レビ記16:11~16
ルカによる福音書22:1~23
イスラエルに行きました時、「最後の晩餐の部屋」と言われる場所に行きました。エルサレム旧市街の外、シオンの丘と言われるところにある建物の二階がその部屋でした。その建物自体はイエス様の時代の現存する物ではなく、この場所だったのではないか、と思われる場所に立つ、12世紀の建物でした。
その建物の近くに、オリーブ山へ向かっている石畳の階段がありました。その石畳の階段は、2000年前のものなのだそうです。古代社会で、戦争の多い地域では、戦争で破壊された建物の上に、新しい建物を新しく建てて積み上げて行くということが繰り返されており、エルサレムにはイエス様の時代のそのままの土地は、殆ど残されていないということなのですが、その石畳は、イエス様の時代のものだということで、その石畳と、その先に見えるオリーブの木の茂るオリーブ山を見ながら、イエス様は、最後の晩餐の時とその後のイエス様の足跡に思いを巡らせました。
先週、先々週と二週続けて、イエス様がエルサレムの崩壊と、世の終わりを告げておられる、非常に厳しい御言葉を取り継がせていただきました。講解説教として順を追って読み進める中、それらの厳しい終末に対する言葉が、イエス様の最後の説教であったということを改めて認識し、聖書が語るメッセージとしての「世の終わり」「終末」と言う事柄の重要性を改めて思うものです。しかし、終末とはイエス・キリストを信じる者にとっては「恐れる」ことではなく、その時をこそ私たちキリストにある者たちは、「身を起こして頭を上げて」、神を見上げつつ生きる時であることを、また、私たちの世の死を超えた、究極の希望であることを心に深く留めたいと願います。
そして今日お読みした22章始めは、その時、暗に行われていたイエス様を殺すための策略が語られています。エルサレムは過越祭が始まろうとしている時でした。ルカは「過越の小羊を屠るべき除酵祭の日」と敢えて「除酵祭」という言葉を使って書いています。この呼び名を、共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカも同様に使っています。
除酵祭とはモーセの出エジプトに由来する過越祭の一部です。民を率いてエジプトを脱出することをモーセに命じた主なる神は、家族ごとに小羊を屠り、その血を取って、家の入り口の二本の柱と鴨居に塗り、その夜、急いで肉を焼いて食べ、また酵母を入れない、膨らんでいないぺちゃんこのパンに苦菜を添えて食べるということを命じられました。主の命令はひどく急いだものであり、パン種を発酵させる時間が無かったのです。イスラエルの民は、神の救いの恵みを覚えて、過越祭の翌日より、7日間、酵母を入れないパンを食べることが律法で命じられていました。
当時のパン種とは、古いパンの一部を残しておき、それを新しい小麦粉に混ぜて粉全体を発酵させて膨らませ、焼いていたのだそうです。また、「古いパン種」とは、聖書に於いて良くない意味を持ちます。ほんの少しなのに全体を膨らませて影響を及ぼして全体を悪くするもの、という悪い意味で用いられています。
パウロはコリントの信徒への手紙5章で、「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現にあなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」と語っています。
このパウロの言葉は、旧約聖書の律法に於ける契約―人間には守りきることが出来ず、形骸化し、人々が罪を知るためのものとなっていたもの―を古いパン種と呼び、この後、イエス・キリストの十字架と復活から始まる、新しい契約、人間の罪のような古い種が混じらない、人間の行いではなく、己の罪の自覚と、罪の悔い改め、それを赦してくださるイエス・キリストへの信仰によってのみ救われる、という、イエス・キリストによってもたらされた新しい契約を「純粋で真実のパン」と呼んでいます。
今日の説教題は「最後の晩餐」とさせていただきましたが、この食事は除酵祭の食事ですので、ここで主が分けて、使徒たちと共に食されたパンというのは、酵母を入れない、ぺちゃんこのパン、悪意と邪悪のパン種を用いない、パン種の入っていないパンであったということが分かります。
そして、ここで福音書が過越祭ではなく、敢えて除酵祭と語っているのは、古い悪意と邪悪のパン種を取り除き、イエス・キリストの犠牲によって、後の教会―私たちの教会も含まれる―に表される、純粋で真実な救いを強調して、イエス様ご自身、そして福音書を記した著者たちは、非常に教会論的に、言葉を選んで用いて語っていると思われます。
