創世記2:4b~9 15~25
ヨハネの黙示録 4:1~11
明後日は、ルターの宗教改革から500年を数える記念日です。1517年10月31日、当時カトリック教会の司祭であったマルチン・ルターがヴィッテンベルグ城の門扉に「95か条の論題」という、当時のカトリック教会の様々な腐敗に対する問題提起を貼りつけたことをきっかけに、多くの神学論争を呼び、この流れは全ヨーロッパを巻き込み、キリスト教会の大改革が起こっていきました。
カトリック教会は、それまでの長い時代、西欧の世俗権力とのさまざまなせめぎ合いがあり、その中で教皇権の問題、聖職者の腐敗などひとことでは言えないほどの、多くの問題を抱えるようになっていました。ルターがこの日、直接問題視したのは、1515年に教皇レオ10世が贖宥状(免罪符)を発売したことにありました。この贖宥状は、本来罪の許しに必要な悔い改めなしに、金銭による贖宥状の購入のみによって人は救われるという名目によって、「サン・ピエトロ大聖堂建築資金」のために大々的に発売されていたのです。今、この教会で会堂建築をするための資金集めとして、「このお守りを買ったら罪は悔い改めなしに赦されて、あなたは天国への切符が貰えますよ」と、大々的に言いふらし、高い値段でそれを売られることを想像したら、このことがどれほど信仰とはかけ離れたものであるかが分かると思います。まさに荒唐無稽なことが、教会で大々的に行われていたのです。
私たちプロテスタント教会と言われるものの名称のプロテストとは「抗議する」という意味であり、プロテスタントとは「抗議する者」「異議を申し立てる者」という意味です。
そのような当時のカトリック教会の信仰の腐敗、権威に対し、ルターはプロテスト=異議を申し立てをし、教会の信仰を「信仰のみ」「聖書のみ」「万人祭司」を柱とする、信仰の原点に戻す運動をいたしました。「万人祭司」とは、すべての者が聖職者であるという意味ではなく、ひとりひとりが神の御前に立ち、神と人との間の和解の証人として生きるということでありましょう。また祭司とは、犠牲の献げ物を献げる役目を負う者ですから、各々が、神の御前に犠牲を献げる=悔い改め、自らを神に献げる者として生きる者とも言えましょう。私たちの教会の流れは、そのようなルターのカトリック教会への異議申し立て、信仰の原点回帰への促しの中にあります。
宗教改革のひとつの特徴として、礼拝に於いて会衆が初めて賛美することが出来るようになったということが挙げられます。それまでは、賛美は聖歌隊のものでした。宗教改革がなければ私たちは礼拝で神を高らかに賛美することは適わなかったのです。カトリック教会では、会衆賛美がなされるようになったのは、何と今から50年程前、第二バチカン公会議の後のことなのだそうです。
先ほど賛美しました賛美歌377番「神はわが砦」は、昨日K姉にチャペルコンサートで朗読していただいき、また本日の詩編交読といたしました詩編46編をモチーフに、ルターが作詞作曲した賛美歌です。詩編46編はルターが絶えず励まされ続けた詩編であったと言われており、ルターの詩編とも言われるものです。宗教改革が詩編46編にあるような、主なる神へのひたすらな、全き信頼の中に行われたことも、覚えたいと思います。
さて、教会の時節は、21週間続きました聖霊降臨節=教会の時が先週で終わり、イエス・キリストが来られることに備え、その救いの歴史を旧約聖書から辿る、降誕前の時節となりました。今日は創世記2章より、御言葉に聴きたいと思います。神による最初の人間の創造の物語です。
この人間の創造の物語を読む時、私たちの多くは疑問を感じるのではないでしょうか。今日の箇所だけを読めば、「なるほど」と思えても、少し前1章を読むと、もうひとつ、別の人間の創造の記述がある。どちらが本当なのだろう?と。
この点を聖書学は次のように説明します。2章の人間の創造の記事は、恐らく紀元前900年前後に書かれたものであり、1章は紀元前500年前後に書かれたもので、書かれた時代と創造物語が必要な背景、書き手の意図が違うと。
しかし、ふたつの創造物語の根底に共通しているのは、天地、そしてすべては、主なる神によって創造されたのだということ。すべての主権は神にあるという揺るぎ無い信仰です。
聖書には記述に矛盾があると感じられるところがありますが、矛盾と思えることも全て、神の言葉であると信じて読むことが大切だと思います。矛盾と思えることがあるということは、読み手に神の御言葉を、上から有無を言わせず「押し付ける」のではなく、重層的に語ることによって、「思索する」「自分の頭で考える」「神に問い、神と向き合い、真理を求め続ける」という、人間の自由意志、個人の尊厳に関わる部分を残すことになっているのだと思っています。そのように真理を求めつつ読んだ時、そこに溢れる神の愛と知恵、真理に必ず気づくことでしょう。是非とも、聖書で矛盾や違いのあると思えるところ、分からないと思えるところを、大切に、信仰を以って読んでいただきたいと願っています。
