3月8日礼拝説教「生ける水を求める」

聖書 出エジプト記17章1~7節、ヨハネによる福音書4章1~42節

女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」(ヨハネ4:15)

「生ける水を求める」

今日読まれた聖書は「渇く」ということがテーマになっています。

モーセに率いられてエジプトを出発したユダヤの民はシナイ半島の荒れ野を旅している途中で水がない場所でキャンプしなければならなくなり、多くの人々が水を与えるようにモーセと争いました。

ヨハネによる福音書にはイエス様がサマリア地方を通っていた時にヤコブの井戸のそばでサマリアの女性に声をかけたことが記されています。女性はイエス様との会話の中で「渇くことがないようにその水をください」とイエス様に求めました。

「渇く」というのは体が水分を求めることで生きていく上で避けて通れない体の当たり前の要求です。一方で、心が「満たされない」不安定な状態を指します。どちらの場合も、渇きは「生存の危機」に直結するため人間を最も原始的な恐怖に突き動かします。

からだの渇きをいやすお方

旧約聖書の出来事から見ていきましょう。出エジプトの民はモーセと争い、モーセは主に祈り、主はホレブ山の岩を杖で打つように言われました。モーセがそのようにすると水が出て民はそれを飲むことができました。私たちの日常における「渇き」の経験から出エジプトの民の行動を理解できるように思いますが、この出来事で主なる神が民に与えた試練は、体の渇きを満たすこと以上に神との交わりという心の潤いが人間には不可欠であることを伝えています。求めるべきお方はモーセではなく神でありましたが、民は極限状態の中でそのことを忘れてしまいました。

極限状態においてもなお神との交わりを第一とすることは、イエス様が荒れ野で悪魔から受けた、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」という第一の誘惑と、それを跳ねのけたイエス様の、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という言葉を思い出させます。

霊的な渇きをいやすお方

ヨハネによる福音書4章のイエス様とサマリアの女性との出会いの出来事は1節から42節まで記されています。4章全体から神の言葉を受取りたいと思います。

この箇所を理解するためには前提としてユダヤ国の中のサマリア人とユダヤ人の関係を知っておく必要があります。ダビデ王が統一した古代イスラエル王国は南のユダ王国と北のイスラエル王国に分裂してしまいました。その後、北王国は北方のアッシリア王国に占領されて、異なる宗教が持ち込まれてしまいました。この地域がサマリア地方でそこに住んでいる人々がサマリア人です。一方南王国はバビロニアに滅ぼされてしまいましたが捕囚となった人々は唯一の神への信仰を守り抜き、バビロニアが滅びて人々が故郷に戻って来てもその信仰を守り続けました。この地域がユダヤ地方でそこに住んでいる人々がユダヤ人です。イエス様の時代にはローマ帝国が古代イスラエル王国の領域をユダヤ人に統治させ、古代イスラエル王国の領域がユダヤ人によって統治されましたが、歴史や宗教の問題からサマリア人とユダヤ人は互いに仲が悪かったのです。互いに話をすることも同じ器を使って水を飲むこともしていませんでした。ユダヤ人はサマリア地方を通ることもありませんでした。

そのような時代にイエス様はサマリア地方を通られました。これには深いわけがありました。それはサマリア人も元々はユダヤ人ですから、サマリア人を救わなければならないためでした。4節にイエス様は「サマリアを通らねばならなかった」と書かれているのはこのことを示しています。イエス様がヤコブの井戸に座っていたのは正午ごろの暑いときでした。水汲みは涼しい時にするものですからその暑い時分に水を汲みに来るのは他の人と出会いたくない人だけでした。その時にサマリアの女性が水を汲みに来ました。この女性は複雑な過去を持っていて霊的に深く渇いていました。その事情は16節から18節に記されています。女性は性的に乱れていたと周りから見られていて、自分でも負い目に感じていたと思われます。しかし聖書は女性が淫らなことをしたとか、不誠実であったとは書いていませんから、これは当時の社会秩序から外れていたということ以上の意味はないと思われます。いずれにしても女性が霊的に深く渇いた状態にあったことは間違いがありません。

サマリアの女性にとってイエス様との出会いは救いの出来事でした。それはイエス様の「水を飲ませてください」(7節)という言葉から始まりました。女性は「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と問いました。理由が分からなかったのです。ユダヤ人はサマリア人を汚れたものと見なし、サマリア人の助けを借りることもその人たちの器を使うことも決してしないことを女性は知っていました。

