レビ記23:34~43
ヨハネによる福音書7:1~9
ヨハネによる福音書7章に入りました。
前の長い6章では、五つのパンと二匹の魚で、イエス様が男だけで5000人の人たちを満腹させたことから始まり、多くの人々がイエス様の周囲に居たことが語られておりましたが、イエス様の語られる言葉を聞いた人々は、どんどん去ってゆき、弟子たちすらその多くが離れて行ってしまったことが語られておりました。
イエス様の言葉の真実は人々に通じませんでした。
これらの出来事の後、イエス様は故郷ガリラヤに留まっておられました。ときに、ユダヤ教の三大祭のひとつ、最も盛大に祝われたと言われている仮庵祭が近づいていたのです。
ヨハネ福音書の特色の一つはユダヤ人の「祭」が何度も出てくることです。 最初に出てくるのは、2章、イエス様が「最初のしるし」を行われたカナの婚礼の出来事の直後に、「ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた」とあります。これは、イエス様の宣教が始まった後の最初の過越祭と言えます。
その後、6章4節に再び「年に一回の過越祭が近づいていた」と記され、カナの婚礼の出来事から、一年の一巡りがあったことが推察されます。
そして今日の箇所では、春の過越祭に対して、秋に行われる収穫を祝う、祭の中でも一番盛大な祭であったと言われる「仮庵祭が近づいていた」と語られています。以後、10章22節に「神殿奉献祭」という、12月頃の祭が語られていて、そして11:55では、再び「過越祭が近づいた」とということが記されています。
ヨハネによる福音書には過越祭が三回出て参りますが、これが、イエス様の神の子としての宣教の年月が3年であったということの根拠となっています。
それらの祭りによって、イエス様の活動が区切られており、その三回目の過越祭―出エジプトという救済の出来事を記念する祭り―の中で、イエス様は世の罪を取り除く小羊として、罪人に罪の赦しと、永遠の命を与える救いの御業を、十字架と復活を通して成し遂げていかれることになります。
そのように祭を通してヨハネによる福音書を読み進んでみますと、この7章というのは、イエス様が十字架に掛けられるおよそ半年ほど前の出来事である、ということが分かります。イエス様とユダヤ人たちの対立が深まって行っています。今日お読みした初めに、イエス様がこの時ガリラヤに留まっておられたのは、「ユダヤ人がイエス様を殺そうとねらっていたからだ」と語られています。
その時、イエス様の兄弟たちがイエス様に言うのです。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちに見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない」と。非常に意地の悪い言い方だと思えます。「お兄さん、あなたは自分がどれだけすごいことが出来るのか、お兄さん自身、本当はもっとたくさんの人に知らせたいのでしょう?それならこんな田舎で隠れてひそかに貧しい人や病気の人たちのところを巡って、こそこそと良いことやら不思議な業を行ったりするのではなく、人の大勢居る都会に出かけて行って、同じ事をやって、弟子たちに見せてあげてごらん。そうしたら、弟子たちももっと喜ぶし、お兄さんはお兄さんが望んでいるとおりに有名になれますよ」、このようなニュアンスの言葉です。明らかに家族からの乱暴な「嘲り」の言葉です。また、嘲りだけでなく、イエス様の不思議な力によってイエス様が世の衆目をもっと集め、権威を得ることで、自分たちも兄弟としてあやかれるものがあるならあやかりたいという、よこしまな思いもあったのではないでしょうか。「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」(マタイ13:58)とイエス様は語っておられるところがありますが、このような兄弟の言葉に、イエス様は本当に悲しまれたに違いありません。
イエス様に兄弟がいたということを、ここで聖書ははっきりと書いてありますが、このことは意外に忘れられやすいことのように思います。以前、信仰生活40年以上の方が、ある日の礼拝の後、「イエス様に兄弟が居たことは知らなかった!」と、びっくりしておられたのを聞きました。それほどに、見過ごされ易いことだと思います。
それはカトリック教会の影響もあるかと思います。カトリック教会は母マリアの処女性を、教理の重要な部分としておりますので、マリアがイエス様以外の子を、ヨセフを通して産んだということを認めず、「兄弟」という聖書の言葉を、当時は親族も含めた大家族の意味合いがあったから、従兄弟のことを兄弟と言っているのだ、という理解に今も立っています。そのようなことから、見落とされ勝ちな事柄ですが、しかし、私たちプロテスタント教会は、聖書に基づき、兄弟という言葉はそのまま受け取っており、イエス様はマリアの長子ですので、この兄弟たちというのは、イエス様の弟たちだと理解しています。
その意地の悪い家族、弟たちの嘲りの言葉に対し、イエス様は言われます。
