エゼキエル書47:13~14
ルカによる福音書22:24~30
使徒=12人の弟子たちは、イエス様と過越の食事の席に着いておりました。
この食卓は、イエス様にとっての世での最後の食卓、食事であり、主はこの席で、聖餐を制定されました。使徒たちは、旧約の律法による契約ではなく、新しい契約―信仰によって神の御子イエス・キリストの死と共に罪に葬られ、キリストの復活と共に新しく生き、永遠の命を約束されるという、神の秘められた計画―を授かる最初の者とされました。
そして「わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおりに去って行く。だが、人の子を裏切る者は不幸だ」と、12人の中にイエス様を裏切る者がいること、ご自身が弟子たちのもとから去って行くこと―十字架の死―を予告されたのです。
レオナルド・ダヴィンチの有名な「最後の晩餐」の絵画は、このイエス様の言葉を聞いた直後の様子でありましょう。12人、ひとりひとり「まさか、それは私ではないでしょうね」「裏切る者は誰だ?」というような驚きと戸惑いの表情が印象的です。イエス様を裏切る者がこの中にいる、そして、その者は不幸だとまで言われたのですから。
そのような張りつめた緊張感の中、弟子たちの話題は「自分たちのうちでだれが一番偉いだろうか」という話題へといつの間にか移っているのが、今日お読みした御言葉です。
実は、「誰が一番偉いのか」という議論は、この一度限りではありません。ルカは、9章46節から、弟子たちに同様の議論があったことを語っています。その時、イエス様は、一人の子どもの手を取り、御自分のそばに立たせて「あなたがたの中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」と言われました。弟子たちは、この言葉を聴いておりました。それなのに、この緊張感のあるイエス様にとっての最後の過越の食事の席で、まだ同じ事を言い合っている訳です。
人間というのは、何と学習しないものか。イエス様が子どもの手を取って言われた「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」と言われたこと、その言葉自体は覚えているのではないかと思いますが、言葉を覚えてはいても、それをイエス様に言わせた原因は何だったのかということは、忘れていたのではないでしょうか。その時聞いたイエス様の言葉を、心で本当には理解し納得出来ないままだったのでしょう。そして、納得出来ないままで、自らを主の言葉に照らし合わせて戒めることが出来ずに、いつまでも自分が気になり続けている同じことを繰り返し言い続けている、私たちにもそのようなことはありませんでしょうか。
それにしても、そのような「自分の気になること」は、「誰が一番偉いのか」ということだったということ、何とも笑ってしまうような感じですが、でも、私たちにとってこのことは他人事として笑えることでしょうか。人間というのは、いつも絶えず人と自分を比較して、優越感のようなものに浸りたい性質がどうしてもあるように思えます。
先般オリンピックがあり、今パラリンピックが始まっていますが、人と自分との比較が、良い意味での競争心であったり、向上心に基づくものであれば、「負けない」という強い気持ちというのは良いもので、神に祝福されるものであると思います。厳しい練習をやりぬいた人たちには、恐らく同じ思いでやりぬいた人たちを、たとえ「負けた」としても、同胞として心から讃える気持ちというのが生まれてくるものなのではないかと思いますが、そうではなく、何らかの地位にとどまり自分は「偉い」「特別だ」と勘違いをする、そのような人もしばしば散見いたします。
私自身、人と自分をどうしても比べてしまう、そして「偉い」とまでは思いませんが、何か自分の方が良いような気がした時、ほっとする、みたいな心があったことを告白いたします。そして、イエス・キリストを知ってからは、そのような思いが自分の内に沸き起こる思いとしてこびりついていることに実は苦しんできました。私自身、自己評価の低い人間だと思います。そのことのゆえに良い意味での競争心を起こさず、引いてしまうという消極的な面があったりしたのですが、そんな卑屈な部分を持ちながらも、妙な自尊心はあるわけです。人と自分とを比較し、願わくば自分が「偉い」、上下であれば「上」だと思いたいという心がありました。それらは、神の御前で愚かな罪の思いであり、私たちはただ神との関係に於いて、ありのままを愛されている者として、神に受け入れられている者として、自分自身をありのままに受け入れて感謝をもって歩むのだということを頭で分かっていながらも、「誰が偉いか」に類する問いというものが、絶えずどこかから沸き起こって来る、そのような「こびりつく罪」というものがあることを思わざるを得ません。
