聖書 創世記12章1節~4節 ヨハネによる福音書3章1~17節
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)
「永遠の命を得るために」
私たちは社会に出て働くようになると、富、名誉、身分、健康、長寿などを手に入れたいと願うようになります。このような願いを持つこと自体は悪いわけではありません。それを手に入れるために一生懸命努力することで結果的に社会の福祉や豊かさに貢献することもあるからです。
創世記に出てくるアブラハムを現世的利益という観点で調べると、彼は土地、子孫、名声、そして物質的な繁栄という現世的利益を手に入れた人物であることが分かります。これはイエス様がニコデモに語った永遠の命という霊的利益をあらかじめ示す出来事でした。
ヨハネによる福音書3章1節から17節に聞いてまいりたいと思います。イエス様の時代にニコデモという最高法院の議員がいました。最高法院の議員は今でいえば国会議員と最高裁判事を兼ね備えたような高い地位の人でした。ファリサイ派に所属していて、信仰的にも尊敬される人物でした。このような地位や名誉を持っていたニコデモは現世的利益を手に入れた人でありました。ファリサイ派というのは旧約聖書の律法を厳密に守って生活する人々でした。そしてニコデモはその生活ぶりでも人々の尊敬を勝ち得ていました。
そのような彼の日常にイエス様が現れました。彼の知識や経験では理解できないことがイエス様の周りで起きていました。イエス様は各地でしるし、すなわち奇跡をおこない、多くの人がイエス様を信じるようになっていました。ニコデモは密かにイエスがどの様なお方かを知りたいと思っていました。しかしファリサイ派に属する議員と言う身分のため白昼堂々とイエス様に会うことはできませんでした。同じ派の人々の目が気になったのだと思います。それで夜にイエス様のもとに来ました。そしてイエス様との問答が始まります。2節にニコデモがイエス様に言った言葉「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」はニコデモがイエス様につまずいていることを示しています。イエス様の行うしるしは人間業ではないし魔法でもないことを理解しています。ファリサイ派の人間として「イエス様を神の子と認めることは決してできない」という信念と、イエス様が行ったしるしは神によらなければ起きないという現実の狭間にニコデモは立たされています。
イエス様の答えは「そうだ」でも「違う」でもなく「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(3節)というものでした。イエス様はニコデモを信仰に導こうとされています。「新たに生まれなければ」の「新たに」は原典では「新しく」という意味と「上から」と言う意味があります。ニコデモはイエス様の言葉を「新しく生まれる」と理解しました。しかしイエス様は「上から生まれる」に重きを置いて語ったと思われます。上とは聖霊。つまり、「人は聖霊から生まれなければ神の国を見ることはできない」とイエス様は言われたのです。ここで「生まれる」は受動態ですので「生まれさせられた」と理解した方が良い言葉です。ですからイエス様は「人は聖霊から生まれさせられなければ神の国を見ることができない」と言われたということが分かります。この言葉を肯定的に表現すれば「人は聖霊から生まれさせられれば神の国を見る」というニコデモを信仰に導く祝福の言葉であることが分かります。
このイエス様のニコデモへの言葉は、アブラハムに主なる神が「私が示す地に行け」(創12:1)と言われた命令に匹敵するものです。「聖霊から生まれさせられる」とはニコデモが自分の持っている律法の知識やユダヤ人という誇りを捨て、イエス様を救い主と信じて神の愛に生きる信仰的決断です。それは訳の分からないところに出発する「飛躍」です。
イエス様とニコデモとの問答は続き、イエス様は今度ははっきりと「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(5節)と告げました。厳しい言葉ですが、これも肯定的に表現すれば「だれでも水と霊とによって生まれれば、神の国に入ることができる」となり、ニコデモに対する祝福の言葉であることがわかります。霊の誕生は肉の体が変化するわけではありませんが、心はまったく清められて神の声を聞く者となります。
イエス様がニコデモを行いではなく神を信じることへと招いているのに、ニコデモは理解できません。ニコデモは「どうして、そんなことがありえましょうか」と反論しました。これはニコデモが混乱していることを示しています。イエス様の言葉が理解できないのです。
イエス様は10節から13節の言葉で「分からないのか」とニコデモを裁いています。裁きの言葉は同時に救いへの招きの言葉です。イエス様はここで「自分は天から降ってきた者」すなわち「神の側にいる者」であるとご自分を明らかにしています。
