「この人たちに食べさせるためには」(2017年10月1日礼拝説教)

列王記下4:42~44
ヨハネによる福音書6:1~15

今日は世界聖餐日。週報にも記しましたが、この日は、「全世界のキリスト教会がそれぞれの教会で主の聖餐式をまもり、国境、人種の差別を越えて、すべての信徒がキリストの恩恵において一つであるとの自覚を新たにする日」として提唱されたものです。異なる文化・経済・政治の状況にあってなお、世界の教会がキリストのからだと血を分かち合うことを通し、主にあって一つであることを自覚し、お互いが抱える課題を担い合う決意を新たにする日なのです。
世界聖餐日の今日、私たちは、神の命を捨てるほどの計り知れない愛によって赦されて今生かされていることを聖餐を通して心に刻みつけ、おのおの主の御前に悔い改め、キリストにあって赦された者同士として、それぞれのあり方を互いに重んじ合い、世界のキリストのうちにある人々と共に、キリストにあってひとつの体となり、さまざまな隔ての壁を超えて、イエス・キリストにある一致を覚えたいと願います。

 さてマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書には、イエス様が弟子たちにパンとぶどう酒を分け与え、現在に至る私たちの聖餐式の制定をされたと言われる、最後の晩餐の出来事が記されています。
 しかし、ヨハネによる福音書には、最後の晩餐でイエス様がパンとぶどう酒を弟子たちに分けられたという記事はありません。しかし、お読みした6章11節「さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」とある中の、「感謝の祈り」というギリシア語には、「ユーカリスト、聖餐式」という言葉を生んだ言葉が使われ語られています。
イエス様の十字架は過越祭の時期でした。最後の晩餐は過越の食事でした。そして今日の箇所では4節に「過越祭が近づいていた」とあります。ヨハネによる福音書に於いて、五つのパンと二匹の魚で5000人が満腹したのは、過越祭の時期だったことが敢えて語られています。過越祭の犠牲の小羊は、十字架のイエス様になぞらえ語られます。また、他の福音書で、イエス様がパンを裂いた後、弟子たちにパンを渡して、弟子たちが配ったと語られていますが、ヨハネ福音書は、弟子が配ったとは語っておりません。イエス様ご自身がパンを裂き、座っている人々に分け与えておられます。イエス様ご自身が、人々にパンと魚を「分け与えて」おられるのです。
これらのことから、今日の御言葉から始まる6章全体は、他の三つの福音書とは場面を違えながら、ヨハネによる福音書に於いて、主の晩餐、聖餐の制定を語られる箇所であると読まれています。

さて5章では、イエス様は祭のためにエルサレムに上っておられましたが、6章では故郷ガリラヤ湖=ティベリアス湖に戻っておられます。ティベリアス湖というのは、ガリラヤ湖のことなのですが、ガリラヤ湖畔の西側にティベリアスという、ローマ皇帝ティベリアスにささげた町がありました。ティベリアスから見たガリラヤ湖をティベリアス湖とヨハネは呼んでいるのだと思われます。その「向こう岸」というのですから、ティベリアスという町の向こう側、ガリラヤ湖の東側に渡られたということなのだと思われます。

イエス様の病人たちになさったしるし=癒しの業を見た大勢の群衆が、イエス様の後を追ってきていました。マルコによる福音書では、この時の群衆のことを「飼い主のいない羊のような有り様」と語られております。貧しく、寄る辺のない人々だったのでしょう。男たちだけで5000人とありますので、数に数えられていない女性や子どもたちも合わせますと、おそらく倍以上の数の人々がいたことでしょう。イエス様は舟に乗って渡られた、それを追って、人々はガリラヤ湖の周りを歩いて追って来たということなのでしょう。
イエス様は山に登られ、弟子たちと一緒にその場にお座りになりました。そして目を上げて、大勢の群衆が御自分の方に来るのを見て、フィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と問われました。
続く6節では「こう言ったのはフィリポを試みるため」であったと語られています。フィリポはこの時点でかれこれ1年以上イエス様の弟子として歩んでいたと思われます。そんなフィリポにイエス様は、敢えて、飼い主のいない羊のような、貧しく行き場を失っているような人々を前にして、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」問われたのです。このイエス様の試みと語られていることは、弟子であるフィリポの信仰に対する促しであったと考えます。
ヘブライ人への手紙に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(11:1)と、信仰について、定義をされていますが、ここで、イエス様によって望まれていることとは、ここにいるすべての群衆を「食べて満たさせる」ことです。しかし、目の前に見える状況は、あまりにも多くの人々がおり、すべての人を満たすことなど不可能に思える、人の目には実現不可能と思われる現実が目の前にあります。
それであっても、神に希望を置き、人間の目には不可能と思える状況を超えて、すべての人が「食べて満腹する」ことを、まだ見ぬ事実として信仰によって確認すること。最良のことが必ず備えられることを信じる信仰に希望を持ち、神の業のために、人間=私にも為しうることを実行するということ、それがここでイエス様からフィリポに促されている信仰と言えましょう。

