「信じること、それが神の業」(2017年10月8日礼拝説教)

ヨハネによる福音書6:16~40

 パンの奇跡、それはそこに居た人たちにとって、天の御国の先取りのような出来事でした。
 少年奴隷の持っていた二匹の魚と貧しい五つの大麦のパンは、男だけで5000人の人々を満腹にさせました。そのしるしを見て、人々は「まさにこの人こそ、世に来られた預言者である」と言い、イエス様は、人々がそのしるしの故に、ご自身を自分たちの望むこの世の王とするために―ローマ帝国の圧政から自分たちを救い出してくれる王にするために―担ぎ上げようとしているのを知って、ひとり山に退かれました。
「しるし」とは、イエス様が神である、というしるしです。「奇跡」という形で表されるものです。しかし「しるし」によって信じる信仰を、イエス様は2章で退けておられます。そして、今日の御言葉では、26章で「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と、しるし=奇跡そのものよりも、さらに現実的な満腹=目の前の利益を求めて、イエス様を追いかけてくる人々が語られています。
 福音書には、しばしばひとり山に退かれるイエス様の姿が描かれます。神の思いと人の思いは違う。人々の熱狂からイエス様は逃れ、静まりひとり神に祈る時が必要だったのでありましょう。
イエス様がその場を去られたことに気づかず、人々は天の御国にいるように満たされたまま、満足の中で眠ってしまったのではないでしょうか。
 その間、弟子たちは湖畔に下りて行き、船に乗り、向こう岸のカファルナウムに行こうとしておりました。弟子たちは、イエス様が不在のまま舟に乗って漕ぎ出します。
 この出来事は、マタイ、マルコのふたつの福音書も語っており、私たちはマタイの御言葉から8月の平和聖日に、近藤勝彦先生を通してマタイからの御言葉に聞きました。
 天の御国にいるようなしるしの後、弟子たちはなぜか主の居ない舟に乗りこむのです。そこに強い風が吹いてくる。普通、湖というのは波が少ないと思えるのですが、ガリラヤ湖はその底の形がすりばち状なのだそうです。そして、四方が山に囲まれています。山おろしの突風が吹くと、中がすりばち状ですので、湖はものすごい揺れになるのだそうです。
 そのような大風に襲われ、ヨハネは記しておりませんが、弟子たちは死の恐怖に脅えたはずです。
 そこにイエス様は湖の上を歩いて来られました。主は、神の被造物である湖=自然を足の下に置き、それを踏みしめてやって来られます。混沌の水を制する神の支配は、旧約聖書に於いて、神の主権と守りのシンボルです。そして言われるのです。「わたしだ。恐れることはない」と。そして、イエス様をお迎えした時、舟は目指す地に間もなく着いたのです。
 この「わたしだ」という言葉、エゴーエイミというギリシャ語ですが、出エジプト記3章で、モーセに主なる神が初めてご自身を顕された時、「わたしはある、わたしはあるというものだ」と言われましたが、ここではそれと同じ「わたしはある」という神の自己啓示としての言葉で、イエス様は「わたしこそ主だ」と語っておられます。ここでのイエス様の言葉「わたしだ」というのは、イエス様は主なる神である、その言葉なのです。
 イエス様は神であられ、主イエスが共におられるなら、どんな荒波も恐れはない。私たちは、この出来事から、改めて、私たちの人生に絶えず主が共に居て下さること、そして私たちの人生は、主と共に嵐を超えてゆけるのだということを、覚えたいと願うものです。

 パンと魚の奇跡を体験した群集は、「このお方のもとに居たら大丈夫、もう飢えることはない」と思ったことでしょう。しかし、翌日目を覚ましたら、そこにイエス様と弟子たちが最早いないことを知り、イエス様を探し回り、イエス様のおられるカファルナウムにやってきました。
 そして、ようやく見つけた、食べ物を与えてくださるイエス様にを見つけて、彼らは平静を装ったかのように、またさも真理を求めている人のように語りかけます。「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか?」と。それに対し、イエスさまは言われました。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と。
イエスさまは、彼らの心の底にあるものを見抜いておられました。彼らが求めているものは、今の空腹を満たすことでしかないということを。彼らが求めているのは、自分たちの現在の貧しさから解放してくれる政治的な意味での救い主であることを。
そしてイエスさまはご自身がどのような方であるかを語り始められます。