しかし、イエス様の言葉は優しいのです。最後の晩餐のダヴィンチの絵の弟子たちは、それぞれ個性的な顔をしています。(もちろんこれはダヴィンチの想像で描いた絵ですが)それぞれ人間的に癖のようなものがあったのでしょう。そして自分の事ばかりを考えて、人を押しのけるように「誰が一番偉いのか」などと、主の十字架を前にした緊迫した中で言い合っている弟子たちです。しかし、この場面で主の言葉は優しく、彼らを信頼しておられます。「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた」と。弱いところをたくさん持ち、「誰が一番偉いのか」と何度も議論し合うような弟子たちに、怒り、戒めるのではなく、信頼の言葉を告げ、静かに教えられるのです。
イエス様は言われました。
「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るうものが守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は仕える者のようになりなさい」と。
当時のローマ帝国では、ローマ皇帝は「神」「守護者」として讃えられておりました。どんな残酷な皇帝であろうとも、皇帝崇拝がローマ市民の鉄則だったのです。皇帝はその権力を思うがままに使い、自分自身を「偉い者」として高ぶり、贅沢をし、人を人とも思わないような暴虐を振るうこともありました。
主はそのような異邦人の王を譬えに出しながら、弟子たちに教えられるのです。「あなたがたたはそれではいけない。あなたがたの中で一番偉い人は、一番若い者のようになり、上に立つ人は仕える者のようになりなさい」と。
弟子たちの心には、異邦人の権力者と同じような、「偉い」ということに対する心の志向性がありました。先頭に立って、命令をして、他の人たちを下働きのように使うこと、それが「偉い人」という概念だったのでしょう。そんな生まれたままの罪深いままの弟子たちの性質をイエス様はよく知っておられます。
さらに言われます。
「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いのか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である」と。
イエス様は神の御子であられます。神が人となられたお方。高き天より、低き地に下られ、ひとりの人として生きて歩まれ、その最期は十字架で死なれました。
神であられる主が、そもそも地上に人間として生まれたいと、ご自身の希望で地にお生まれになられたのではありません。神が人になられたのは、ただひとえに罪に苦しむ人間を、罪から、罪の世から救うためでありました。そして、罪の無い神の御子が、あたかも罪人の頭が受ける処刑、ローマ帝国の政治犯への極刑としての十字架刑に、罪がないのに罪がないままに、ユダヤ人の権力者たひの嫉妬によって―イエス様を十字架に向かわせた人たちは、イエス様が自分たちよりも人々を引きつけ、多くの不思議な業を行っていたことに嫉妬をして、嫉妬が高じてイエス様を十字架に向かわせました。ユダヤ人たちの「誰が一番偉いか」という思いが、イエス様を十字架に追いやったと言えるのです―そして主は十字架に架かり死なれました。
イエス様のお生まれになる前の時代、旧約の時代のイスラエルでは、人の罪が神に赦されるためには、動物の血が必要でした。動物を屠り、血を流すことが、人の罪が赦されるための贖いの儀式でありました。神の御子、イエス・キリストは高き天より低き地に下られ、人として生き、その最期は、人の罪の贖いための動物という低さまで下られた。十字架の上で、釘を打たれ、血を流し、死なれました。神ご自身が、人間の命を贖うために、命を捨て血を流されたのです。
イエス様は神の御子であられますから、一般的な概念からしますと「偉い人」という言葉が相応しいのかもしれません。しかし、神の御子は、人の罪の贖いのために、自らを献げられたのです。そのようにして、私に、私たちひとりひとりに、イエス様は仕えてくださいました。いえ、今も仕えてくださっておられます。
そして余談になるかもしれませんが、最近、聖餐について思うことがあります。それは、主が「わたしの記念としてこのように行いなさい」と命じられ、世々の教会は与り続けているパンとぶどう汁ですが、パン=キリストの体を「食べる」こと、ぶどう汁=キリストの血を「飲む」ということは、イエス・キリストの裂かれた体と流された血を、私たちの体に入れること、をあらわし、聖餐を通して、キリストの十字架と、私たちは一体になる、ということを強く思うのです。このこと、改めてすごいことだと思うのです。
今、私たちが与るのは、世にあるパンとぶどう汁です。キリストの体と血では実際勿論ありません。しかし、主が「記念としてこのように行いなさい」と言われ、制定された新しい契約としての聖餐式です。その式に於いて、牧師はパンとぶどう汁を聖別する祈りを唱えます。キリストの霊なる聖霊なる神は聖餐式と共におられます。そして、パンとぶどう汁を通して、キリストご自身が、私たち、イエス・キリストを信じて赦された者たちに、ご自身を与えてくださる。十字架で苦しみ裂かれた体と血を与えてくださる。そして、この罪の身を、キリストの体と血とで潔め、復活の主と共にある復活の命へと向かわせてくださる。
