出エジプト記6:2~13
ヘブライ人への手紙11:23~29
私はよく心の中で「イエス様」と、主の名前を呼びます。親しみを込めてただ呼ぶこともありますし、「助けてください」と心で叫ぶ時にも、イエス様のお名前を呼んでいます。どんな時にも、どこに居ても、呼ぶことの出来る名前を知っていること、その名は、神の名であり、そのお方が、名を呼び叫ぶ者に応えてくださる御方であること、苦しい中うめく時、その声を聞いて応えてくださるお方であるということ、このことは、私たち信仰者にとっての計り知れない恵みであることを思います。
「イエス様」と名前を呼ぶ時、イエスの名によって祈る時、私はどんな時でも「ひとりではない」ということを思います。ただおひとりの神、主の名を呼ぶことが出来ること、このことはどれほど幸いなことでしょうか。
自分自身のことですが、思い返せばこの半年ほど、いろいろなことがありました。父の闘病と死、若い日からの友人の死、またその他心に掛かることなど。自分自身は、ひとつひとつのことに心を痛めたり、悲しんだり、心配をしたりしていますが、でもイエス様の名を呼びつつ、どこか、現実に振り回されるだけではない自分が居ることも感じています。ひとつひとつの出来事に、主が共におられる、そのことを思うと安心します。唯一の神がすべてを知っていてくださるから、信じて委ねて、へこたれないで生きる力を与えていただいていることを感じています。
「信仰」ということは、目の前の現実にへこたれないで、全能の神、主が、私と共にいてくださることに信頼をして、また神の与えてくださっている約束を確かなものとして自分自身が受け留め、希望を持ち、その時々に善きことを為すことに絶えず全力で務めることなのではないか、主の名のもとに、主の名を呼びつつ、信仰と希望に生きる時、目の前に映る現実も、すべて神が備えられたこととして受け留め、今を生き抜く力が与えられるのではないか、さらには神は現実を突きぬけた、神の栄光を大胆に表してくださるのではないかと思うのです。
さて今は降誕前。旧約聖書から御言葉に聞く時節です。
今日お読みした箇所で、主なる神はモーセに「わたしは主である」と、神ご自身の名前を表されました。それまで明かされなかった名前をモーセに明かされ、ご自身がこれから人間にどのように関わろうとされているかを、大胆に語られる箇所です。
モーセとは、多くの方がご存知のとおり、旧約聖書で最大の人物とまで言われる人で、主なる神から律法を与えられた人物ですが、モーセ生い立ち、そして人生は複雑です。
今日の新約朗読のヘブライ人への手紙を紐解きながら、モーセの人生を辿りますと、エジプトで奴隷となっていたヘブライ人=イスラエル民族に対し、時のエジプトの王ファラオがヘブライ人が多くなりすぎたことへの疑心暗鬼から、ヘブライ人の男の子が生まれたら直ぐにナイル川に放り込み殺害をするようにという命令を出します。しかし、モーセの両親は生まれた子があまりにもかわいく、三ヶ月間、その子を王の命令に背いて隠します。
モーセの両親は、ヘブライ人=イスラエル民族の中でも、レビ族という、神に仕える特別な部族の人たちでした。子が生まれ、その子の可愛さはどの家族にあっても格別で、手放す、ましてや川に放り込むなどということなど、誰であってもとても出来ないことです。しかし、それをしなければ家族もろとも命の危険にさらされることになったのでしょう。モーセの両親は、苦悩しつつも、何とか子どもを生かすことを考え、危険を犯しても三ヶ月間隠しました。そのことを、今日お読みしたヘブライ人への手紙11章23節では「信仰によって、モーセは生まれてから三ヶ月間両親によって隠されました。その子の美しさを見て、王の命令を恐れなかったからです」と語られます。先祖から伝えられる、アブラハムに顕れた「全能の神」に向かって呻き祈りつつ、信仰によって両親は子を隠したというのです。理不尽な現実に、それでもひるまず、神に祈りつつ生まれたモーセを隠したのです。
神は両親の心の呻きを聞かれました。いよいよその命が狙われ危うくなり、両親によってナイル川にパピルスの籠に入れて置かれた時、ファラオの王女の憐れみを受けることになり、ファラオの王女の子として育つという奇跡が顕されたのです。さらに、実母が乳母として王宮でモーセを育てるということも起こりました。そのため、モーセは成長の過程で、自分がエジプトのファラオ家の人間ではもともとなく、奴隷として虐げられている側のヘブライ人の子であることを知っておりました。そして、心には、奴隷であるヘブライ人を、自分の「同胞」と見做すようになっていました。
そんなモーセは成人した時、一人のエジプト人が、ヘブライ人の奴隷を虐げ打っているのを目撃し、自分の同胞が苦しめられているのを見過ごせず、ヘブライ人を虐げていたエジプト人を殺してしまうのです。人を殺すという行為が、正しいと見做されることなどあってはならないことですが、ファラオの王子として育ちながらもヘブライ人を同胞として、エジプト人を打ったモーセを、今日お読みした、「ヘブライ人への手紙」は、「信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました」(11:24~25)と、モーセの信仰を讃えています。
