イザヤ書40:1~11
ペトロの手紙二 3:8~14
「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」
ペトロの手紙二3:8の御言葉です。
神の時間とはどういうものなのだろう?時々私は考えます。そして、この御言葉のとおり、神の時間と人間の時間というのは、違うのだろうと思うのです。
時間のことを考えながら、私は創世記一章の神の創造の記述を思い浮かべます。「神は言われた。『光あれ』こうして光があった」。これが神の万物を創造された最初の事柄であり、神は6日間をかけてすべてのもの、人間も含めて造られ、7日目に安息された、と語られているところです。
そのように考えて行きつくところは、人間の生きる時、また時間も神がおつくりになり、神が定められたものなのだ、神が造られたものなのだということです。
この聖書の記述を巡っては、現在でも多くの議論があります。聖書というのは、本当に人に物事を「考えさせる」書物です。
私もいろいろ試行錯誤しました。そして、「神は人間を遥かに超えたお方であ」り、人間には到達し得ない領域があることを認めつつ、聖書は神が万物の創造者であられる、という聖書の語る大前提を信じて、単純に聖書を読む時、私なりに思い至りました。
それは創世記1章を、私たちは、人間の時間の「一日」を神の「一日」として捉えて考えているから、「一日でそんなものが造られる訳はない」のような意見も出て来るのだと思いました。
そもそも、私たちが考える「一日」とは、地球が自転していることを起点としているわけで、地球が一回転する時間を24時間=一日と捉えています。しかし、神は万物をお造りになられたお方で、地球をもお造りになられたお方です。地球が出来るよりも遥か前からおられたお方ですので、地球に住む私たちの考える、「一日」とは、違う時の概念の中で、万物を言葉によってお造りになったのに違いないです。違う時の概念を、神の時、神の時間とも言いましょうか。
ギリシャ語で「時」という言葉は、ふたつあり、ひとつは「流れる時間」という意味のクロノス、もうひとつは、「神の時、神が特別なことをなさる時」という意味のカイロス。カイロスというのは、時の一点を指す言葉なのですが、神の時というのは、時空を超えて絶えず時の、一点を指すのではないかなどと思うのです。
そうすると「一日で天地を造り、光を作られたのか」と、私たち地球に住む者の時間概念で考えること自体がおかしなことに思えてきてしまいました。「神の一日」とは、地球の自転を基にした「一日」ではない、人間には計り知り得ない、神の時、神の「一日」。はじめであり、終わりであられる神、私たちには計り知ることの出来ない、大いなる神のもとに於いては、人間の一日という概念は、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」と言われるように、私たちの時間の流れという概念とは、全く違うものであるに違いないのです。
さて、先週お読みした、テモテへの手紙二は、パウロの遺言とも言える手紙でしたが、このペトロの手紙二は、ペトロの遺言と言える書物と言えます。1:18で「自分がこの仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです。自分が世を去った後もあなたがたにこれらのことを絶えず思い出してもらうように、わたしは努めます」と、ペトロは自分自身の死を覚悟した言葉を語っているからです。
この手紙が書かれた時代、主の教会は、異端と言われる教えが紛れ込み、教会の中は多くの混乱がありました。特にグノーシスと言われる思想は、教会の中で大きな脅威でした。この教えは、「肉体は魂の牢獄」というギリシャ的な思想のもとにあり、肉体を軽んじるために、体の欲望に任せて放縦な生活をしている人たちがおり、そのような人たちが、教会の中に紛れ込み、イエス・キリストの福音を曲げて、また軽んじて、福音をあざけり嗤うようなこともあったようです。お読みした少し前の3:4には、その人たちの言葉が記されています。
「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか」と。
イエス・キリストは、十字架に架けられ、死なれ、復活し、天に昇られました。天にキリストがそのままの姿で上に上げられる姿を見ていた弟子たちに、天使が告げました。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」と。
この約束は、初代教会の人々にとっての希望でありました。キリストは天に昇られた、しかしもうすぐに戻って来られる。世には多くの迫害、困難があるけれど、イエス・キリストがすべてのものを公正と正義とをもって裁くために、再び天から降りて来られる。そしてキリストを信じる者たちは、永遠の救いに入れられると。