そのようにして、キリストは、私たちひとりひとりのために、裂かれ、血を流され、私たちをキリストと一つにしてくださり、キリストと共にある命を与えてくださる。それほどまで、主は、ひたすらご自身を私たちに与えてくださっているのです。そこまで、私たちのために仕えてくださっているキリストを、深く心に思い、この体にキリストを覚えられるために備えられた聖餐、主の晩餐を感謝します。自らを切り裂き、給仕される、そこまで私たち人間のために、イエス・キリストは仕えてくださっておられる聖餐の恵みを畏れを以て感謝します。
神の御子が、「偉い」と一般的な概念で思われるお方が、主が、私たちのために命を捨て、捨てられた命を私たちに与えてくださる、それほどまでに仕えて下さった。だから、私たち、キリストに罪を贖われ、救われた者たちは、その主の体と血を受けた者たちとして、仕えられたキリストに倣い、「一番若い者」のようになり、「仕える者」となり、教会は、重んじ合い、仕え合う群として、ひとつのキリストの体として成長してゆくのです。そして、世にあっても、仕える者として、「地の塩」として、役割を果たしてゆくものでありたいと願う者です。
「上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」、このことを、「誰が一番偉いのか」という議論に躍起になっていた弟子たちはこの時どのように聞いたのでしょうか。
何とも滑稽なまでの弟子たちの様子ですが、それでも主は言われるのです。「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしに支配権をくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席について飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエル12部族を治めるようになる」と。
3年間、イエス様のお側に居ながらも、イエス様の言葉を本当には理解出来ず、いつまでも自己中心的な思いの中で生きていた弟子たちです。しかし、イエス様はそんな弟子たちであっても、「わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた」と言ってくださるのです。
私自身、イエス様を信じている、さらに牧師だ、と言いながらも、自分の中にこびりついている罪に「信仰者としてこれは如何に?」と落ち込んだり、悩んだりすることがあります。しかし、イエス様を愛しておりますし、信じており、愛する主が冒涜されている!などと感じる時には「それは違う!」と言いたくなりますし、何があっても、イエス・キリストから離れようと思ったことはありません。主のもとに踏みとどまろう、そのことだけは確として持っています。そしてイエス様は、私たちが、どのような分からず屋であろうと、罪ある者であろうと、不器用にもイエス様のもとに踏みとどまり続ける限り、主と共に、世と闘い続ける中で、私たちにご自身を与えてくださり、御言葉と聖霊とをもって私たちを絶えず教え諭してくださり、愛し、支え、導いていてくださることを信じる者です。
そして、12弟子に於いては―頼りないと思える人たちですが―イエス様は、イエス様に父なる神から与えられている支配権を委ねると仰いました。
この主の言葉は、主の十字架と復活、昇天の後の教会―私たちの時代にまで続く―に与えられた言葉です。12弟子は、22章の始めから「使徒」と呼ばれ記されています。この後、ユダを除く使徒たちは、イエス・キリストの十字架と復活の証人となり、使徒を中心として、教会は形成されていくことになります。
私たちの教会は、使徒たちを通して証しされたキリストの十字架と復活の出来事を、私たちの信仰の中心として継承している教会です。
ヨハネの黙示録では、天上の世界が描かれており、中心には父なる神と、小羊のようなキリスト、その周りに4つの生き物、そしてその周りに12人の長老たちが囲んでいると記されています。12人の長老たちというのは、イスラエル12部族のこと、そして12使徒を表しているのでありましょう。
そのような天上の支配があり、今、私たちの地上の教会は、「わたしの国」とイエス様が言われている天の国に繋がっているのです。
天の国に繋がる、キリストの体としての教会に連なる私たちです。キリストの裂かれた体と血としてのパンとぶどう汁に与り、食べ、飲み、キリストとひとつになりつつ、世の歩みを為しています。それぞれ、弱さも持っていることでしょう。こんな自分はイエス様に叱られると思う時があるかもしれない。しかし、主は私たちのそんな弱さゆえの思いをすっかり超えて、「絶えずわたしに踏みとどまってくれた」と言ってくださり、私たちにご自身を与え続けてくださっています。
不器用な歩みかもしれませんが、それでも、キリストに倣うことを求め、仕える者として、また一番若い者のように、世の歩みを主と共に歩んで行きたいと願う者です。