教会の暦では、この聖日が一年の終わりの聖日となります。次週からは、教会では新しい年。主のご降誕、救い主が来られることを待ち望みつつ備える待降節がはじまります。
この主日は、終末主日とも呼ばれ、特に「終わりの日」つまり神の国の完成を迎えることに思いを馳せる時でもあります。
日本基督教団の暦で、この一年の最後の聖日を「収穫感謝」としており、私たちの教会では、今日は子どもの教会で、秋の実りの「収穫感謝」を祝い、礼拝し、分級をいたしました。収穫感謝とは、もともとはイギリスからアメリカに移民したピューリタンの大陸での最初の収穫を感謝して祝ったことに由来するものなのだそうですが、その祝いを、一年の終わりの終末主日に重ねていることは、意味のあることに思えます。
「収穫」とは、聖書に於いて「刈り入れの時」。刈り入れとは、終わりの日に、神が被造物のすべてを裁かれる日、最後の審判の日を表す言葉であるからです。
その日、既に死んだ人も生きている人も、すべての人は、神の御前に立たされ、「行いに応じて裁かれる」と、ヨハネの黙示録20章12節は語っています。
聖書は、この世と世にあるすべてのものは、神によって造られたものであり、それはすべて有限なものであることを語っています。世にあるものはすべて終わりがある、有限でありますが、神は永遠の昔から永遠の遥かまでおられるお方です。その神の支配の中に、神によって造られたこの世を、今私たちは生きています。この世は有限ではありますが、しかし聖書は、信仰に生きる私たちの命は、この世の命で終わるものではないことを語っています。
造られたはじめ、人間は神のもとで永遠なる神と共に生きる者でありました。しかし、はじめの人アダムの罪によって、神と人の間には、人間からは神のもとに行くことが出来ない裂け目が出来てしまった。罪とは人間の神への背きを表す言葉で、罪とはかかわりのない神は、罪ある人間と共に生きることが出来ないからです。
神から見て人間には渡ることが出来ない裂け目の向こう側が、私たちの今生きている「世」です。神のおられるところは天、私たちの住むところは地です。この地に生きる私たちの世は、神への背きの世でありますので、愛であられる神様の御心とは、反対のことばかり、人間の悪意、金銭への欲望、愛の裏切り、人間同士の争い、戦争。さまざまな罪が渦巻いている、死という終わりのある世です。
そのような世と世に生きる人間を神は憐れまれ、罪によって神と分かたれ、滅びに定められている人間を救うために、神ご自身が人間の罪による裂け目を乗り超えて、人間に近寄ってこられ、しかも神ご自身が人となり、イエスという人として世に来られ、すべての人の罪をご自身が引き受けるために、すべての人間の罪の身代わりとして、十字架に架かり死なれました。そして、イエス・キリストの御前に自らの罪を悔い改める者に、神は、罪の赦し、神との和解、そして世の命を超えた、神と共にある永遠の命を与えるという、途轍もない愛を顕されました。
イエス・キリストは、十字架によって神と人が分断された裂け目に立たれ、その十字架によって人が再び神のもとへ行く道を拓かれました。十字架とは神と人間との和解を表すものです。
そして私たちは今、神との裂け目の向こう側にある世にあって、世にある教会で、神を見上げ礼拝しています。週のはじめの日の朝ごとに、神の憐みによってここに招かれ、主の贖いを表すこの聖餐卓と、十字架の御前に集い、神を賛美礼拝しています。ここは、主の十字架の贖い、十字架による神との和解によって、神と人とが世にあって結び合わされることが、人間の目に見える場所です。その教会に、私たちは週に一度戻ってきます。一週間のさまざまな厳しい世の営みをそれぞれが為し、またここに戻って来ます。自分自身の弱さや罪を嘆きつつ、涙を流しつつ過ごした一週間であったかもしれません。体や心を弱くし、前途を悲嘆した週であったかもしれない。
しかし、私たちには戻るべき場所があります。赦しと救いの十字架が立てられている教会の礼拝に、どのような時にも私たちは招かれており、また戻って来ることが出来ます。ここは、自らの罪を悔い改め赦された者たちの、戻って来る場所、新たな力を受けて新しい週の歩みに踏み出していく場所です。罪を赦された私たちは、主の十字架の死によって赦され、神と和解させていただき、復活されたイエス・キリストによって生かされていることを絶えず心に刻みつつ生きるのです。
週のはじめに礼拝をするということは、世に於いて、罪を悔い改め、神に結ばれた私たちに赦されている恵みであり、また刈り入れの日への備えであり、何よりも世で為すべき私たちの「行い」と言えましょう
今日の御言葉は、パウロの同労者であり、パウロよりかなり年下の青年であったテモテに対しての牧会に対するさまざまな勧めとアドバイス、そして伝道者としてのテモテへの励ましの手紙です。