 27節で「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ人の子があなたがたに与える食べ物である」と言われました。「人の子」というのは、終わりの時に現れると信じられていた救い主を指しますが、イエスさまはご自身を、「人の子」であると言われ、救い主なるイエス様ご自身が与える食べ物とは、永遠の命に至る食べ物であると言われるのです。
謎めいたイエス様の言葉に、追いかけてきた人たちは「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と問いかけます。
この問いかけをする人たちは、ユダヤ人で、律法を知る人びとです。律法とは神の愛に対して「行い」という応答が求められますので、彼らは、あくまでも、律法のなかにあるものとして、「神の業」すなわち「永遠の命に至る食べ物のためにはたらくための神の人間に対して要求する働きは何か」と、あくまでも「行い」という意味でイエス様に問いかけるのです。
それに対し、イエス様は、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と「行い」ではなく、イエス様ご自身に対する信仰のみが神の要求する業であるということを語られます。
 しかし、それに対しても群集はイエス様の真意を悟らず、自分の現実的な要求、お腹を満たしてくれる食べ物を求め続けます。「あなたを信じることが出来るようにどんなしるしをおこなってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか?わたしたちの先祖は荒野でマンナを食べました」、偉大なる預言者であるモーセは天からマナを降らせて先祖を満腹させたけれど、あなたが本当に「人の子」救い主であるなら、一体、私たちに具体的に何をしてくれるのか?どうやって私たちのこの空腹を、要求を満たしてくれるのか、「しるし」という言葉を用いて問うたのです。
イエス様は、天からパンを与えたのは、人間であるモーセではなく神であること、天の父こそが、まことのパンを与え、世に命を与えるということをイエス様は語られます。
 それを聞いた人々はさらにこの世のパンを求めて叫びます。「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と。

 ここでは、どこまで行っても噛み合わない神と人間との関係が感じられるのではないでしょうか。私たち人間は、あくまで自分が中心でものごとを考えます。神を求めていると言いつつ、神の言葉をそのまま理解しようとせず、どこまでも自分の都合のよいように解釈する。自分の都合のよい言葉を聞くまで引き下がらず、言葉をまくし立てる。この世の現実のみが、自分のみがあたかも真実であり、神に希望を持つと言いながらもそれは口だけで、神の偉大さ、その臨在の大きさにひれ伏すということがなかなか出来ない性質を持っており、自分の要求ばかりを自分の尺度で神にすら語り続け、時に不満を持ち、不満を神のせいにしてしまう。神の大きなご意思、御心の中に自分を投げ出すのではなく、神を自分の側に引き寄せようとしてしまう。そして、さらに誘導尋問のように自分の求める答えを相手から引き出して、引き出した答えを盾にとって、あるときは相手を攻めたりする。人間同士でも、このようなことがありますね。
 実際、この問答の末に、自分たちの望んだ答えをイエス様から引き出せず、イエス様に躓き、イエス様の元を離れた人々が多かったということを6章66節は語っております。

しかし、あくまでイエスさまはそのような尋問に乗ることはありませんでした。そのような彼らに対して、イエス様は「わたしが命のパンである」と、ここでもエゴーエイミーを使い、ご自分が神であることを宣言され、言われるのです。
「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と。
イエス様の仰った「飢え」も「渇き」も、押し寄せてきた人々が望むこの世の現実の飢えと渇きのことを仰っているのではありませんでした。もちろんイエス様は、この世の貧しい人の苦しみをあなどるようなことはなさいませんでした。ですから、貧しく、弱く、病を持つ人びとの傍らに立たれ、癒しの御手を差し伸べておられました。
しかし、ここでは明らかに現実のパンを求めて押し寄せてきた人びとに対して、別の意味で言われました。決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがないパンとは何なのでしょうか。

 今、私たちの住むこの国は貧富の差が広がり、さまざまな社会問題が噴出しています。東日本大震災、熊本・大分の地震、そして数々の水害、異常気象。現代の問題を挙げるときりがないほどで、現代という時代がどこに向かっているのか、非常に不安な時代です。イエス様の居ない、大風に見舞われたガリラヤ湖の舟の上にいるかのような時代に思えます。戦後のパンを求めての活力のある時代を経て、豊かさを享受した後、今社会全体が行き場の無い状況で、荒波の中に喘いでいるように思えます。戦後の時代、パンに満たされた私たちは、何を求め、何を受け、そして今の社会状況になっているのでしょう?どこまでも、経済の豊かさを求め、バブルとも言われたような時代もありました。でも、世の目に見える豊かさが、私たちを幸せにしたかと言えば、そうでもなかったように思う。長続きはしませんでした。パンに満たされた後、経済的な豊かさは心のゆとりも生み、各々が生活を楽しむ時代もあったと思いますが、いつしか異常な事件が頻発するようになり、ひたすらにパンを求めた時代に比べると、人の心も弱くなったと思えます。そして、さまざまな要因が重なりながら、現代の不安な、危機的な状況の舟のような社会になっていると思えます。
 人間は、まずひたすらパンを求めますが、充足すると、神を離れて勝手に生き始める者なのではないでしょうか。「信仰がある」と思っていても、神を離れて自分の欲求を飽くまで求めるというその誘惑は絶えず私たちにはあります。弟子たちがイエス様がまだそこに来られないのに、勝手に舟を漕ぎ出すように。
 イエス様が共に居られる舟に、私たちは乗らなければなりません。またイエス様のおられる所に自ら赴くのです。しかし、もし、イエス様を残して勝手に漕ぎ出してしまって荒波に襲われたならば、何よりもまず自らを省み悔い改めることです。悔い改めたならば、失敗をしたと思う不安の中にあっても、必ず主が私たちのもとに来てくださり、助けてくださることを信じること、神は私を必ず救ってくださると信じる信仰を持つことは、大切なことです。イエス様が共におられるならば、私たちは必ず必要は満たされることでしょう。

