「あなたがたに平和があるように」(2018年4月1日礼拝説教)

主のご復活、おめでとうございます。
 イースターは、教会の一番の喜びの日です。教会にはクリスマス、イースター、ペンテコステ、三つの大きな祝いの日がありますが、その中でもイースターは、一番古くから祝われてきました。何故なら、イースターがあったからこそ、イエス・キリスト教会は生まれたからです。主イエス・キリストは十字架の上で死なれました。しかし死を打ち破り復活されました。これを、教会は「福音」=良きおとずれ、と呼びます。この福音によって、弟子たちはまことの神とはどなたか、イエス様とはどのようなお方であったのか、神様の愛はどれほど大きなものか、救いとは何なのかをはっきりと知るようになり、神の力を受け、救いを人々に告げ知らせるようになり、キリスト教会は立ち上がって行ったからです。そして2000年経った今、世界中に数え切れないほどの教会が立てられています。イエス様の十字架と復活が無ければ、教会はありませんでした。そして、イエス様の復活の出来事が起こったのは、日曜日の朝に起こったのです。

 今日イースターの日の朝早く、ユダヤ人の安息日の明けた朝、十字架から降ろされ、葬られたイエス様の墓に、マグダラのマリアは急いで行きました。当時の墓というのは、岩をくり抜いたごつごつした岩穴です。岩穴は大きな石で塞がれておりました。女の人の力では取りのけることの出来ないような大きな石です。しかしマリアがそこに着くと、石が脇に取りのけてあり、マリアは墓の中を見ることが出来ました。しかしそこには、葬られた筈の、イエス様の体は無かったのです。
 マリアは驚き恐れ、走ってペトロともう一人の弟子のところに行き、主の遺体が無くなっていることを告げました。ペトロともうひとりの弟子は、大急ぎで墓に走り、墓が空になっていることを見て、イエス様が生きておられた時、語っておられたこと「イエス様は必ず死者の中から復活されることになっている」と言っておられた言葉を思い出して、イエス様が復活されたのだということを信じました。イエス様は、死んで3日目に復活されるということを何度も弟子たちに語っておられましたが、その言葉を聞いた時には、イエス様は何を仰っているのか、弟子たちには全く分かりませんでした。しかしペトロともう一人は、空になった墓を見て、ようやくイエス様のかつて言われた言葉を信じ、そして、弟子たちのところに帰って、そのことを伝えたのです。
ペトロたちが帰っても、マリアは空になった墓から離れず、その場に立って泣いていました。すると二人の天使が現れ、振り向くと、復活されたイエス・キリストがそこに立っておられたのです。最初、マリアはそれがイエス様だとは気づきませんでした。しかし、イエス様の「マリア」という、声、いつもの呼びかけに、イエス様だと気づいたのです。
 マリアは喜び、主にお会いしたことと、イエス様の語られた言葉を弟子たちのところに行って伝えました。
 弟子たちはこれらの言葉をどのような思いで聴いたのでしょう?今日お読みした聖書の後半に、トマスという人が出てきますが、この人は人一倍、なかなか信じることが出来ない人でした。弟子たち皆が、イエス様にお会いしたんだと言っても、主は復活されたんだ、と言っても信じられず、「わたしはあの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れて見なければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」とまで言いました。
でも、私たちもトマスの「見なければ信じない」という気持ち、分かりますよね。たくさんの人の前で、十字架に架けられ、太い釘を手足に打ち込まれ、苦しまれ、血を流し、身体はぼろぼろになって死なれたイエス様が復活され、自分たちの目の前に顕れられたという何人の証言を聞いても、「そんなことあるわけないじゃないか」と思ってしまう、疑い深さを私たちは持っています。でも、疑い深いことは、悪いことではないでしょう。何もかも人から聞いたことを鵜呑みにして、耳にしたことを全部本当だと思う疑いの全く無い人は、悪い人に騙されてしまったり、間違った知識を得てしまったり、自分で物事を考えたり判断する力が失われてしまうでしょう。私たちは、「真実なもの」を見極める「知恵」を持たなければなりません。

