3月22日礼拝説教「復活と命の主イエス」

聖書 エゼキエル書37章11~14節、ヨハネによる福音書11章17~27節

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11:25-26)

「復活と命の主イエス」

受難節第5週

受難節は主の復活の記念日であるイースターの前日から、主の日である日曜日を除いて40日前から始まります。今年は2月18日水曜日から始まりました。そして今日は受難節第5週となりました。来週から受難週に入ります。私たちは死の影が色濃く漂う受難週を前にして、ヨハネによる福音書11章に記された「ラザロの生き返り」という、最大にして最後の「しるし」に耳を傾けます。なぜなら、主の十字架と復活を理解するための鍵が、このベタニアの墓の前に隠されているからです。

エゼキエル書37章における「死」と「霊」

本日、福音書と共に与えられた旧約聖書の箇所は、エゼキエル書37章1節から14節です。ここには聖書全体の中でも最も力強い「回復」の幻が記されています。

まず、当時の歴史的背景を確認しておきたいと思います。紀元前587年、エルサレムは陥落し、ユダヤの民はバビロン捕囚とされました。彼らにとって、神との契約の場である神殿の破壊は、国家の滅亡というだけではなく、神との関係が断たれたことを意味しました。これは死を意味します。11節に記された「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」という嘆きは、詩的な比喩ではありません。ヘブライ語の「枯れる」は、完全に水分が失われ、命が一切消え失せた状態を指します。

ここで重要なのは、預言者エゼキエルが目にしたのは「死体」ではなく、バラバラになった「骨」であったという点です。もはや個人の識別すら不可能な、無機質な物体の集積。これが、神を失った人間の究極の姿として提示されています。

しかし、神の言葉が語られるとき、事態は一変します。神はエゼキエルに「預言せよ」と命じられます。ここでの「霊」という言葉には、呼吸、風、神の息といういろいろな意味が含まれています。創世記2章において、土で出来た人の形に神が息を吹き込まれたことで人間が「生きる者」となったように、枯れた骨に「霊」が吹き込まれることで、彼らは「きわめて大きな集団」として立ち上がります。

12節と13節で繰り返される「墓を開く」という言葉は単に死者を生き返らせることではなく、ユダヤの民を縛り付けていた絶望という名の「檻(おり)」を神が破壊することを意味します。預言者エゼキエルが神から受けた「復活」とは、「民族の復興」であり、神との契約関係の再構築でした。しかし、この預言は同時に、終わりの日に神が死の力そのものを無効化するという「終わりの日の復活信仰」の基礎ともなったのです。

ヨハネ福音書における「四日目」の絶望

このエゼキエル書の幻を背景に、ヨハネによる福音書11章に聞いてまいりましょう。

ラザロが病気であるとの知らせを受けたとき、イエス様はすぐには出発されませんでした。あえて二日間エルサレムの都に留まりました。そして彼が墓に葬られてから「四日」経ったときに到着されました。

ユダヤの伝承によれば、死後三日間は魂が遺体の周りに留まっているが、四日目になると魂はもはや戻ることはないと信じられていました。つまり「四日目」とは、生物学的な死が確定し、腐敗が始まった「決定的な絶望」の象徴なのです。

マルタはイエス様に言います。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。この言葉には、イエス様を「病気を治す癒やし主」としては信頼しているものの、「死を支配する主」としてはまだ捉えきれていないマルタの限界が表れています。

彼女はさらに続けます。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」。これは当時の一般的な理解です。彼女にとっての「復活」は、はるか遠い未来の出来事、あるいは「正しい教え」に過ぎませんでした。現代の私たちもまた、「いつか天国へ行ける」という遠い希望と、目の前の「愛する者の死」という現実との間の断絶に苦しむことがあります。マルタの苦悩は、教えが現実の悲しみを救い得ないという限界を露呈しているのです。

『わたしは復活であり、命である』

このマルタの信仰に対し、主イエスは聖書中で最も衝撃的な自己宣言をなさいました。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」(25、26節)

ギリシア語の原文では「わたしは・・・ある(エゴー・エイミ)」という神のお名前が強調されています。旧約聖書を振り返りますと、出エジプト記でモーセが神のお名前を尋ねた時に神が言われた言葉は「私はある(エヘイエ)」(出3:14)でした。つまりイエス様はユダヤの民を導いた神がご自分であることを明らかにされたのです。イエス様は「わたしは復活について教える者だ」と言われたのでも、「わたしは復活を祈り求める者だ」と言われたのでもありません。「わたし自身が、復活そのものであり、命そのものである」と宣言されました。

