申命記18:15~18
ヨハネによる福音書7:40~53
聖書について、私は子どもの頃、天から降ってきた神の言葉をそのまま人が書き留めたものなのだと何となく思っていました。イスラム教のコーランは、ムハンマドという人に天から与えられた言葉をそのまま直接ムハンマドが記したと言われていますが、聖書は違います。どのようにこの分厚い書物が一冊に纏められていったのか、諸説ありますが、天から降ってきた言葉を、自動筆記のような形で書き留めたといったような伝承はありませんし、そのような類のものではありません。
聖書は主なる神がご自身をある人、例えばアブラハムに顕された、そのことが口伝えで語り継がれ、ある時期― 一説にはソロモン王の時代―に伝承されてきたことが纏められ始めたと言われています。それは紀元前900年頃のことです。それから書き加えられていき、またたくさんの文書が生まれていき、編纂に編纂が重ねられ、それらを旧約聖書として一冊にまとめたのは、紀元一世紀終わり頃だと言われています。さらに私たちが今持つ新約聖書27巻が聖書だと認められたのは、紀元4世紀のことです。
この分厚い聖書は、1000年以上の歳月を掛けて、無数の人々の手を通し、書かれ、編集され、纏められていった書物です。神は、ご自身を顕されるために、人間を用いられるのです。不完全な罪ある人間の手を用いて編纂されているのですから、時々あれ?と思う、矛盾しているなと思えるところにも、出会うことがあります。それらを人間の手を経た不完全なものと捉えるのかどうかは、人によって判断は違うでしょうが、私は不完全と思われるものも含めて、意味があり、その人間の手を用いたすべてに、また纏め上げるときのすべてに神の霊感が働いて、ひとつの書物として纏められたものだと信じています。
そのように人間の手を使って纏められた聖書は、人がさまざまなことを考えること、感じることを自由にします。
神はおひとり、天地万物を造られた方。人間の罪と罪の歴史、それに介入される神の熱情、愛。人となられた神、イエス・キリストのただ十字架のあがないと復活の出来事。聖霊降臨。これらの信仰の核はどっしりと構えて変更を許されませんが、信仰の核心をしっかりと読み手である私たちが中心に据えたならば、読み手である人間は、読む度に深く心に捕らえられる御言葉は、その時々に違うことを知ることでしょう。また人はひとつの御言葉によって人生を変えられてしまうこともあります。それらの感じ方、いえ、御言葉を通して神がそれぞれに語りかけられることは時々に、それぞれに違う。また、イエス様の言葉に「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる」という御言葉がありますが、求めれば求めるほど、探せば探すほど、御言葉の味わいは驚きと発見、理解の深まりが得られます。御言葉は決して固定化されることはなく、汲めども尽きぬ泉のように、御言葉から人を生かす水が、溢れ出てくるのです。
御言葉は、固定観念で自分の好きなところだけを用いて読むものではなく、生きている御言葉ですから、砕かれた心で、霊とまこと、信仰と信頼をもっていただくべきものです。砕かれた心でいただく御言葉は、各々の人を各々に相応しく生かします。私たちは御言葉に対する信頼と、柔らかい心と、謙遜な思いを持って、また新しい発見をくださる神に、わくわくするような期待と信頼を持ちながら、探究心を絶えず持ちつつ、御言葉を絶えず読むものでありたいと願うものです。そうする時、思いがけないほどの信仰の力が私たちには与えられるに違いありません。
さてニコデモ、という人、今日お読みした箇所に出て参ります。この人は3章に於いてその対話の中でイエス様から「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)という、聖書の中で光り輝く御言葉を、イエス様の口から引き出した人です。その日、ニコデモがイエス様の言葉に最終的にどのように反応し、帰っていったのか記されておりませんが、今日お読みした箇所は、ニコデモが二度目に登場する箇所です。
この人は、ユダヤ人ファリサイ派の議員。神の民としての自負があるユダヤ人社会においてファリサイ派の議員とは、宗教的、政治的に非常に高い地位の人間であり、権威と名誉を持っていた人間でした。律法学者というと、律法に対し、硬直化した理解を持っている人が殆どだったと想像されますが、この人は日々先祖から伝えられてきた信仰を守り続ける中、イエス様のなさる「しるし」を目の当たりにすることになり、「まさか、イエスという人こそが聖書に語られるメシアなのではないか」という期待、というか疑念のような思いの中、夜、人目を避けながらイエス様のもとにやってきたことが3章に記されています。ニコデモは新しいものを見て、受け入れようという真理を求める心のある人であったということでありましょう。ニコデモという人は、少なくともイエス様を見て、「何かがある」と見抜く心を持っていました。彼には固定観念にとどまらない、真理を探究する柔らかい心があったのです。
今日の御言葉にはイエス様は登場されません。イエス様の言動を巡って、人々が騒ぎ立っている、そのような箇所です。私たちはこの箇所から、御言葉に聴く姿勢、御言葉を用いる姿勢を受け取れるのではないかと思います。
この時、仮庵の祭がもっとも盛大に行われていた祭りの終わりの日でした。