しかし、主の来臨はなかなかやって来ません。待てども待てども来ない。主が天に上げられる姿を、イエス様の筆頭の弟子であり、またこの手紙の著者であるペトロは見ていました。また、ペトロはマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書で語られている、高い山で、イエス様の顔が太陽のように光り輝き、服は光のように白くなり、そこで、イエス様がモーセとエリヤと共に語り合っていることを目撃した証人でもありました。このことを、ペトロはこの手紙の1:16から、自分の言葉で語っています。
そのようにイエス・キリストの人知を超えた姿を目の当たりに何度もしてきたペトロには、主が再び来られるという約束が確かなことであることは分かるのです。
しかし、主の来臨を待ち焦がれつつ苦難に耐え忍びつつ、死んでいく人が増えてしまった。主の約束など、本当は実現などしないのではないか、と人々は言い始め、嘲り、教会の信仰を混乱させる人たちが現れてきたのです。
それに対し、ペトロは語ります。「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」と。さらに「主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」と、キリストが再び来られる時が遅れていると思えるのは、神がすべての人を救いに入れるために忍耐をして、待っておおられるからだとペトロは語るのです。
神の望みは、すべての人間が救われる、ということです。神は私たち人間を愛しておられます。
それにしても、神は何故、「人間の救い」にそれほどまでの拘られるのでしょうか。これは聖書に関する根源的な問いではないでしょうか。「救い」とは一体なんなのでしょう。聖書は人間の救いを徹底的に語ります。それと同時に、聖書は人間は世にあっては罪人であり、罪人であるということは、滅びに定められている、そのことを語ります。
しかし神は、人間を愛しておられ、人間が滅びるのではなく、神と共にある命に生きることを切望しておられる。神ご自身が人となられたイエス・キリストは、すべての人を救うために、世に生まれられ、そして、自らをすべての人の救いのために、すべての人の命の贖いとなられました。十字架の上で、人間の経験し得る、最大の恐れも、最大の痛みも、最大の屈辱も、すべてを人となられた神がその身に経験されて、罪の世で生きる人間の受ける最大の苦しみを、その身ですべてを知り尽くされ、死なれました。それが、ただお一人の神、すべてのものをお造りになられた神が、人としてお生まれになった生き様であられました。
神が、それほどまでに、ご自身を人間に献げ尽くしてくださるほどに、人間が世において定められている滅びというものは、恐ろしいものである、神は人間に滅びをもたらすことは決してなさりたくない、そういうことなのないでしょうか。人間には知り得ない、神の領域がある、このことを、神の被造物である私たちは、謙遜に認め、畏れをもって、御言葉の語るところを、疑うのではなく、信じる者であるべきです。
「主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に溶け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日が来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです」(3:10~12a)
「主の日」、それは、ペトロの言葉によれば、恐ろしい日です。「自然界の諸要素は熱に溶け尽くし」「暴かれる」、暴かれるいう言葉を口語訳など他の聖書では、「焼き尽くす」と訳されています。そしてその恐ろしい日が来るのを「早めるようにすべきです」とペトロは語ります。
早めるようにするために勧められることは、「聖なる信心深い生活」です。何故なら、主の日は恐ろしい日であるかもしれないけれど、神が求めておられるのは、「一人も滅びないで皆が悔い改める」ことであるからです。人間の罪というものは、滅びに定められているものであるけれど、人間の罪の悔い改めによって、その日は、「義の宿る新しい天と新しい地が現される」神の約束の日、救いの日ともなります。
すべての人にとって、「主の日」が約束の日の祝福の日となるために、神は忍耐しておられると言うのです。神は、忍耐を以って、すべての人が、罪を悔い改め、イエス・キリストを信じて、救いに入れられることを待っておられるのです。その日が救いの日であるからこそ「その日が来るのを早めるように」と語るのです。