テモテは小アジア、今のトルコの中部リストラという町の人でした。父親はギリシア人、母親は信仰深い ユダヤ人です。まず彼の母と祖母が、イエス・キリストを信じる人になりました。そしてテモテも祖母と母に倣いキリスト者となり、その地域の兄弟たちの間で評判の良い人であったようです。そのようなテモテに第二回伝道旅行の途中にあったパウロが出会い、彼を伝道旅行に同行させました。こうしてテモテはパウロから「信仰によるまことの子」(1:2)と呼ばれるほどに信頼される同労者となりました。
やがてテモテはエフェソの教会を牧会しながらパウロに代わってアジア諸教会の指導者となっていきます。
しかし、この手紙を読みますと、 テモテの働きが相当に困難を極めていたことが分かります。異端的な教師たちの 問題に悩まされ、しかも彼はまだ年若く、若い故に年配の人たちから軽んじられるということもあったことがうかがえます。「あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません」(4:11)とパウロは語っています。また身体も弱かったようです。パウロはテモテに対し、「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、度々起こる病気のために、 ぶどう酒を少し用いなさい」(5:23)ということまで書いています。テモテは、エフェソの教会を牧会する中で、肉体的にも精神的にも相当に弱っていることを、パウロは伝え聞いていたのでしょう。
人は仕事をする中、与えられた仕事の重さに、悩むことがあるのではないでしょうか。また仕事だけでなく、日常生活のあらゆるところ、親しい人間関係などでも悩み、自分の限界にぶち当たり、自分の力ではどうしようもなく行き詰まったと思えてしまうときがありましょう。行き詰まり、重荷に耐えきれなくなり、時に逃げたくなる程に苦しみ悩むこともあるのではないでしょうか。
パウロはここで、恐らくは、自分に与えられている働きの重荷に耐えかね、自信を失い、体調も崩しながらもエフェソの教会の牧者として仕えている、若いテモテに対し、改めて自分自身を語りながら、励ましを語り始めるのです。「わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています」と。そして、パウロは、この方=イエス・キリストが、パウロを忠実な者として務めにつかせてくださったのです、と語るのです。
パウロはもともと忠実な神の僕であったでしょうか。イエス・キリストに忠実であったから、神に選ばれたのでしょうか。
多くの方がご存知のとおり、パウロはもともとイエス様の弟子ではなく、反対にイエス様とイエス様の弟子たちを迫害する側の最たる人物でした。イエス・キリストを信じる人を見つけ出しては、捕まえて、牢に投げ込む、そのようなことをしていた人です。その時には、人に暴力を振るい、人々を脅えあがらせていた、そのような人物です。
神の選びというのは不思議です。人間の考えることと神の思いは違う。本日の旧約朗読では、ダビデ王を神が選ばれる出来事が語られましたが、16:7で主なる神はサムエルに言われました。「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と。そして、まだ少年であったダビデが神によって選ばれるわけですが、選ばれたダビデの心というものは、ここでは何も語られていません。その後、ダビデは絶えず主に御心を問い、その意味で神に忠実な人でありましたが、その人生の中で、人の妻を奪い、その夫の命を取るという大きな罪を犯した人でもあります。しかし、自らの罪を深く悔いて、悔い改めて、神の大きな赦しの御手のうちに置かれた人でもあります。
また、私たちひとりひとりはどうでしょうか。
私たちはそれぞれ、時を得て、ここにやって参りました。教会の門をくぐるということ、その最初の思いというのは、恐らく相当な覚悟が必要だったことと思います。
私たちはそれぞれ、教会の門をくぐるその時、神に忠実であったから、正しい者であったから、「選ばれて」教会の門をくぐった訳ではないはずです。テモテのように、母や祖母が先に信仰を持ち、導き手のもとに教会の門をくぐった方もおられましょう。また、何か言葉に出来ない真理を求めて来られた方もおられましょう。しかし、ひとりで教会の門をくぐったならば、心の中に、罪の重荷や、拭えない不安や問題、時に言い知れない悲しみを抱えて、教会の門をくぐられた方もおられるのではないでしょうか。弱いところがあったから、罪が深かったから、特別に神に選ばれて、救いを求めて、教会の門をくぐったという方もおられるのではないでしょうか。
