ダニエル書7:13~14
ルカによる福音書21:20~38
人は深い覚悟を持った時、身を起こして頭を上げ、天を見上げるものなのではないでしょうか。
20代、私が信仰を持ち始めた頃、何の美術展だったのか忘れてしまったのですが観に行き、非常に感銘を受けて絵葉書を何枚も買ってきた絵がありました。昨日どこかに残っているかと思って探したのですが、残念ながら見当たらず、記憶に残っていることでお話しするのですが、その絵は、干ばつでしょうか?何らか人的に荒らされたのでしょうか、夕暮れが近づくどこまでも続く荒れた農地で、たくましい腕の若い女性がひとり、片手に鎌を握り締めて、孤独な覚悟の顔で、天を仰いでいる、というか、神を睨みつけているようにも見える、気迫のある絵でした。
当時の私には、その絵は、すべてを失った中、荒寥とした大地で、それでも生きるために立ち上がろうと、神に戦いを挑むような顔で空を睨み付ける、どん底からの覚悟と言うか、人間の悲しみと共に、神に向かって叫んでいるように見えて、その迫力に非常に深く感銘を受けたことを覚えています。
信仰を持ち始めた20代の私にその絵が語り掛けたことは、世を生きるということは苦しいことがあるけれど、しかし、それでも神はおられ、私たちは神を見上げ、神に祈り、神と対話しつつ生きることが出来るということ。苦しみの時にこそ神が見える。すべてが失われたと思えるその時にこそ、身を起こし、神に向かって頭を上げたならば、神は私たちの前におられることをはっきりと分からせていただける。力を与えてくださり、私たちのありのままの苦悩も悲しみも叫びも受け留めてくださる。天を見上げ、体を起こし、頭を上げて、人は神と対話しつつ、神に祈りつつ、世と闘い、生きる、そのような信仰の姿としてその絵を捉えたことを思い出します。
今日の御言葉は、先週お読みした十字架を見据えてエルサレムに入場されたイエス様が、エルサレム神殿の崩壊を告げられるのと重ね合わせつつ、世の終わり、終末について語っておられる「小黙示録」と言われる御言葉の続きです。
イエス様は、ルカ21:31で、「これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」と言われました。「神の国」とは、世の苦難を超えた後に、遂に起こる終わりの日、「終末」の先に用意されている、世の命の先にある究極の希望であるということが前提されて、主は語っておられます。
そして少し前、21:28では「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい」と語られます。
「これらのこと」「このようなこと」とは、先週の御言葉、21:8以下に語られてありました、「わたし=イエスの名を名乗る者が大勢現れ、『時が近づいた』とか言う」また「戦争や暴動の噂を聞く」また「民は民に、国は国に敵対して現れる」さらに「大きな地震、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる」、そのようなことを指しています。
また、29節から「いちじくの木のたとえ」を話されましたが、私たちは今2月終わりで、まだ落葉樹は枯れ枝のような状態ですが、4月の桜が散る頃から、新芽が吹き出します。それは季節が春から夏へと移り変わってゆくしるしとなります。日本人にとっては桜の終わりから始まる新緑の季節が夏がやってくることがおのずと分かるしるしとなりますが、イエス様の生きたイスラエルでは、夏がやってくるしるしはいちじくの木などが芽吹くことであったようです。いずれにせよ、それらが季節の移り変わりの徴となるように、8節以下の出来事が起こったならば、「神の国が近づいていることを悟りなさい」と主は言われるのです。
「わたし=イエスの名を名乗る者が大勢現れ、『時が近づいた』とか言う」また「戦争や暴動の噂を聞く」「民は民に、国は国に敵対して現れる」「大きな地震」等々、それらはまるで今、現在、私たちの生きる時代に起こっているさまざまなことに思えます。しかし、それらのことは「今」に始まったことではなく、歴史の中で絶えず起こり続けている事柄です。神の御子イエス様が世に来られ、十字架に架けられ、復活され、天に昇られた後の、既に救いの十字架が立てられた時代、救いの道が顕された時代に私たちは生きておりますが、イエス様の十字架からの2000年の間、絶えず、さまざまな戦争や地震や飢饉などが起こっており、また「終わりはいついつ来る」と終末を煽る人々も絶えない時を、この地は過ごしています。
先週は「忍耐は神のご性質だ」ということに触れさせていただきました。神はすべての人が悔い改め、神に立ち返り、救いに入れられることを忍耐して待っておられます。それがこのイエス様の十字架からの2000年という年月なのでありましょう。そして、都の滅亡、苦難、そして人の命が失われることなど、終末を厳しい言葉で主が語られることは、すべて終末を見据えての人々への悔い改めへの勧告として語られている言葉です。ただ、闇雲に人を恐れさせるための言葉ではありません。