 さらにイエス様は、27節で「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ人の子があなたがたに与える食べ物である」と言われ、また40節で「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」と言われました。
イエス様の仰る「人の子があたえる食べ物」とは、「永遠の命」に至る食べ物のことであり、それがイエス様ご自身であると言うのです。

 永遠の命、ということ、しばしば語らせていただいていますが、それは神が共にある命です。神は永遠なるお方です。そのお方と共にある命、それは飢えることも渇くことのない、滅びることの無の命です。この永遠の命は、「人の子」=イエス様がお与えになるというのです。
「永遠の命」に対し、「死」があります。「死」は「永遠の命」の反対語です。
 旧約聖書に於いて「死」というものは、「土の塵から作られたものは塵に帰る」という考え方でした。また、神にとられ、居なくなるとも言われ、取られた者は、陰府=シェオールに下るというのです。陰府は暗黒にして陰鬱なところであり、そこには蛆がおり、みみずがいるとヨブ記では記されています。陰府にある者は、「亡霊」と呼ばれ、陰府は暗黒で沈黙に支配されており、死者は全く無活動な状態で希望もなく喜びもなく生きていると考えられていました。そして、自分を記憶している人たちが地上に居なくなったとき、陰府からもすら消え去る。それが旧約に於ける「死」でありました。「死」とは地上に於ける愛するものたちと別離を余儀なくされるばかりでなく、神と切り離された絶望的な滅びを意味しておりました。旧約の時代の人々は、そのような死生観の中を生きていたのです。

 イエス様はそのような死生観を持つ旧約の民であるイスラエル・ユダヤ教の中で地上にお生まれになりました。そのようなユダヤに生まれたイエス様が十字架に架かって死なれた。そして、三日後に死者の中から復活されたのです。陰府に下ったイエス様は何をしておられたか、と言いますと、「ペトロの手紙1」3章19節に記されております。「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」と。イエス様は十字架で死なれ、陰府に下られた。死者が絶望的に生きている陰府に行かれ、そこで宣教をされ、父なる神によって三日後に復活させられたのです。イエス様は、陰府に行かれ、陰府を支配され、陰府を打ち砕き復活された。絶望であった死はイエス様の十字架によって打ち破られたのです。
父なる神の御心とは40節にありますとおり「子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させること」です。私たちは、イエス様という命のパン、まことの命をつなぐための糧であるお方を、ただ信じる信仰によって救われるのです。信仰によって永遠の命にいたる道をいただけるのです。キリストを信じる者にとってこの世の死は、終わりではありません。主が死を打ち破られたからです。信仰によって人は、命のパンであられるイエス様と共にある命に入れられるのです。

 人々から「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と問われた時、イエス様は「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と仰いました。「永遠の命」を得るために、必要なこと、それはイエス様を信じる信仰です。そして、その信仰というのは、私たちのうちに行われる「神の業」でもあります。父なる神は、人間を愛するがゆえに、罪によって離れ去った人間をご自身のもとに戻したいがゆえに、命のパンである「神のひとり子」すら惜しまずに、私たちにおあたえくださいました。そのお方を信じる信仰に身を置くものでありたいと願います。

 私たちは不安な世を生きる者ですが、主のおられるところに、救いがあります。荒波から救われる道があります。
「わたしだ。恐れることはない」と言ってくださる主が共にいてくださることを信じ、信仰によってそこに絶えず立ち、世の荒波を主と共に歩み、滅びではなく、永遠の命にいたるまことの道を歩めるものとさせていただきたいと心から願います。