私自身は、教会の門をくぐった時、自分の罪の問題で苦しんでいました。罪によって自分が弱くなり、行き場を失ったように思えた時、家の窓から十字架が見えることに気づき、十字架を求めて教会に行ったことを思い出します。神の憐れみによって、教会に招かれたことをはっきりと思います。
パウロ自身、罪人であった自分を痛いほど知っておりました。パウロは、イエス様に従う人たちに暴力を振るい、牢に引き入れることに躍起になっている中、突如キリストに出会うこととなりました。彼は、その後3日間目が見えなくなり、それとともに自分自身とも向き合うこととなりました。そして人々を裁き、断罪してきた 自分自身こそが、まさに神の前に裁かれるべき罪人であるということを暗闇に中でパウロはまず知ったのです。
しかし、そこでパウロが出会ったキリストは、パウロを罪人として断罪するお方ではありませんでした。そうではなくて、彼を赦し、彼を救ってくださるお方だったのです。パウロはイエス・キリストに出会うことにより、パウロの罪に対する神の怒りを知ったのではなく、こんな自分をも赦して救ってくださる神の憐れみを知ったのです。ですから彼は言うのです。 「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実で あり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です」 (15節)と。そして、そのように罪人の最たる者である自分自身が憐れみを受けたのは、キリストを信じて、永遠の命を得ようとしているすべての人たちの手本となるためであったと語るのです。自分ほどの暴力を振るい、迫害をし、神を冒涜すらした罪人が赦されたのだ、赦されない罪など無い、悔い改め、主の十字架に縋る者に、赦されない者はいないのだとパウロは語るのです。
そしてパウロは赦された者として、イエス・キリストを宣べ伝える伝道者として召されました。それは、パウロ自身がもともと「忠実な者」であったからではありません。パウロは、自らの罪の悔い改めに対し、「忠実な者」であったのです。悔い改め、罪赦された者であるパウロは、神の憐れみにより、神の力によって新たな力を受け、強くされ、イエス・キリストの福音を伝える者としての務めを為して行ったのです。
パウロがここで、自らに課せられた働きの中で苦しむテモテに語りたかったことは、自分の力に頼るのではなく、自分自身の弱さや限界にいたずらに苦しむのではなく、何よりも、神に赦された者として、まず神の御前に立つ、ということへの勧めではなかったでしょうか。悔い改め、神の御前に立つということは、神の公正と正義、裁きの御前に立ち、自らを神に委ねるということです。
誰しも与えられた現実に苦しむことがあります。自分の無力にさいなまれ、現実から逃げたいとすら思えるほどに追い詰められる、そのような時があるかもしれません。しかし、そのような時、実は私たちは、本当に神に寄り頼むということに、また祈ることに、乏しい者なのではないでしょうか。心の慌しさに祈ることも忘れ、苦悩し、自分自身の内側でもがき、出口の無い暗闇に立たされている、そのようなことはないでしょうか。
たとえ、現実がどのようなものであれ、私たちが、ただ、ひとりの罪人として、自らを悔い改め、神の御前に立つ時、神は私たちを忠実な者と看做し、強めてくださいます。
私自身の恥ずかしい告白ですが、牧師として、自分自身の弱さや、能力の限界に苦しむことがあります。その度に、ただ、ひとりの罪人として神に赦しを乞います。結局そこに立たされてしまう。そこから新しい力を、自分の内側から神が働いてくださり、新しい力を得ることを日々経験している者です。そのようにしながら、神が召してくださったことに、委ねつつ仕えています。
さらに私たちには、週に一度、ここに集い、神を礼拝する恵みが与えられています。立ち返る場所があります。戻ってくる場所があります。ここは、イエス・キリストの赦しと救いの十字架が立てられているところです。どのような悲しみも、苦悩も、私たちが御前に立ち、自らを差し出し祈る時、赦し、強めてくださる方がおられるところです。
人間は弱い。だから、絶えず神を礼拝するのです。絶えず礼拝をするという、この行為を為しつつ、神に赦された者として世を生きつつ、刈り入れの時に備えるのです。神と人との裂け目に立たれた、主イエス・キリストは、絶えず神を礼拝し、御前に立ち、自らを悔い改め生きる私たちを、必ず強めてくださいます。そして、神が共にある永遠の命へまでも、導いてくださいます。
私たちを強くしてくださる、わたしたちの主イエス・キリストに感謝しつつ、絶えずひとりの罪人として神の御前に立ち、礼拝をしつつ、世で与えられたそれぞれの務めを、雄々しくなしてゆく者でありたいと願います。祈り、委ね、この週も主と共に歩ませていただきましょう。神の御前に悔い改めつつ立つ私たちと、イエス・キリストは共にいてくださいます。