このフィリポという人は、使徒言行録に於いて、異邦人伝道を初めて行ったフィリポとは全く別の人物で、1章でイエス様に「わたしに従いなさい」と言われて弟子となった人ですが、少し先の12章で、ギリシア人がフィリポのもとに、イエス様にお目にかかりたいと頼みに来た時、フィリポはすぐにイエス様に取り次がず、アンデレにまず話してから、イエス様のところにふたりで行くということをしています。慎重な性格と言えばそうなのかもしれませんが、猜疑心が強く臆病にも思えてしまいます。
さらに14章8節では、イエス様が最後の晩餐の席で、「告別説教」と言われる大切なたくさんのことを語っておられる中、「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と、イエス様の言葉だけでは良く分からなかったのでしょうか、自分が分かるため、満足するための要望をイエス様にお願いしたりしていて、「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」とイエス様に叱られています。
目の前の出来事に対し、信仰をもって見えない事実を確認しつつ、希望をもって事を為すというより、人間として現実的で、ある意味消極的で、マイナス思考の人のように思えます。
そしてイエス様の「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」という問い掛けに対するフィリポの答えは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」でした。「満腹するためには」とは言いません。彼の発想は「少しずつ食べるため」です。また見渡して、二百デナリオンというひとりの人の200日分の報酬に当たるお金をがあっても足りない、と現実的な計算が出来る人でもあります。
このようなことを、私も言ってしまいそうに思えます。私はどうやらフィリポに似ています。フィリポの細かい頭の中での現実的な計算と、そして、イエス様が目の前におられるにも拘らず、希望の無いことを口にして、「どうせ無理だ」と言わんばかりの態度を取ってしまうこと。イエス様を信じていると言いつつ、現実的な値踏みをして、「こんなことは無理だ」と自分で決め付け、神の望まれることになかなか到達出来ない自分。
しかし、信仰というのは、神が私たちを愛し、私たちを満たそうとしておられるその愛に信頼し、その御業に自らも積極的に参与することなのではないでしょうか。人間の思いを超えた、神の御業に期待し、「これは無理だ」とくじけた思いに埋没することなく、確信を持って小さな一歩を踏み出すことが大切なのではないでしょうか。

すると、ペトロの兄弟アンデレが、ひとりの少年を連れてイエス様のところに歩み出ます。そして言うのです。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」。
私たちが通常食べるパンは、小麦から出来ているものが多いですね。そして大麦のパンというのは、「貧しい者のパン」という呼び名で呼ばれているもので、当時、大麦は家畜の餌であったのだそうです。しかし、貧しい人たちは、富める人たちが自由に変える小麦粉を買えなかったために、家畜のための穀物を買ってきて、それをパンとしていたのだそうです。
また、この「少年」という言葉ですが、「少年奴隷」を意味する言葉が使われています。奴隷の少年がここに居たのです。幼い頃、捨てられて、また売られて奴隷となった少年なのかもしれません。その子が持っていた、わずかな持ち物である二匹の魚と五つの大麦のパン。アンデレは、どうやってこの子が、二匹の魚と五つのパンを持っていることを知ったのでしょうか?まさか、小さな奴隷の少年の持ち物を見つけて、それを持たせて無理やりにイエス様の前に連れて来たわけではないでしょう。この少年は、食べ物の話をしているのを聞いて、何らかの形でそれをアンデレに差し出したのではないでしょうか。少なくとも、少年がそれらを携えてイエス様の前に出て来ることを惜しんで拒んだならば、アンデレはこの少年をイエス様の前に連れては来れなかったはずです。
アンデレは、とにもかくにもイエス様の前に、二匹の魚と五つの大麦のパンを持った少年を連れて来ました。「こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と言いながら。消極的な言葉を言いながらも、アンデレは、フィリポよりも一歩、「主に望みをかける」ということを知っていた人なのかもしれません。
そして、この小さな奴隷の少年の差し出した二匹の魚と五つのパンは、思いがけない奇跡を起こしたのです。