お読みした2章4節以下では、主なる神が地と天をお造りになられた時、地上にはまだ野の木も、草も生えていなかったと語られます。まだ、主なる神が地上に雨をお送りにならなかった―雨が降っていなかった―と言うのです。
荒れ地です。すべてが乾いた荒れ野だったのです。しかし、「土を耕す人もいなかった」と5節で語られています。
荒れ野と言えば、出エジプトをした民が40年間さまよい神による訓練を受けたのは荒れ野でした。またバプテスマのヨハネは、荒れ野で叫ぶ者の声として、人々の間に現れ、救い主イエス・キリストの到来を告げる者となりました。
聖書の信仰は荒地、荒れ野から始まります。不毛な厳しいところ、そこから神の御業は始まってゆくのです。そして15節では「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」と記され、人間は、神の地上での働きを助けることを望まれて創造されたことがうかがえるのです。
このことを、1章の創造物語では、別の語り方をしています。27節「神は御自分にかたどって人を創造された」と。人は「神のかたち」に創造されたのです。
古代オリエントの社会に於いて、支配者たちは彼らが支配し、またこれから支配しようとしている地域に、支配者たちは支配者たちの像や彫像を建立したと申します。その像は、支配者の存在と権威を象徴しています。「神のかたち」とは、このからだのかたちというよりも、この地に於いて、神の代理人のように地を支配する物として人を造られたということであるのです。そして、1章に於いては、28節で神は言われます。「海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」と。神は人を神に象ってお造りになったということは、地のさまざまな統治を任されたということがその大きな意味があるのです。このことは、2:5で「また土を耕す人がいなかった」と語られていることと、重なりあって行きます。
しかしその後、水が地下から沸き出て、土の面をすべて潤されました。神の造られた乾いた大地の下から水が湧き出る―不毛と思われる乾いたところから、神の不思議な御業が始まってゆくのです。神の働きの助け手、神の似姿としての人間の創造です。
神は潤された土を取り、人を形づくられました。
その造り方は、こうです。水を含んだ土を神が形づくり、その鼻に命の息を吹きいれられたというのです。人間の体は、成人で約60%が水分と申します。土を含んだ水から造られる・・・私にはとてもリアルに感じられます。そのように私たち人間の体は神の造られた大地と水分から出来ている。でも、形づくられたままでは、ただの粘土の人形です。その鼻から神が「命の息」を吹きいれられ、人は生きるものとなりました。
ここで私たち日本人が陥りがちな人間観が聖書の語ることは違うということを、確認したいと思うのですが、ギリシア文化も日本と同様の傾向があるのですが、肉体というものがあり、肉体に「魂」が入っている、そのような認識が、ありませんでしょうか。魂というのは、世をさまよう霊のようなもので、それ自体に固有の性質のようなものがあり、人間存在の本性は魂であり、死んだら魂が肉体を抜け出てさまよう・・・魂の浄化を求めて、所謂輪廻転生を繰り返すですとか、一様ではないでしょうが、そのようなもの。肉体と魂は別々であって、ギリシャ哲学では「肉体は魂の牢獄」と言われたりいたします。日本の古来の感覚も、それに近く、私たちの死生観もそれに近いのではないでしょうか。
しかし、ここで聖書が語っていることは、肉体に固有の魂が入って、人は生きるものとなったとは語っていません。神の息が入って人は生きるものとなったというのです。入ったものは、浄化を繰り返す魂やさまよう霊ではなく、あくまで「神の息」。人間を人間たらしめる命の息。そして、人は生きるものとなった。神の御手によって土で形づくられた「もの」に、神の息がふっと入れられて、人は生きたもの、その人自身、固有の性質と尊厳のあるひとりの人となった、と言うのです。神と関わりなく、人間は存在しないのです。神によって生かされている、これが人間の創造の原点です。
そして、主なる神は、東方にエデンの園を造られ、神ご自身が形づくった人をそこに置かれました。ちなみにこの人=アダムというのは、この時点で男性を指しているのか、というと、実はそうとは限りません。と申しますのも、アダムとは、男性という性別を表す言葉でもありますが、単に「人間」という言葉でもあります。それも弱い人間を表す言葉です。土から形づくられ、はかなく壊れやすい人間の弱さを表す言葉です。
21節以下で、アダムのあばら骨から女=エバが形づくられたことが書かれてありますが、女=エバが造られて、初めてアダムは男性となったと理解すべきなのではないでしょうか。女性が居るから、男性が居る。女性が形づくられるまでは、アダムは性別に関わりの無い「人」であったとも考えられます。