 それにしても、弟子たちのすべては、イエス様が逮捕された時、イエス様を見捨てて、裏切ってその場から逃げてしまった人たちです。その直前まで、「ご一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しています」と意気込んでいながら、いざとなると、蜘蛛の子を散らすように逃げていき、ペトロなどは「お前はあの男と一緒にいただろう」と三度言われ、三度とも「知らない」と言って逃げた、そのような情けないような弟子たちです。咄嗟の時の行動は、人の本心を露にします。口では「御一緒なら死んでもよいと覚悟しています」と言いながらも、実際その事が起こると、そそくさと一目散に逃げ出してしまう。弟子たちのすべては、そんな言葉と行いが裏腹な自分を嫌というほど知ることになりました。自分自身の罪の性質を、とことん知ったのです。
三年間共に過ごし、教えを受け、不思議な業をたくさん行われ、前の晩には自分たちの足を洗ってくださったイエス様が、棘が頭に食い込む茨の冠を被せられ、鞭打たれ、十字架を担ぎゴルゴタの丘まで行き、太い釘を手首と足首に打たれ、血を流し、死なれた、そのイエス様の姿をはるか遠くから見るだけの自分たちでした。これから世を裁く王となると信じて従っていたお方が、あっけないほどに最期を遂げられてしまった、そして、墓に葬られた。大切な方を失い、悲しみが込み上げるというよりも、茫然自失となっていたのではないでしょうか。そして、自分のなかにどうしてこんな卑怯な心、罪があるのだろうと苦しんでいたに違いありません。そして後悔と自分への情けなさ、逮捕されて殺される恐怖、これから先の不安、先の見えない思いでいっぱいであったに違いありません。

主の復活の日の夕方、弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵を掛けていました。イエス様の弟子であることがユダヤ人たちに知られたら、自分たちも捕らえられ、十字架に掛けられるかもしれない。また当時、お墓から死体を盗み出した人は、厳しく罰せられていましたので、そのことに対する恐れもあったのでありましょう。また、イエス様が十字架の上で血を流し苦しまれた、そのことが心に焼き付いて離れないまま、心は茫然自失のまま、それぞれがその心にも鍵を掛けて、小さく蹲っていたのです。
 その時、恐れとさまざまな後悔で苦しんでいる弟子たちの真ん中に、イエス様が弟子たちの真ん中に立たれました。鍵が掛かっていた家の扉など全く関係なく、突然顕れられたというのです。そして言われました。
「あなたがたに平和があるように」と。
 そして確かに、十字架に架けられ、釘を打たれ、血を流し、死んだのは「私だ」ということを証明するために、釘で打たれた跡のある手と、槍で突かれ血と水とが流れたと言う、わき腹とをお見せになられました。弟子たちは、主を見て喜びました。

 それにしても、突然、顕れられたのです。今、この礼拝堂の真ん中に、突然、すべての人の目に見える形で、玄関からではなく、突然真ん中にイエス様が顕れられたとしたら、私たちはどれほど驚くでしょう。そのようなことが突然起こったのです。幽霊だ!と思わず叫んでしまったりはしないでしょうか。ましてや、イエス様を裏切った弟子たちです。「お前たちは私を裏切ったな」と恐ろしいことを言われることもあるかもしれない、そのように思えるのですが、しかし、弟子たちは、そんな人間の思いなどそのときどこかに行ってしまったように、主を見て「喜んだ」のです。きっとイエス様は、本当に優しい、あたかい顔をしておられたに違いありません。
この弟子たちの「喜び」とは、自分を取り巻く状況が良くなったから「嬉しい」というようなことではありません。自分を取り巻く状況が、たとえ困難に思える時であっても、イエス様が私たちと共におられるならば、イエス様を私たちが心にお迎えしたならば、そこには、周りの状況など関わりなく、心の奥底から湧き上がるような喜びに満たされるのです。
「喜び」とは、信仰の奇跡です。どんなに状況が悪かろうと、心の底から湧き上がる「喜び」がある時、そこにはイエス様が居て下さる、と私は信じています。
そしてイエス様は、「あなたがたに平和があるように」と告げられました。これは、イエス様の赦しの宣言です。私はあなたたちを赦すよ、という宣言です。今日お読みした聖書の御言葉の中、「平和があるように」という言葉が三回も語られています。口語訳の聖書では、ここを「安かれ」と訳しています。
自分の罪へのさいなみと、不安と恐れでいっぱいだった弟子たちに、イエス様は、「平和があるように」「安かれ」と言われ、罪の赦しの宣言をして下さいました。イエス様の命令とは何と嬉しい命令でしょうか。イエス様が一緒におられるということは、平安と喜びなのです。
そして湧き上がる喜びと平和があるところ、それこそ、神のおられるところであり、喜びと平和があるかどうか、そのことこそ私たちが真理を見抜く知恵なのではないでしょうか。
 さらに、イエス様は、鍵を閉め、閉じこもり、不安と恐れの中、また将来に対する希望など見えない弟子たちに言われました。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と。絶望の中にある弟子たちに、裏切った弟子たちに、イエス様は「父がわたしをお遣わしになったように、あなたがたを遣わす」という使命を与えられると言うのです。そう言って、弟子たちに、イエス様は、息を吹きかけられました。