ここで「復活」と「命」が並べられていることには深い意味があります。「復活」とは私たちが決してあり得ないと思っている死から生への変化を指しており、「命」とはその復活の根源を指します。神であるイエス様が命なのです。この25節の言葉によって、イエス様は復活を「未来の予定」から「現在起こりうること」へと引き寄せられました。

25節後半の「信じる者は死んでも生きる」という言葉――これはラザロに起こる肉体の生き返りを指します。26節の「生きていて信じる者は決して死なない」という言葉――これは、キリスト・イエス様に繋がっている者は、生物学的な死を経験しても、神との交わりとしての命が中断されることはないという真理です。

43節で、イエス様が墓の前で「ラザロ、出てきなさい」と大声で叫ばれたとき、それはエゼキエル書で神が言われた「墓を開く」ことの成就でした。ラザロは生き返りました。しかし、ラザロに起こったのは「生き返り」であり、後にイエス様ご自身が経験される「復活」とは異なります。ラザロはやがて再び肉体の死を迎えるからです。では、この奇跡は何のためにあったのか。それは、イエス様こそがエゼキエルの預言した「霊を吹き込み、墓を開く主」そのお方であることを示す「しるし」だったのです。

救いの普遍性と「死」のまことの意味

ここで、26節の後半に注目する必要があります。「このことを信じるか」というイエス様の問いかけです。

イエス様はここで、信じる者と信じない者を峻別し、信じる者だけを救おうとされているのでしょうか。福音書の他の箇所(マタイ24:14、マルコ16:15)を見れば明らかなように、神の救済の御心は全世界、全人類に向けられています。

では、信じない者に起こる「死」とは何でしょうか。それは「命の源泉であるキリストとの断絶」です。たとえ心臓が動き、呼吸をしていても、神との愛の交わりを拒絶し、自己の中に閉じこもっている状態は「死」に等しい。逆に、たとえ肉体が朽ち、病に侵されていても、キリストの命に繋がっている者は、既に死を乗り越えて生きているのです。

神はすべての人に福音を伝え、一人も滅びることを望んでおられません。しかし、自由意志をもってその命を拒む者にとって、イエス様の存在は無意味なものとなります。エゼキエルが見た「枯れた骨」とは、まさに神の霊を拒み、自己完結してしまった魂の姿でもありました。

痛みの中での気づき

「死んでも生きる」という言葉。私は先週、これを頭ではなく体で思い知らされる経験をしました。

日曜日の未明、まだ夜のとばりが下りている頃に、我慢できないほどの腹痛で目が覚めました。痛みは次第にひどくなります。そこで私は救急安心センター(#7119)に電話して症状を話し、夜間休日診療している病院を教えてもらいました。妻に運転してもらって病院へ向かったのですが、起きてからずっと私の頭をよぎっていたのは「最悪の事態」でした。

お恥ずかしい話ですが、その時の私は「神様がいるから大丈夫」と悠然としてはいられませんでした。「信仰が薄い」と叱られそうなほど不安でした。

その暗闇の中で、私は何度も、何度も、「主の祈り」を唱えました。痛みが引くわけではありません。しかし、祈るうちに、一つ確かなことに気づかされました。「この命は、私の持ち物ではない。神様から預かっているものだ」ということです。

病気や痛みは、私たちに「死の影」を見せます。しかし、自分の力が尽き、絶望に突き当たったその場所こそが、実は「復活の主」に一番近い場所でもあります。自分の力で生きることを諦めた時、初めて「主の命」に全存在を委ねることができるからです。

痛みの中で、私は多くの方の祈りに支えられている幸いを知りました。痛みに苦しんでいる人の気持ちが分かりました。痛みの原因が分かるまでの不安な気持ちも体験しました。そして、何よりも、イエス様が「命の主」であるということが、遠い聖書の話ではなく、今、私を支えていることを実感したのです。

イエス様を救い主と告白する

ラザロの生き返りを目の当たりにし、イエス様の宣言を聞いたマルタは、ついに信仰告白に至ります。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」。彼女の信仰は、「いつか起こるという教え」から「今、目の前におられる主」への信頼へと脱皮しました。

私たちは今、主の十字架を共にする受難節を歩んでいます。私たちの人生には、これからも「四日目の墓」のような絶望や、癒えぬ痛み、枯れた骨のような虚しさが訪れるでしょう。しかし、そのたびに主は私たちの前に立ち、大声で叫んでくださいます。「出てきなさい。わたしがあなたの命である」と。この主の呼びかけに応え、自らの命を主の御手に委ねましょう。肉体の死を超えて輝く永遠の命、主イエス・キリストとの途切れることのない交わりの中に、今、立ち上がりましょう。主は復活であり、命です。このことを、心から信じ告白いたします。