イエス様がこの言葉を語られ、また救いの十字架が立てられた後の世にある私たちは、絶えず、罪の悔い改めを神に望まれながら、「終末」「世の終わり」と向き合いながら生きている、そのように言えるのではないでしょうか。そして絶えず「終末」「世の終わり」と向き合い見つめつつ生きる生き方とは、世の苦難の中にあっても、苦難に打ちひしがれて、どうせだめだなどと卑屈にならず、イエス様が語っておられるように、驚くべきこと、苦難の中でこそ、「身を起こして頭を上げて」生きる、目を覚まして祈りつつ生きる、そのような生き様なのです。
お読みした20節よりイエス様は具体的なエルサレム神殿の崩壊・滅亡のことを予告して語られ、更に25節からは、世の滅亡の時に起こる天空、天体で引き起こされる出来事に目を移して語られます。
実際、紀元70年、ユダヤ戦争でローマ軍によって、エルサレム神殿は崩壊することになります。この時代の人々にとって、エルサレム神殿滅亡はまさに世の終わりと思える出来事でありました。
エルサレム、神の都。ダビデ王がエルサレムに神の箱を運び上げ、王宮に住むようになった時、預言者ナタンの口を通してダビデに「あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに据える」と約束された場所です。その後、ダビデの子、ソロモンが神殿を建てますが、バビロン捕囚の時に神殿は一度滅ぼされています。その後、ユダヤ人は第二神殿を建て、イエス様の時代、ヘロデ大王が神殿を大きく立派なものに建て上げました。
イエス様ご自身、この神殿を大切にしておられました。12歳の少年であったイエス様は、過越祭でエルサレムに上られた時、家族から離れ、ひとり学者たちの中に入って、議論をしておられました。心配して探しに来た母マリアに、「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と答えておられます。
しかし、エルサレム神殿は、ユダヤ人たちの形骸化した信仰によって、罪にまみれた、強盗の巣のようになっていました。イエス様は19章で、「わたしの家は祈りの家でなければならない」と商人たちを怒り神殿から追い出されました。
そのようなエルサレム神殿ですが、ユダヤ人にとっては、異邦人が入れない神聖不可侵な場所であり、この町だけは、そして神殿だけは神の選びの民であるユダヤ人のものであり、その民の「選び」はずっと続くと信じられていたのです。選民イスラエルにとって失われるはずもない都、それがエルサレムでありました。
しかしイエス様は、エルサレムが異邦人=ローマによって滅ぼされる日のことを、「書かれていることがことごとく実現する報復の日」であり、「この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが」下り、エルサレムの人々は、「剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」のだということを語られます。世にあるものすべて、都エルサレムすら滅び去る、世のもので、人間の手で造ったもので、滅びないものは何も無いです。
さらに言われるのです。「異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる」と。
今現在、エルサレムは神殿は紀元70年に破壊されたまま、現在はアラブ人=イスラム教徒というユダヤ人から見れば異邦人がその多くを支配しています。現代は24節の「エルサレムは踏み荒らされる」というイエス様の言葉に言い換えてもよい状況なのかもしれません。イエス様の言葉は、現代に至る社会情勢、それらのことも預言しておられるとすら思えます。
しかし今が異邦人の時代であるならば、アラブ人=イスラム教徒はもとより私たち日本人もユダヤ人から見れば異邦人であり、異邦人とは、新約の時代以来、使徒パウロを中心とした伝道者たちにとっての宣教の対象です。神のまことの救いへと招かれている人たちです。異邦人の時代とは、イエス様の十字架から、すべての人が救いに入れられるまでの、今現在も含む、「終末の直前の時」ということでありましょう。しかしその時代は、エルサレムが「踏み荒らされる」時代であると言うのです。
続いてイエス様は、世の終わり、終末に起こる、天空、天体の徴について語られます。それは海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は海という自然の脅威になすすべもなく不安に陥り、この世界に何が起きるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うであろうとまで語られます。想像するだに恐ろしいことをイエス様は語っておられます。天空が揺れ動く、海が荒れ狂う。しかし、そのようなことが起こり始めたなら、「身を起こして頭を上げなさい」とイエス様は仰り、さらにその時は、「あなたがたの解放が近い時」であると語られるのです。その時とは24節で「異邦人の時代が完了するまで」、32節で「すべてのことが起こるまでは」と言われ、起こるべき事柄とそれらが起きる時に区切りがあることを語っておられます。