その祭の前、祭司長や律法学者のもとに、イエス様の弟子のひとりであったユダが、イエス様を殺すために引き渡す相談を持ちかけに行きました。このことを福音書は、「ユダに、サタンが入った」と語っています。主の十字架に纏わることには、サタンの働きがあった、そのことが語られているのです。
ユダは12弟子の中でも、特にお金の管理をしていた人でした。そのユダが、お金と引き換えに、イエス様の居場所を教えるという取引を祭司長、神殿守衛長としたのです。ユダもイエス様に選ばれ弟子になった人でした。
ユダのことについては、聖書の最大の謎とも言われており、ユダの行動について一筋縄に語ることは難しいのですが、ここでユダについて語られていることの意味の一つには、取り除かれなければ全体を悪くする「古いパン種」、「罪の種」という意味が込められているのではないか、今日の御言葉の備えをしながら、私にはそのように思えました。サタンが入ったと語られるユダではありますが、もともとユダにはサタンにつけ込まれ易い性質、金銭などへの特別な欲望が、また誘惑に唆される弱さが―イエス様はサタンの誘惑を退けられました―あったのではないか、そのようにも思えました。またユダという人その人そのものではなく、そのような、金銭、世のものへの欲求がというものは取り除かれなければ、信仰、また後の教会は成り立ってはゆかないものであったのではないか、と思え、敢えてここでルカが過越祭と言わずに「除酵祭」と語っているのには、使徒にあっては、後の教会の信仰のためには、世への欲望というものは取り除かなければならない、その意味も込められているのではないか、と思えるのです。
そのような悪しき動きのある中、過越の小羊を屠る日、除酵祭の第一日の日がやって来ました。この日は、イエス様が十字架に架けられる前の晩。この後、まる一日を経ないうちに、イエス様は十字架に架かり、死なれることになります。
一方ではユダがイエス様を裏切る取引をしている中、イエス様はペトロとヨハネのふたりを遣わし、過越の食事の準備をさせました。
「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついていき、家の主人にこう言いなさい。『先生が「弟子たちと一緒に過越しの食事をする部屋はどこか」とあなたに行っています』すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、それに準備をしておきなさい」そのとおりであったと。
イエス様がエルサレムに入場される時、二人の弟子を使いに出し「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのがみつかる。それをほどいて、引いてきなさい」と言われたことと重なります。この時、持ち主たちが、「なぜ、子ロバをほどくのか」と言った時、「主がお入り用なのです」と弟子たちが答え、持ち主の言葉は記されてありませんが、子ロバはイエス様の入城に用いられます。そこには持ち主が自分の持ち物に執着をせず、主のために大切なものを差し出す信仰が見えます。今日の個所も同様です。
主は御自身の働きのために、人が主に大切なものを「惜しまず献げる」ことを、主は求めておられます。主のお働きには、私たちひとりひとりの信仰と、小さな持てる力が必要なのです。そして主は、主を求め、愛する人を知っておられます。そして、声を掛け、ご自身の御業のために用いられるのです。
ユダが、お金でイエス様を引き渡そうとしたこととは全く対照的な、世のものを奪うのではなく、主に与える信仰者の姿をここに見ます。
このように、人が主に大切なものを「惜しまず献げる」ということ、これは現在の私たちの教会形成にも繋がってゆく信仰の姿でありましょう。
人の悪意と人の信仰、さまざまな人間模様が見え隠れする中、時刻となり、イエス様は過越の食事の席に着かれました。使徒たち=12弟子たちも一緒でした。
ここでルカは「弟子」という言葉を使わず、「使徒」という言葉を初めて使っていることは注目に値します。と申しますのも、使徒というのは後の時代の教会の代表者を表す言葉であり、「使徒」という呼び名は、教会が継承してゆくべき、また教会が継承している「信仰」を表す言葉、呼び名であるからです。「使徒的継承」という言葉が教会に対し使われることがありますが、これは使徒の信仰を世々の教会は継承してゆくという意味があります。そして、ここでイエス様が語られることは、今日の礼拝で行われ、また私たちが月に一度ですが、与っている聖餐式の制定の言葉です。