エデンの園に置かれたひとりの人、アダムを形づくられた神は、その後、大地から食べるのに良いものをもたらすあらゆる木を地に生え出でさせられました。エデンの園の中央には、命の木と、善悪の知識の木と呼ばれる木も、神は生え出でさせられました。
今日はお読みいたしませんでしたが、16節で神は語られます。「園のすべての木から取って食べなさい」と。神は人間に良きものを与えられ、また自由に食べること、振舞うことを赦されました。これは人間を尊厳のあるものとして、神は人間に自由意志を与えたのだと言えます。ただし、一つだけ条件がありました。「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」という、神の言葉による命令でした。
善悪の知識の木とは、この後、アダムとエバが、「それを食べると死んでしまう」と言われながら、蛇にそそのかされて食べてしまう、木の実のなる木のことです。しかし、命の木については食べてよいものだったのか、禁じられたものだったのか、神が禁じられた言葉はないので分かり難いのですが、3:22に「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」と言われておりますので、善悪を知る者となるまでは、見ることも出来ず、隠されていたのではないでしょうか。
この命の木について、この後3章の終わりに記され、その次に出て来るのは、新約聖書最後、ヨハネの黙示録22章2節です。聖書全体のはじめと終わりを挟み込むように、命の木のことが語られているのです。そして、それに挟まれた聖書のこの分厚い殆どの部分は、罪によって神と引き離された人間の歴史と、そんな人間をそれでも狂おしいほどに愛して救おう、ご自分のもとに取り戻そうとされる神の働きが記されています。
神の息を吹き込まれ、生きた者となり、神と共にある場所、エデンの園に住むことが赦され、神の似姿として、また自由な意志を持つことを赦された存在であることが神によって造られた人間に神の望まれる本来の姿でした。しかし、そこから離されたのは、人間が神からただ一つ禁止されたこと、善悪の知識の木から実を取って食べてはならないという神の言葉に背き、神よりも蛇の言葉に従ってしまったことから始まった罪の故でした。人間は与えられた自由意志を、神への背きに用いてしまった。それが、人間の罪の始まりでした。そして罪の縄目にがんじがらめになり、人間の側からすれば、自由に好き勝手に振る舞っていると思っているかもしれませんが、実は、非常に不自由に、神から与えられた自由意志を、罪の縄目の中に閉じ込めてしまっていると言えるのではないでしょうか。
神は、神の創造の原点に、人間を戻そう戻そうとされ、旧約の時代に於いては律法を与え、預言者に言葉を与え、人間が神に立ち帰るよう促されました。しかし、人間の罪はどこまでも深く、与えられた自由意志を、神のもとに帰ることに用いず、神の言葉に従うことに用いず、神とは正反対の事柄に心と体を費やすものであり続けました。
それでも、人間を何としてでも救おうとする主なる神は、遂に御子イエス・キリストを世に遣わされ、すべての人間の罪を、御子の十字架に於いて滅ぼし尽くし、人の罪を赦し、神と共にある命に入れられる、神の創造の原点へ、人間を連れ戻すという、一方的な恵みの道を開かれました。主の十字架は、神の計り知れない愛そのものなのです。神の御子の十字架、そして復活を通し、命の木のもと、神と共に人間が住まう道が拓かれた、これは聖書の語る壮大なメッセージです。
宗教改革記念日を覚え、また降誕前のはじめての主日、私たち人間の側は、神によって造られた私たちの創造のはじめを今一度思い起こし、まことに神のもとに立ち返ることを、私たちに与えられた自由意志と尊厳をもって、求めたいと願います。神は、ご自身が愛して創造された私たち人間を、ご自身と絶えず共にあるものとなさりたいのです。それは、聖書全体を通しての神のすべての人間に対する望みなのです。その神の御業に参与する、神の願いを成し遂げる「神の助け手」として働ける私たちでありたいと願います。
人間には神に背く罪がある。聖書はこのことをとことん語っています。イエス・キリストに出会い、救われ、もう罪は犯さないぞと思う。それでも、人間のわずかな心の隙をつくように、罪への誘いはやってきます。しかし、私たちは、絶えず、聖書に立ち戻り、信仰によって堅く立ち、また各々が主の祭司として、絶えず罪の悔い改めのささげものをささげ、神の望まれる創造のはじめの、神と人間との関係に立ち返るべく、私たちに神から本来与えられている尊厳と自由意志を、神の望むところへと用いる者でありたいと願います。
また、神に対しては、人生の中で、野の草も木もないと思えるような不毛な荒地のような日々を過ごすことがあったとしても、それでも「神は私たちの避けどころ、神は守ってくださる」という厚い信頼と信仰のもと、荒地の中から新しい事柄を起こしてくださる神に期待し、絶えず希望を捨てず歩む者でありたいと思います。
そして「信仰のみ」「聖書のみ」「万人祭司」、これらを私たちの世を生きる基盤として、世の戦いを戦いぬいて参りましょう。