すべての人の救いということについて、ペトロの手紙一の3:19では次のように語られています。「霊に於いてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です」。神に従わず、箱舟をひとりもくもくと造るノアを嘲り笑っていた人たち、一度は洪水で滅びてしまい、陰府の国に閉じ込められた人たちでしたが、キリストは、その人たちのところのいる陰府まで自ら降りて行かれ、救いを告げ知らせられたと言うのです。
私たちは毎週信仰告白で次のように信仰の告白をしています。
「主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ、ポンテオピラトのもとに苦しみを受け、十字架に架かり、死にて葬られ、陰府に降り、三日目に死人のうちより甦り、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」と。「死にて葬られ、陰府に降り、三日目に死人のうちより甦り」というのは、イエス様は、十字架で死なれ、陰府という死者の国、ペトロの語るところの「ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐しておられたのに従わなかった者」の居たところです。主は十字架により、人間が経験する苦しみの死を通られ、人間と同様に陰府の国にまで低く低く降られ、そこに於いても尚、罪の縄目に閉じ込められている霊たちに救いを告げ知らせ、陰府を打ち破り復活され、天に昇られたのです。
それをなさるほどに、すべての人の救いを成し遂げようと、神はしておられるのです。
そして、主は「ひとりも滅びないで皆が悔い改めるようにと」忍耐をして、待っておられます。陰府に一度として下ることなく、すべての人が世にあるうちに悔い改め、救いに与る日のために、神はご自身の「時」を「待って」おられるのです。神は約束の実現を遅らせておられるのではありません。神は「時」を忍耐して待っておられます。
「待つ」ということは、神にとっては愛なのです。その「忍耐」という愛のもと、私たちは世を生かされています。神は私たち人間のすべてが、悔い改めて、神の側を向くことを待っておられるのです。
この愛に、私たちはどのように応えて生きるのでしょうか。ペトロは11節で「聖なる信心深い生活を送らなければなりません」と語ります。そう、心して、主に向き直り、私たちは、自分自身を省み整え、主が再び来られる日のための備えをすべきでありましょう。
今、3本目の蝋燭が灯り、主のご降誕、また主が再び来られる時を待ち望むアドベントの時を過ごしています。心に主の光を灯して、闇の行いを脱ぎ捨てて、日々を歩みたいと願うものです。
神はすべての人が、ひとりも滅びないことを望んでおられます。そのために忍耐し、私たちの歩みを導いていてくださいます。
ブルムハルトという19世紀のドイツの牧師の言葉にこのような言葉があります。「人間は誰ひとりとして、自分が捨てられていると感ずるべきではない。イエスが生まれたからには、すべてのものが愛せられているのである」と。
人間の思いを超えた神の愛と約束が顕される、それがクリスマスです。
アドベントのこの時、私たちには、まず、私たちに先立って、私たちすべての救いのための「神の忍耐」そして「主の約束」があることに心を向けるべきありましょう。
「主の約束」とは、何と言っても世で私たちがどのような状況にたとえ置かれていたとしても、私たちを愛するが故に、命を捨てられる程の神の愛が既に与えられている、そのお方の前に自らを悔い改め、信仰によって救われるという約束。
そして、その愛の約束のもと、世に於いて、私たちの世の苦労、そして信仰に報いて下さるお方が来られる「主の日」「神の日」が来るという約束。
疑い、呟き、世の現実に嘆くのではなく、どんな時にも主の約束を信じ、救いの約束を信じ、その実現を待ち望み、主が再び来られることを待ち望むことによって、ひたすら待ち望みつつ生きることによって、私たちは、そのまま神の支配の中に入れられるのです。私たちの生きる時間の流れというのは、生きる現実というのは、神による特別なことがなされる時、「神の時間」「神の時」の中に入れられるのです。私たちは「待ち望みつつ生きる」という信仰によって、世の現実、世の時間の流れからは思いもかけない、神の支配の中を、世にありながら、私たちは生きることを得させていただけます。
イエス・キリストが命を私たちに献げ尽くしてくださり、拓いてくださった、救いの道、「神の約束」を待ち望みつつ、私たちは世にある限り生き抜き、願わくば「きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると、神に認められるような、そのような歩みをさせていただけるものでありたいと願います。
神は神ご自身の時に至るまで、忍耐をもって、私たちのすべてが主と共に歩む者となる日を、待っておられます。