自分自身が、エジプトのファラオではなく、イスラエルの先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブに顕された全能の神のもとにある者であり、アブラハム、イサク、ヤコブという先祖に与えられた約束のうちに、自分は生かされている人間なのだということを、モーセ自身、成長の過程で認識をしていたのでしょう。
ファラオの王子という世の富の計り知れない環境にありながら、自分自身をファラオから虐げられるヘブライ人の一員としての認識を持つということは、並大抵のことではないと思われます。そのことを、「ヘブライ人への手紙」は、賞賛しているのです。
モーセは、その時、「与えられる報いに目を向けていた」と語ります。世の繁栄に目を向けるのではなく、モーセは先祖に顕された、全能の神にこそ、すべての主権があることをその信仰によって信じていたのです。世の富ではなく、その心は、先祖の神にあったのです。
しかし、そのことの結果、モーセはその生きる現実は、ファラオから命を狙われることになり、ミディアンの地に逃れ、そこで40年間、異邦の地で結婚し、羊飼いとして生活をすることになります。そのまま、生涯が終わるのであろうと思われていた時、主なる神は、モーセの前に顕れられたのです。
モーセが神に出会い、召命を受け、今日お読みした出エジプト記6章の出来事が起こったのは、ミディアンの地でモーセが羊飼いとして暮らして40年経った時期でありました。今日お読みした、この時モーセは80歳であったと言われております。モーセ自身、人生の終盤で、羊飼いとして死ぬのだと思って疑っていなかった筈です。しかし、神のご計画は計り知れず、80歳のモーセに新しい使命をお与えになるのです。
今日お読みした6:5で、主は語られます。
「わたしはまた、エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした。それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である」と。
この「主」と書かれているところは、聖書の原文では、ヤハウェという神の名が表されていることを覚えたいと思います。主というのは、ヤハウェという神の固有名詞。神の名であり、神の人格を表しますし、また聖書に於いては、名というのは、その人の本質をも表します。また、名を知られる、ということは、名前を知られた相手に自分自身を明かすことであり、ある意味、自分の弱みを見せる、弱みを知られるということにもなります。
主なる神は、2節で「わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名を知らせなかった」と語られていますが、それまで神は人間に対し、自分自身を親しく開示をされなかった。弱みなど持っての外、お見せにはならなかったのです。その神がモーセに初めて、主=ヤハウェという名を顕されました。言い換えれば、主なる神は、この時モーセに対し、人間に対し、ご自身の秘密を明かされた、また自分の弱みすらさらけ出されたということになります。
そしてそのように、モーセに神がその名を顕されたということは、ヤハウェなる唯一全能なる神と、人間との関係に、決定的な転機が、神がご自身が人格ある者として、また人間を人格ある者として、新しい関係を構築されようとする、その大転換の「時」であったということです。
その大転換は、主が、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民の呻きを聞かれ、その苦しみ見て、アブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた契約を思い起こしたことがきっかけでした。イスラエルの人々の苦しみ、呻きが、神を突き動かしたのです。
そして、モーセの前に、その名前を宣言されて、ご自身を開示され、その弱さをもさらけだされ、神と人が、再び合間見えるための、神と人とが再び共に生きるための、人格的な交わりの修復を、神の側が始められたのです。その神の側の愛の宣言が、その名を知らせるということであったのです。
「わたしは主である」=私の名はヤハウェである、と宣言された主は、さらに「わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う」と言われました。「贖う」とは「代価を払って買い戻す」「ご自分のものにする」という意味です。罪によって、神から離れていった人間に、ヤハウェなる主は、アブラハムに立てた約束、間に交わした契約を思い起こし、自ら近寄り「贖う」と、その名を持って宣言されたのです。