その問いに対してイエス様は「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」(10節)と言いました。イエス様は女性の目の前にいるご自分が救い主であることをこのような言葉で示しました。女性は知らないのですが、もし知っていたらイエス様はご自分の目の前にいるこの霊的に深く渇いている女性に「生きた水」を必ず与えたのです。ここで「賜物」とは、人間の功績によってではなく、神から一方的に与えられる「恵み」や「救い」のことです。

「生きた水」というイエス様の言葉に女性は何かを感じたようです。まず女性はヤコブの井戸の水のことだと思いました。そしてイエス様が井戸から水を汲む物を持っていないことを指摘して、「どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。」(11節)と尋ねました。イエス様は神が無償で与えてくださる賜物のことを「生きた水」という言葉でたとえたのですが、女性は「汲みに行かなくて済む便利な飲み水」というように理解しました。「どこから手に入れるのか」という女性の問いは自分たちで手に入れることのできるものだと理解していることを示しています。

イエス様はここで女性に自分が与える水は霊的なものであることを示します。13節と14節です。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」こういう言葉です。

15節の女性の答えを読むと、女性がいまだにイエス様が与えると言われた生きた水は「汲みに行かなくて済む便利な飲み水」であると思っていたことを示しています。

イエス様の言葉の「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」というヒントに気づくならばこの後の問答は必要なかったでしょう。しかし女性がイエス様の言葉を理解できなかったように、今御言葉を聞いている私たちも理解できてはいないのです。女性は私たちの代表です。私たちの心の渇きや霊の渇きは理由こそ違えど、この女性と同じであることに気づかなくてはなりません。

23節と24節でイエス様は「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」と言われました。この言葉は私たち一人ひとりに向けられてます。「今がその時だ」とイエス様は言われます。「今」とは主に出会うときで、それは聖書を開いて読むときであり、祈るときであり、主を賛美しているときです。

女性は26節の「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」というイエス様の言葉を聞いて、生きた水、永遠の命に至る水を与えるお方がそこにおられて、それを与えてくださったことに気づきました。それで女性は町に行き、今までは決して話をしたこともなかった人々に「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」と告げることができました。この時、彼女は神の賜物を受け女性の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出ていました。彼女はもはや霊的な渇きを覚えることがありません。

今日の世界と渇き

ここで今日の世界情勢を見てみますと米国はベネズエラでの出来事から間を置かず、イスラエルとの協力体制のもとでイランを先制攻撃して、政権の中枢のみならず、幼い子どもたちの命までも奪ってしまいました。そして攻撃の応酬が続いて中東を混乱に陥れています。この決断を下した人やそれを支持する人々は自らの行為を「正義」であると考えているかもしれません。

『嵐の中の教会』という書物の中に、深い示唆に富んだ一節があります。

「神を恐れる者となる時、その人は神に対して自分が責任を負う者とならなければならないということ、また私たちの上には私たちから弁明を求め給うお方がいまし給うということを知るようになります。

これとは反対に、人間が(独裁者となり)神にされてしまうと、そういう人間は正義と不正を自分で決定することを求めるようになります。」

自分の正義を力で押し通そうとする心の奥底には、決して満たされることのない「渇き」があるのではないかと思います。その心の渇きは、ときに人を誤った方向へと導いてしまいます。

外形的に洗礼を受けてキリスト者であっても「汝の隣人を愛せよ」や、「殺してはならない」という戒めを無視するのはキリスト・イエス様につながっていません。マタイによる福音書4章にある悪魔の第3の誘惑「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、世界をみんな与えよう」に負けてしまい、自分自身を破滅に落とすことになります。たとえこの世で裁きを受けなかったとしても死後に裁きを受けるのです。これから逃れることはできません。

生ける水をいただこう

ヨハネによる福音書4章14節「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」との御言葉が教えるように、キリスト・イエス様との出会いは心の渇きを癒やします。そのことによって人は際限のない渇きから逃れることができます。武力をもって他を圧倒する人々は際限のない渇きの虜になっている人々です。そしてこの渇きはイエス様から離れて神の賜物を受取ることができなくなった時に私たちにも訪れて、渇きを止めるために苦しまなければならなくなるでしょう。人は、探し求めさえすれば、必ずキリストを見出すことができるのです(使徒言行録17:27)。イエス様に出会って決して渇くことのない永遠に至る水をいただきましょう。