主は言われました。
「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない」と。
過越の食事とは、先に申し上げましたとおり、出エジプトに由来する食事です。その意味は、「神の救いを味わい知る」ということです。この食卓は、家族のための食卓でした。その食卓に主は、ご自身の十字架の前に使徒たちと共になさりたいと切に願っておられたと言うのです。新しい神の家族としての後の教会、この主の晩餐は、新しい過越の食事であり、キリストを中心とした教会の食卓の雛型なのです。
しかし、主ご自身は、「神の国で過越が成し遂げられるまで、決してこの食事をとることはない」と言われました。主は十字架の死を覚悟し、見据えておられ、ご自身はその食事を「神の国の過越が成し遂げられるまで」=救いが完成するまでとることは無い、と言われながら、使徒たちには「わたしの記念として」、それを行うことを命じ、語られるのです。
「神の国で過越が成し遂げられるまで、決してこの食事をとることはない」、言い換えれば、「神の国で過越が成し遂げられ」たならば、主はこの食事を取られるということです。「神の国での過越が成し遂げられる」ということは、すなわち「救いが完成される時」であり、終わりの時、すべてが新しくされた時、ヨハネの黙示録21章に表される、新しいエルサレム―「神が人と共に住み、人は神の民となる」都に於いて、まことの神の家族として、主は新しいエルサレムに於いて、私たちと共に食卓の席に着かれる、そのような言葉でありましょう。
その時が来るまで、使徒を通して与えられたイエス・キリストの教えに基づくキリストの教会は、「主イエス・キリストの記念として」、パンを裂き、ぶどう酒を飲むことを、神と人との新しい契約のしるし、人間の悪意や邪悪の古いパン種の入っていない純粋で真実の、過越の食事として、また罪を贖われ、救われた証しとして、ただ、信仰によってそれを受け取りつつ歩むのです。
主は言われました。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」と。
イエス様は、もうすぐ十字架に架けられ、血を流し、死なれます。その体と血とは、弟子たちに、私たちに与えられたものであると言われるのです。
旧約の時代に於いては、本日の旧約朗読でお読みいたしましたように、人間は自分の罪を赦されるために、動物を屠り、その血を流すこと、それが人間の罪が贖われる唯一の方法でした。しかし、今はそれはありません。主イエス・キリスト、神の御子がその血を、すべての人の罪の贖いとして流され、与えられたからです。神の御子の血です。動物には一匹につきひとりにひとつの罪しか贖いとることは出来なかった。しかし、神の御子の血は、動物の血よりも遥かに遥かに、すべての人のすべての罪を救う力があるのです。
イエス・キリストの成し遂げられた―この御言葉の時点では、これから成し遂げられようとしている救いの業―十字架の上で、主が私のために、私たちのために命を捨てられたことによって、その裂かれた体と流された血によって、私が私たちが罪赦され新しい命を、終わりの時、終末の先取りとしていただき、新しく生かされていることを絶えず身体に刻みつけつつ生きるために、世の教会に召し集められ、主の救いに与った者たちは、パンを裂き、ぶどう酒を共にいただきつつ、不完全な世にあって、イエス・キリストの救いを覚えつつ、身体に刻み付けつつ、救いの完成の日、終末を目指して歩むのです。
今日はこれからYさんの洗礼式を執り行います。
その後、初めてYさんは聖餐に与られます。洗礼は、主イエス・キリストを信じ、口で信仰を告白いたします。そして、父、子、聖霊の名によって、水で洗われ、罪に死に、終末の先取りとしての、新しいキリストと共にある命へと生かされる。これはイエス・キリストが教会に命じられた救いの業です。
洗礼と聖餐。このふたつは、教会のいのちの源であり、主イエスが救いの完成の日に至るまで、信仰者たちにそれを受けることを命じられた命の賜物です。
私たちは、イエス・キリストの十字架の上で裂かれた体、流された血によって罪赦され、新しく生かされている、このことへの全き信仰、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を取り除いた、キリストの体としての混じりけのない純粋な真実な信仰をもって、日々主の御身体と流された血としての聖餐を受けることによってキリストの救いを覚え、味わいつつ、救いの完成の日を目指して歩み続ける。このことを、今日は特に、心と身体に刻み付けたいと願います。