を用いて誘惑を退けられました。申命記8章3節にはこう書かれています。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」。イエス様が語らなかった申命記の部分にイエス様の苦しみと飢えのことが書かれています。イエス様は「たとえ飢えても、神の言葉によって生きる」ことを選ばれたのです。自分の力を見せて飢えから自分を救おうとするのではなく、父なる神の御旨に従うという決断が示されています。神の言葉をそのまま告げ、それを保つことを決断することによってイエス様は誘惑をはねのけられました。

次の誘惑は悪魔がイエス様を神殿の屋根の端に立たせて、「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」と、詩篇91篇11節と12節を引用して誘惑しました。もちろんイエス様が飛び降りれば天使たちがイエス様を支えるでしょう。悪魔は、イエス様に「十字架という苦難」を飛び越えて、一気に「救い主」という栄光の着地点へ到達せよと誘惑したのです。

この誘惑は私たちにとっては、地道な日常生活での信仰ではなく、他者の目に映る華々しい行いによって自分の価値を認めさせようという自己顕示欲を刺激します。「これほど祈っているのに、なぜ私の人生は好転しないのか」と不満を抱くとき、それは神を試しています。これは神との主従関係を逆転させ、神を「自分の安全を保証するための道具」に仕立て上げる不信仰だといえます。「極限状態に自分を追い込めば、神が魔法のように解決してくれる」という勝手な思い込みは、神さまが与えてくださった責任ある自由を放棄することです。

この誘惑に対してイエス様が「あなたの神である主を試してはならない」と申命記6章16節を引用して言われたとき、イエス様は「神は、私の要求に応えるから神なのではなく、たとえ私が地面に打ち付けられるような状況にあっても、なお主である」という真理を貫きました。この誘惑に勝つことは、私たちにとって「神を利用して自分を大きく見せる」という自己顕示欲から解放し、「ただ神を神として信頼する」という真の自由を得ることを意味します。イエス様はこの場合も御言葉によって誘惑を撃退されました。

最後の誘惑は『イエス様を非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」』というものでした。イエス様の使命は「被造世界を救うこと」でした。悪魔は「十字架という苦難の道を通らなくても、私と一度手を組むだけで、今すぐ世界を平和にし、救うことができる」と持ちかけたのです。

私たちの人生においても、「良いこと(成功、家族の幸せ、社会貢献)」を成し遂げるために、誠実さや魂を売るような「近道」を提示されることがあります。この誘惑は、「結果がすべてである」という功利主義的な考えを植え付けようとしています。また所有することに執着する生き方は神を忘れ、欲望の深淵に落ちていくことになります。

イエス様はこれを拒絶することで、「何を持っているか(権力)」ではなく、「誰に仕えているか(関係性)」こそが人間の真の価値の土台であることを示しました。悪魔に仕えて得られる世界は、結局のところ、悪魔の支配下にある「牢獄」でしかありません。

「退け、サタン」という命令は厳しい審きの言葉です。悪魔が誘惑した「パン」、「名声」、「権力」は、どれも「これを持っていれば幸せになれる」という外的な物によって自己を価値あるものにする誘惑でした。イエス様は「退け」という言葉によって、状況や欲望に流される存在ではなく、神の御心を選択する主体的な存在を選び取ったのです。「退け」という言葉に続く『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』という申命記6章13節の言葉が人間の目標を示しています。悪魔はイエス様がこの3つの誘惑に打ち勝たれたのでイエス様から離れ去りました。

誘惑を退ける力の源泉は神の愛にあります。それは恵みと戒めです。聖書を通して神との関係を正しくしていれば誘惑のささやきが聞こえても大丈夫です。御言葉が与えられているのですから、それに従うことを選べば悪魔は離れ去ります。

もし仮に誘惑に負けても悔い改めて主を求めれば主は赦しを与えてくださいます。自分の知恵で誘惑に立ち向かうのではなく、祈りつつ御言葉によって誘惑を退けたいと思います。神に従うことを決断し、「退け、サタン」と声に出して言えばサタンは去っていきます。