イエス様は、そこで「人々を座らせなさい」と言われました。少年の持っていた魚とパンをイエス様は受け取られました。草のたくさん生えているガリラヤ湖に近い山。イエス様の命令によって、人々はそこに座りました。その数は男だけでおよそ五千人と聖書は語ります。
イエス様は、まず貧しい大麦のパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられました。人々は座っていたのですから、イエス様が自ら歩いて、パンを渡されたのです。そして、魚も同じようにして、人々に「欲しいだけ」、イエス様ご自身が、分け与えられました。
奴隷の少年が持っていた、いえもしかしたら、自ら差し出した二匹の魚と五つのパンは、イエス様の手を通して、すべての人が満腹になるまでに限りのないほどに増えていったのです。イエス様は、小さな少年奴隷の差し出した魚とパンを用い、それを通して、人々を満腹に、満ちたらせられました。さらに、残ったパン屑を集めると、十二の籠がいっぱいになったというのです。

イエス様がこの時なさろうとされたのは、「飼い主のない羊」のように見える人々を満ちたらせることでした。そのことを為さるために、イエス様はまずフィリポを試みられました。イエス様はしかし、「御自分では何をしようとしているか知っておられた」のです。ご自分のなさろうとすることに、イエス様ご自身がフィリポの信仰が必要だったのではないでしょうか。
イエスさまは、全能の神であられますので、なさろうとすることは何でもなさることはお出来になりますから、人間の助けがなければ業を為すことが出来ないという訳ではない筈です。しかし、主はご自身だけで、為せないからということではなく、フィリポの、そして私たちすべての人間の信仰の応答を敢えて求めておられるのではないでしょうか。主なる神は、イエス様は、私たち人間との交わりを求めておられるとも言えると思います。交わりのうちに、神は働かれるのです。
そして主のために自らを、自らの持てるものをたとえ小さなものであっても信仰と勇気を持って主の御前に差し出すこと、信仰による一歩踏み出した信仰の希望に基づく行動を、イエス様ご自身が、用いたいと願っておられるのではないでしょうか。そしてイエス様は、少年の貧しいパンを喜んで用いられ、男の人だけで5000人という人々のすべてを満腹にされました。

目の前の現実に、「どうせ無理だ」と消極的になるのではなく、神が絶えず私たちを満たそうとしておられることを信じ、たとえ小さな業であったとしても信仰と希望を持って私たちが一歩踏み出し神に自らをささげる時、神は喜んで、私たちの小さな業を用いて、人間の現実を超えた主の御業を大胆に為してくださるに違いありません。
祈りつつ、信仰のあるところに神が働かれるということに、信頼をして、すべてのものとごとに主が共にある希望をもって歩むものでありたいと願います。

今から私たちは聖餐式において、まずイエス様の体としてのパンをいただきます。イエス様を食べる、不思議なことですね。私たちが聖餐式に於いて、イエス様の体としてのパンを食べるということは、イエス様からの特別な命を受けねばならない、そのように命じられているということなのでしょう。
今日の御言葉は、ヨハネによる福音書の聖餐の制定とも言われる箇所であることを申し上げましたが、イエス様は6章12節で「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われました。「少しも無駄にならないように」と言う言葉は、ヨハネによる福音書で頻繁に出てくる言葉なのですが、直訳すると「どれひとつ滅びないように」という意味です。ヨハネによる福音書3章16節に「神はそのひとり子をお与えになったほど世を愛された。ひとり子を信じる者が、一人も滅びないで永遠の命を得るためである」という御言葉がありますが、この「一人も滅びないで」の「滅びないで」と「無駄にならないように」という言葉は原文で同じ言葉です。
今日の御言葉中でイエス様が人々に与えたパン、それは、一人残らず滅びることがないために与えられる命のパンです。そして、イエス様が人々にお与えになり、すべての人が満腹したパン、そして残ったパン屑も含めて、それはイエス様ご自身とも理解できましょう。奴隷の少年の差し出したパンは、いつしかイエス様ご自身となり、そこにいるすべての人に与えられました。そしてすべての人は満腹した。すべての人は、イエス様の滅びない命のパンをいただいたのです。
そして、私たちをも決して滅びることなく、無駄になることがないように主のもとに集められ、主の命をいただいています。
イエス様ご自身であるパンを聖餐式で私たちはいただきます。これは、イエス様ご自身が定められたことです。そして私たちは、聖餐式を通して、イエス・キリストとの命の交わりに入り、またイエス・キリストの命のパンを通して、他者との交わりにも入れられます。その命の尊厳をすべての聖徒たちが与えられていることを覚え、感謝をもって命のパンをいただき、すべての聖徒のイエス・キリストにある一致を望みつつ、主に信頼し、命を捨て、命を与えてくださった主に、自分で自分の限界を作って小さくなるのではなく、自らを勇気を持って絶えず主に差し出しつつ、歩みを続けたいと願います。