14節の「モーセが荒れ野で蛇を上げた」(民数記21章)というのは出エジプトの民が荒れ野を歩いていた時に砂漠の毒蛇に噛まれた際、モーセが掲げた「青銅の蛇」を仰ぎ見た者は皆助かったということを示しています。これはイエス様が十字架に上げられ死んで復活した後に天に上げられることが必然だということを示すイエス様の言葉です。ニコデモは「どうすれば(何をすれば)神の国に入れるか」という方法に囚われていました。それに対しイエス様はこの比喩(青銅の蛇)を通して救いの方法を提示しました。青銅の蛇を見上げた民が自分の力で毒を消して命をつないだのではないように、人間が「新しく生まれる」こともまた、十字架に上げられたイエス様を「信じて仰ぎ見る」ことによってのみ、神が成し遂げてくださる受け身の出来事であることを伝えています。
15節に「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」と書かれています。蛇に噛まれた者がただ青銅の蛇を仰ぎ見ることで命を救われたように、人は十字架に上げられたイエス様を仰ぎ見ることで救われるのです。それによって「永遠の命」が得られます。「永遠の命」は単に「死なない」という意味ではなく、「神との交わりの中に生きる新しい命」です。これが「新しく生まれる」ことの意味です。
16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」の言葉には、救いのすべてのことが含まれています。神がイエス様と言う救いを用意されたのは単なる正義ではなく、ご自分の独り子を世に与えるという圧倒的な無償の愛によるのです。17節の言葉から神は被造物全体をお救いになることが示されています。
もう一度申します。「永遠の命」は単に「死なない」という意味ではなく、「神との交わりの中に生きる新しい命」です。これが「新しく生まれる」ことの意味です。
私たちは現世的利益のみを求めてしまいがちです。現世的利益を想像すると脳内にバラ色の世界が広がるのではないでしょうか。しかし自分の欲しいものがすべて得られたらどうなるか考えてみてください。すべてのものがあるのです。そうするとそこには希望はありません。そこには虚無しかありません。
しかも手に入れられないものがあります。死、苦しみ、争いからの解放です。自分の力ではどうにもならない状況に直面したとき現世的利益は無力です。言葉は悪いかもしれませんが、悪魔に魂を売ってしまった人間の末路のようなものです。
イエス様が語った「永遠の命」は単なる死後の天の国(神の国)という気休めではありません。それは「神との交わりに生きる喜びの人生」です。アブラハムの祝福も実は現世的利益ではなく神が共におられるという事実が本質でした。彼が見知らぬ土地へ踏み出せたのは、所有物への執着から神への信頼へと飛躍したからです。
永遠の命に生きるとき人は「霊の実」を結びます。ガラテヤの信徒への手紙5章22,23節にあるように「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」。愛・喜び・平和は、現実の状況にかかわらず、心の底にある根源的な安心感が揺るがなくなります。寛容・親切・善意は、他者の落ち度や攻撃に対して即座に反撃せず「待つ」余裕が生まれます。誠実・柔和・自制は、自分の感情や欲求に振り回されず、一貫性のある誠実な歩みができます。
恐れが愛に変わり、自己を防衛する必要がなくなります。新しく生まれた人は、以前と同じ仕事をし、同じ家に住み、同じ家族と過ごします。しかし、その「質」が全く異なります。かつては自分のために世界を利用していたのが、新しくなると「この世界でどう仕えるか」という視点に変わるのです。
「新しく生まれた」からといって、古い自分が魔法のように消えてなくなるわけではありません。「不完全なまま、完璧に愛されている」という絶対的な安心感の中で、ゆっくりと変えられていく自由をいただいたのです。
「新しく生まれた」状態とは「神の命という種」が植えられた状態です。種は小さく、最初は目立ちませんが、水をやり、光を浴びることで、確実に古い自分を突き破って成長していきます。成長するためには霊的な栄養が必要です。それは私たちを養う御言葉、主との関係を保つ祈り、霊的成長を助ける神の家族の交わりです。試練は私たちの霊を鍛える訓練です。
一方で成長を止めてしまう毒もあります。「神の助けがなくても大丈夫」という思いは、新しい命の根を腐らせます。またすでに赦されているのに自分を責め続けることは成長に必要なエネルギーを奪います。新しく生まれた命は、「神の愛という日光」を浴び続け、「御言葉という栄養」を吸収し、「祈りという呼吸」を繰り返すことで、自然と大きく育っていきます。この成長を神さまは見守ってくださいます。
キリスト者は水と聖霊によって新しく生まれました。神さまとの交わりを回復させていただきました。これは現実の世界での霊的利益そのものです。現世的利益が不要だということではありませんが、本当に必要なのは霊的利益「永遠の命」です。キリスト者は永遠の命をいただきました。これを成長させて喜びの人生を神の家族と共に歩んでまいりましょう。