「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。」
イエス様の仰る「わたしの時」とは、ギリシア語でカイロス。何度か、このギリシア語の「時」カイロスについてはお話しをさせていただきました。歴史の流れの中の、重要な一点、瞬間、殊に神の出来事が起こる時を表すギリシア語です。そして、「あなたがた=兄弟たちの時」もカイロスです。
ギリシア語の原文では、イエス様の「わたしの時」は、ホーカイロスと記されているのですが、ホーとは、英語のthe に当たる定冠詞です。「あなたがたの時」もホーカイロスと定冠詞付きで記されているのですが、その違いはイエス様の「わたしの時」の定冠詞ホーは、大文字で記されています。それは、「神の栄光を表す時」としてのただ一度の時、イエス様の十字架を表す言葉として、大文字のホーが使われているのです。歴史の大きな区切りの時、神の救いが顕される特別な時です。しかしイエス様はこの時、弟たちとの対話の時、まだ御自分が神の栄光を表す十字架の時ではないと言われているのです。
そして弟たちに向かっては、「あなたがたの時はいつも備えられている」―非常に難解な言葉です。これはイエス様の弟たちに「備えられている時」であり、またここにいる「わたしたちの時」と理解しても良いと思われます。「あなたがたの時」とは、私たちが神に出会う時、神に従う決断をする特別な時ということを意味するのです。
7節では「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる」と語られます。
世という言葉―コスモス―とは、神が造られたこの世界ではありますが、ヨハネ福音書に於いては特に、神から離反している世界、罪の世を指して使っています。さらに、「世の支配者」は、サタンであるとまで言われます。
そうなのでしょう。はじめの人間、アダムとエバは神の命令ではなく、サタンを象徴する蛇の誘惑に乗ってしまったがために、罪によって神と共に暮らすことは出来なくなり、神共にいる楽園を追放され、エデンの東の地に置かれました。エデンの東の地とは、「ここ」であり、サタンの誘惑に乗ってしまった人間とその子孫が生きる世です。神から引き離され、罪の支配の中にある世です。そして、その罪の支配の中にある世から憎まれることのないと言われる弟たちは、この時まだ神から離反している世=コスモスにどっぷりつかっている罪人であったということでありましょう。
そのような弟たちに、「あなたがたの時」はいつも備えられていると言うのです。弟たちは、仮庵祭にエルサレムに上るというユダヤ人の律法に忠実な人たちです。しかし、まことに救いには至っていない、しかしまことに神に立ち返るならば、カイロス=神と人とが出会う特別な時は、いつでも備えられている、イエス様の弟たちが、神に従うという決断の時はいつでも備えられており、心から悔い改めて神に向き直れば、神は喜んでいつでも受け入れて下さるという、神の側のご意志を語られているのでありましょう。
しかし、世はわたし=イエス様を憎んでいる。
その理由は、世に属しておられない、罪の無い神のひとり子であられるお方が、「世の行っている業は悪いと証しをしている」ために、世はイエス様を憎んでいると言うのです。
世の行っている悪い業とは何でしょうか。
人は、自分を中心として物事を見て生きています。さらに自分のこの世での利益を、豊かさを求めて生きています。豊かさは神が私たちの与えようと望んでおられることですが、しかし、それを、それだけを求めすぎるならば、神に背く罪に結びついていきます。罪とは、神に目を向けず、世のことに心を奪われ、自己中心的に生きることです。
また、人への嘲りや、憎しみもこの世のものです。人間はあくまで自分中心で、自分の利益に適わないものを憎みますし、人を嘲り、貶めて、自分をあたかも高い者のように振舞うということがあります。苛めや中傷など、世に於いて絶えることがありません。
今の世界の情勢を見ていましても、「戦争」が起こるかのように報道をされたりしますが、その原因たるや、権力を握った一部の人たちの自尊心の戦いなのではないかとすら思えてしまう。こんなことで、多くの人の命が脅かされる世の現実に半ば呆れ、しかしこの世にある人間という存在の恐ろしさに恐れます。
しかし聖書が語ることは、この世は、神をイエス様を憎む罪の世であるということであり、私たちもその中に生まれているということ。罪の世の価値観で生きることが当たり前でそれに慣れていて、自分の罪がなかなか見えません。世に於いては良いこと当たり前と思えることが、神の目には罪である、ということがあまりにも多いのです。
イエス様は世とは全く反対であられました。世は世と反対のものを憎みます。