「息」というもの、これは吹きかける人自身の体が生きていなければ、吹きかけられないものでありましょう。イエス様は確かに、体を持って復活しておられたのです。
「復活」というのは、死んだ人がその体のまま生き返るということではありません。「生き返る」ということと、「復活」とは全く別のことです。
 使徒パウロは申しました。「蒔かれるときは朽ちるものであっても、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときは弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです」(一コリント15:42~44)
 イエス様は十字架の上で朽ち果て、死んだ体のそのままの体をもって、生き返られたということではありません。イエス様の体は、墓から無くなっておりました。しかし、それは、パウロの言うところの「蒔かれた」ということなのではないでしょうか。どのように蒔かれたのかは分かりません。花の種が土に蒔かれるように蒔かれる、そういうイメージでしょうか?
朽ちる自然の命の体が種のように蒔かれ、その生きた証しが無ければ、それが蒔かれなければ復活はなかったということなのではないでしょうか。復活されたイエス様の体は、確かに手に釘の跡があり、わき腹に刺された跡のある体でした。しかし、朽ちる体が種のように蒔かれたことで、朽ちない新しい体、霊の体としての傷のある復活の体であられたのです。
 復活の体を持たれたイエス様の息、それは、創世記2:7で、主なる神が人間を創造された時、「鼻に命の息を吹きいれられた。そして人は生きるものとなった」という御言葉を連想させます。人は、神の息によって生きるものとされました。しかし、この時イエス様が吹きかけられたのは、神の息によって生きる者となった人間に、罪によって死に定められてしまった人間に、さらに与える新しい命の息でした。

罪とさまざまな情けない弱さを持つ弟子たち、後悔と恐れにさいなまれていた弟子たちに、イエス・キリストは「平和があるように」と言われ、さらに新しい命の息を、吹き入れられ、そして言われました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せばその罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と。
イエス様を裏切った弟子たちは、自分のことをとことんダメな人間だと、自分の罪に苦しんでいたことでしょう。しかし自分の罪を知った弟子たち、罪を悔いている弟子たちに、イエス様は、「平和」を告げ、罪の赦しの宣言をされました。さらにイエス様のもとにあった「罪を赦す権威」をお与えになったのです。
そして、復活のイエス様から新しい息を、力を受けた弟子たちは、鍵を掛け、埋もれていたところから立ち上がり、新しい生き方へと歩みだすようになったのです。

人はやり直せる。どんなに罪深く、どんなに辛い状況にたとえなることがあったとしてても、イエス様はその苦しみを見過ごされることはありません。その苦しみに寄り添っていて下さいます。そして苦しみの中で、自分の罪に気づいたならば、イエス様は私たちのもとに、大胆に来てくださいます。そして、私たちの罪を赦してくださいます。さらにイエス様を私たちが心の真ん中ににお迎えしたならば、新しい命の息を下さいます。イエス様を心の王座にお迎えするということは、イエス様が私たちの内に共に居てくださり、絶えず新しいいのちの息、聖霊を与えてくださるということです。そして、神が共にある、新しい命をいただき、人は新しく生きることが、赦されるのです。

イエス・キリストの十字架の死、そして復活。
この不思議な、福音の言葉を、私たちは、信じない者ではなく、信じる者になりたいと願います。イエス様がおられるところには、平和が、そして喜びがあります。
そして、イエス様を心の真ん中に迎え入れた人たちに、新しい命の息=聖霊をを与え続け、神の愛と赦しに生きる人間に造り変えてくださいます。このことを覚えるために、私たちは、主の復活を記念する日曜日の朝、教会に集い、礼拝をささげています。
さらに、いつの日か、誰にも分かりませんが、聖書が語る終わりの日に、イエス・キリストが復活されたように、イエス・キリストを信じる私たちも、たとえ死んでいたとしても復活し、新しい命の体をいただける日が来る。これは聖書の約束です。