そして、その後、「人の子」=救い主イエス・キリストが再び世に来られると言うのです。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」と27節で語られているとおりです。その時こそが、聖書の語る「終末」です。
「身を起こして頭を上げなさい」
これは、苦難が与えられる中、信仰者が取るべき態度なのではないでしょうか。イエス様はさらに言われます。「すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と。
イエス様の十字架から2000年経った今に至るまで、世を生きる人間はすべて「終わりの時」を生きています。絶えず、世を襲う苦難があり、人の罪のために引き起こされる悲惨な迫害や理不尽なことも起こる苦難の時です。苦難を通して、神がすべての人を救いに導こうとされる、人間にとっては試練の時であり、神にとっては忍耐の時であります。
この数年殊更に2011年の東日本大震災以来、日本そして世界を取り巻く状況はめまぐるしいほど変化していることを思います。日本は平和憲法を持っているにも拘らず、近隣国からの危機を煽り、今にも戦争が起こりそうなことを政府は言っています。福島第一原発の事故から始まった被爆の問題は収まることなく、被害はどこまでも拡大しているように思える。私は先の戦争の後、民主主義が成長しているように見え、日本は平和で一億総中流と言われる時代に青春を生きて来た者で、この国は平和だ平和だと信じて楽観的に生きてきており、この数年の世の変化に不安に陥り、世の動きに脅え、神はどこに働いておられるのかと下を向く自分がいました。
しかし、漸く最近なのですが、それでも希望を持つようになりました。神が、この世に起こる出来事のすべての上におられるということに、御言葉に、滅びることのない御言葉に信頼することが出来るようになりました。人間的な弱さの故に多くの恐れや葛藤がありましたが、世のさまざまな目に映ることよりも、聖書の救いの約束の上に、自分自身の心を置く意志を持ちました。世と闘うべき時は、闘わなければならない。しかし、闇雲に惑わされ、恐れるよりも、、顔を上げて、神をまず見上げることからはじめることに致しました。
イエス様の十字架から2000年。今の時代も含む世のこの「終末」を目前にした「終わりの時」を生きる者として、「終末」を見据える生き方、それは、世のことに振り回される生き方ではなく、また漫然と、今日も明日も、ずっと世の歩みが続くと思って生きるのでもありません。「終わりの時」という聖書が語る「区切り」があることを見据えて、「今」を「今日」こそが終わりの日として、この日こそ、神の救いがまことに顕される日として、私たちも為しうる最善をしつつ生きるのです。
神の支配が、「解放の時」が訪れることに希望を持ち、その時、たとえ苦難に見舞われることがあったとしても、すべてを超えて、またその状況の中に生きて働かれる神がおられること、決して滅びることのない御言葉が、私たちには与えられていることを、さらに「解放の時」が備えられていることをしっかりと握り締めて、俯かず、崩れず、身を起こし、頭を上げて、神を見上げつつ、神に希望を置き、今日出来る最善のことを為し、御言葉にどこまでも寄り頼み生きるのです。
それは言葉で言えるほど、簡単なことではなく、多くの苦しみも葛藤もあることでありましょう。私が見た絵の女性は、決して綺麗ごとの顔をしてはおりませんでした。苦しみの中で、与えられた苦難に、神と一対一で真正面から向き合う、泥まみれの孤独な気迫に満ちた姿でした。
「終わりの時」の世の闘いとは、生半可なものではないことがある。地震災害、多くの自然災害の中で今も苦しむ方々がおられます。しかし神は身を起こし、顔を上げて生きる人間と共にいて、必ず救いを与えてくださいます。
最後に、私たちにはまだ見ぬ約束があることを覚えたいと思います。地上のエルサレムは荒らされ、神の怒りのもとにありますが、聖書はその最後、「ヨハネの黙示録」で新しいエルサレム、永遠の神の都が顕されることを告げていることです。
預言者ナタンの口を通してダビデに「あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに据える」と約束されたエルサレム。この都はただ奪われるままになっているわけではありません。神の確かな約束の中に置かれています
信仰を守りぬく者たちに約束されている永遠の御国エルサレムがいつの日か顕れる。罪が無く、神と人とが共に住む都。私たちには、そこに入れられる時がやがてやって参ります。
これを告げられているのは、神の言葉。滅びることの無い神の言葉によります。どのようなことが起ころうと、希望を持ち、信仰をかたく持ち、世の闘いを神が共にある信頼と深い覚悟をもって、身を起こし手頭を上げて、闘い抜きたいと願うものです。