弟たちが4節で「公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない」と言っておりますが、イエス様の公にされたいことは、ご自分の栄光などではありませんでした。イエス様の公にされたいことは、父なる神の栄光です。そしてイエス様がガリラヤを巡ってなさっておられたことは、病人を癒し、貧しい人たちにパンを与えられ、神の国を教えられるということでありました。世に於いては馬小屋でお生まれになり、世の権力によって命の危険にさらされて、幼少の頃は家族でエジプトに逃げておられ、故郷のガリラヤのナザレに戻られ、大工の子として育たれました。世の高みではなく、虐げられたところ、悲しみの場所に、主は身を置いて生きられました。
世の価値観とイエス様の価値観というのは間逆であり、イエス様と世は相容れることが無い。そして、世にあって世のものに心を奪われ、もし私たちが生きているならば、それは世の価値の中にどっぷり生きていることであり、それは世と共に、イエス様を憎む立場に立っているということになります。
憎しみは、死をもたらします。お読みした初め7:1で、「ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった」と語られていますが、イエス様を十字架に架けたのは、神を信じていると言いつつも、世にあって世の権力や地位、富や名誉心を奪われ、嘲りや悪意という、イエス様の価値観とは間逆の、罪の世に生きることが当たり前の、罪というものを知らない、自分本位な人間の姿でありました。
世にあるものはひたすら自分の利益を求めます。自分中心です。神に背を向け、神を見ない。それは人間の罪の姿です。人間の罪は、イエス様を憎み、イエス様から離れ、イエス様を死へ、十字架へと追いやってゆくのです。そのような世の誘惑は、私たち信仰者であっても、いつでもどこでも起こり得て、私たちは絶えず自分の内奥を見つめ、神を見上げていなければ、すぐにその誘惑へと、イエス様を憎む者へと変えられてしまう可能性があります。
しかし、イエス様はそのような人間の憎しみ、罪によって架けられた十字架の上で言われました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と。そう言って、十字架の上の苦しみの極みの中で、罪の世で罪を知らずに生き続ける人間を赦されました。
そして、その時十字架の時こそが、今日の御言葉では「わたしの時はまだ来ていない」と語っておられた、イエス様の時=「わたしの時」が到来した時でありました。
主は死んで死の闇に葬られましたが、三日後、死を打ち破り、復活されました。そして、イエス様が「わたしの時」と言われた十字架は、罪によって神から離反してしまった人間を、世に属する者たちを、世にあって神の御許に神ご自身が戻す、歴史の中の、ただひとつの時の裂け目となりました。
イエス様に赦されなければならない自分の罪を認め、主の十字架の御前で悔い改めた者だけが、その裂け目を通して、世にありながら、世にない、神と共にある命に生かされる、歴史の中にまことの救いが顕される、一点の時となったのです。
この一点の「イエス様の時」に、私たちはいつでも、入ってゆくことが出来ます。「あなたがたの時」はいつでも定められているのです。ただ、己の罪を知り、神に立ち返る決断をするならば、私たちはいつでも、イエス様の十字架を通して、神の支配の中に入ることが出来ます。信仰を持っても、その罪によって神のもとから離れてしまったとしても、主の十字架に立ち帰り、そこで悔い改め、十字架の御許に身を寄せたならば、私たちはすぐに神の御許に立ち帰り、罪を赦されます。
私たちの生きる「今」は、既に「イエス様の時」が、十字架が与えられている時であるからです。
今日の御言葉では、イエス様と弟たちの対立がありました。世に属さないイエス様と、世に属する弟たち。
しかし、「わたしの時」とイエス様が言われた十字架に於いて、世にあった弟たちも「あなたがたの時」と言われた時を遂に得ました。
弟たち、ヤコブ、そしてユダは、後の初代教会の中心人物となっていきます。世に属し、兄を嘲り、世の利益を求めていた兄弟たちでしたが、主の十字架と復活の出来事は、彼らの生きる目当ても、価値観もすべてを変えられ、神と共にまことに生きる神の僕とされたのです。
神と共に生きる、この生きざまは世にあって世にない生き様です。世の名誉や富を求める生き様とは相反する生き様です。しかし、神は恵み深いお方であられますから、すべて必要な糧は、神から与えられることでしょう。すべての良いものは、神から与えられるようになり、そして、私たちの言葉の主語は、すべて「神」となります。それまで「私は」が主語であったことが、「神は」が主語になります。私が自分の力でこのような良い物を得た、のではなく、神が私に恵みによって良いものをくださった、そのような神中心の生き方に変えられてゆくのです。
「わたしの時はまだ来ていない」、この時、イエス様は言われました。しかし、私たちの生きている「今」は既に、主の十字架が立てられている世です。主の時、栄光の十字架は既に世に立てられています。十字架にこそ救いがあります。ここから、神と共にある命に人間は世にあって結ばれてゆくのです。
大胆に、十字架を通し、神の恵みへと踏み入ってゆく者とならせていただきましょう。「あなたがたの時はいつも備えられている」のですから。