ヤハウェなる主は、アブラハムとの間に交わした契約を思い起こすと仰った、これは神は約束された言葉を必ず果たされるということです。神はご自身の約束された言葉を、ご自身の名のもとに宣言された言葉を、決して反故にすることはないのです。神は、約束された言葉を果たされるお方です。そして、この後、奴隷であったイスラエルを、エジプトから解放され、神が与えると約束された地に向かわせられるのです。
私たちは神は約束を必ず果たされるということに、私たちが思う以上に、もっともっと信頼し、私たち自身を神に委ねるべきなのではないでしょうか。
私の所感になるかも知れませんが、ヤハウェなる主、私たちの神は、何と控え目に、深い配慮と愛を以って、人間に関わられるのだろうということを、私は、旧約聖書のモーセに至る、神の顕現を通して思うのです。
はじめの人、アダムとエバは、ヤハウェなる主、神と、その始め交わした約束を破り、蛇の言葉に従ってしまった。「神はご自分にかたどって人を創造された」(創世記1:27)、それほどまでの神の喜びであったはずの人間は、神との約束を破ったのです。神は人間との約束に忠実であられますが、人間は約束の言葉に忠実ではありません。神は不忠実な人間に裏切られたのです。
ご自身を裏切った人間に対し、神は旧約聖書を読んでいると、控え目に追いかけるようにそれでも顕れ、救いを示されます。ノアの方舟は、激しい人間の罪の中で、ひとりの義人を神が選び出し、救いを表されました。アブラハムとは、土地と子孫を与えるという契約を交わされました。その間、脈々と人間の神への背き、罪はとどまるところを知らないほど深くなっていきます。
そして、遂にヤハウェなる神が、人間にその名を表し、大胆に「贖う」「救う」「わたしはあなたたちの神となる」(7節)と、宣言をされたのは、5節「エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした」のだと仰るのです。神が、人間との関係を取り戻す決意をされたのは、イスラエルの人々の、人間の呻きを聞き、苦しみを見過ごすことが出来なかったからでありました。そこで遂に約束を果たされようと動かれました。
ヤハウェなる主は、人間を、私たちを、愛して愛してやまず、人間の尊厳を尊重しつつ、控え目に人間に寄り添いつつ、愛する人間の呻きと苦しみを見過ごすことが出来ず、この時、モーセを通して、「私は主=ヤハウェである」とご自身の名を、その弱さをもさらけだされ、大胆に人間に近づかれ、救いを示そうとされたのです。
主なる神は、人間の苦悩と呻きに突き動かされ、ご自分の名前を表し、救いの宣言をされたのです。
そしてその愛は、遂に、私たちにイエス・キリストとして顕されました。ヤハウェなる主なる神が人となられたお方、それが私たちの主イエス・キリストです。人間自身では取り去れない罪を、人となられた神、神の御子ご自身が、人間の罪に代わって十字架に架かられ、すべての人の罪を贖う道を拓かれました。私たちの罪の赦しのために、神の御子のその命を、私たちの命に代わって十字架の上で捨てられ、死なれ、血が流された。
私たちの命の代価は、私たちの贖いは、神の御子の命なのです。私たちはこのお方の御前に、自らの罪を悔い改め、イエス・キリストの十字架を、さらに復活を信じる信仰によって救われます。
これは、神の契約。神の約束の言葉は、必ず成し遂げられます。私たちはこの救いの約束を信仰をもって堅く保ち、命を捨てられるほどの愛に生かされている者として、どんな時にも、希望を持って、目の前にある現実を切り拓く者でありたいと願います。
さらに、はじめは名を明かされず、モーセに初めてご自身の名を表された主なる神が、人として世に送られたイエス様は、ヨハネによる福音書16章24節、最後の晩餐の席で、弟子たちに言われました。「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」と。
また使徒言行録21章、「主の名を呼び求める者は皆、救われる」と語られています。
今、イエス・キリストを信じる者たちに、かつてモーセに「わたしは主である」と、名前を明かされ、ご自身を人間にさらけだされた神は、人となられた神の御子=神ご自身であられるお方の、主の名を呼び求めることを、また主の名を用いて祈ることまで、赦してくださっておられます。
イエス様の名を用いて祈るということ、それは、私たちの祈りがイエス様の祈りとなる、それほどのことなのです。
人間の呻きを聞き、「わたしは主である」とモーセを通して名を明かされ、人間に自ら近寄られた神は、私たちの祈りに於いて、神、イエス・キリストとひとつになる特権まで与えてくださったのです。
この憐れみ深い神の愛に、私たちは、信仰をもって応えるものでありたいと願います。どんなときにもへこたれず、祈り、たゆまずイエス様の名を呼びつつ生きるのです。
主は必ず私たちを力づけ、立ち上がり、生きる救いの道を示されます。