新しい水を汲み、人々は歌いながら歩く盛大な祭りが最高潮に達した時、イエス様は、神殿の真ん中で、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と叫ばれました。この言葉が、それを聴いた人々に波紋を呼び起こしたことが40節から語られています。御自分のもとにこそ、生きた水が川となってあふれでる泉がある、そのように、ご自身にこそ、この祭を超えた権威があるということをイエス様が宣言されたからです。これは人々にとってそれまで聞いたことのない新しい教えでした。
この言葉を聞いた人々の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」「この人はメシアだ」という人々が表れました。
「あの預言者」というのは、今日お読みいたしました旧約朗読、申命記18章15節から約束されているメシア、律法に於いてモーセの再来と期待されていた預言者を指します。イエス様の語られた言葉は、当時、雨乞いの祭にもなっていた仮庵の祭の有り様を否定する言葉であり、ユダヤ人の慣習、そして信仰の拠り所を打ち砕くものでありましたが、イエス様の言葉に「心を開かれた」人が居たのです。
しかし、端から否定する人々もいました。
「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか」と。
先々週お話しいたしましたが、ユダヤ人にとってメシアはどこから来られるのか誰にも分からない、隠された存在だと信じられておりましたが、また一方ではユダのベツレヘムに生まれるという、旧約聖書ミカ書5章の預言の言葉を信じていた人もおりました。固定した考え方が、ふたつあったのですね。
イエスという人は、出処はガリラヤだということは分かっている。メシアは、どこから現れるのかも分からないことになっているし、もう一説にはベツレヘムだとも言われている。イエス様はローマの住民登録のために、両親がベツレヘムに赴いた先でお生まれになっておられますが、その細かいことまでは知られておらず、しかし、ガリラヤの出自だということなら、いずれにせよメシアではないというのが信じない人々の言い分でした。
イエス様の言葉は人々に対立を生じさせていました。しかし、まだ「イエスの時」は来ておらず、イエス様を捕らえようとする者もいましたが、手を掛けるということはありませんでした。
ファリサイ派の遣わした下役の人たちは、イエス様の権威ある言葉に心を動かされた人たちで、イエス様を捕らえることなく戻って来て申しました。「今まで、あの人のように話した人はいません」と。
祭司長、律法学者たちは怒ります。「お前たちまでも惑わされたのか。議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。だが、律法を知らないこの群衆は呪われている」
この言葉をどう聞きますでしょうか。自分たちだけが律法を知っていると思い、それを守ることに固着している律法学者、ファリサイ派の人々は、自分たちのあり方以外の人を、心底軽蔑していたと言います。「軽蔑する」という言葉では足りないほど、一般の人々を「地の民」と呼んで、蔑んでいたのです。そして自分たちは「選ばれた神の民」と呼んでおりました。そのように自分たちをひたすら高め、神の与えられた律法―それもある読み方に固着して、それ以外の価値観を真っ向から退け、退けるどころか心底軽蔑している。自分たちの読み方で律法の書を読み、それを守る。それ以外の人々は愚かであると高みから人々を裁いている。この言葉はイエスを信じるような者たちは、愚かな呪われた民しかいないと言っているのです。
その言葉に応えるように、またイエス様を弁護するようにニコデモがここで言葉を発します。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめた上でなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」。
ニコデモの言葉は積極的にイエス様を擁護する言葉ではありませんが、かつて自分が訪ねたイエス様のことを殺そうとしている自分の同胞たちに、律法の言葉を用いて宥めようとしています。「同胞の間に立って言い分をよく聞き、同胞間の問題であれ、寄留者との間の問題であれ、正しく裁きなさい。裁判に当たって、偏りみることがあってはならない。身分の上下を問わず、等しく事情を聞くべきである」という申命記1:16の御言葉を念頭に置いているものと思われます。
ニコデモは、柔らかい探究心のある心で、聖書に基き、淡々と語っているのだと思えます。偏り見ず、聖書全体を俯瞰しながら、御言葉に基づき、ことに対処しようとする姿勢は、私たちにとっても学ぶべきものだと思います。この時、感情的になっている律法学者ファリサイ派の人々を説き伏せるのは、知識と理性による言葉です。
しかし、律法学者ファリサイ派の人々は、ニコデモを罵ります。あなたもガリラヤ出身なのいか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる」と。
自分のことを正しいと思い込み、ひとつの価値に固着している人というのは、人からの助言など認めないのでしょう。自分より他者が知識があると思えたとしたら、そこに嫉妬心が芽生えて、そんな他者を貶めようとするものなのではないでしょうか。柔軟で、謙遜な心がどれほど人間には大切なことかと思います。
しかし、メシアに対するユダヤ人の固着した考えを緩やかに外して、聖書をよく読めば、ガリラヤに関するメシア預言があります。
それはイザヤ書8章の最後から9章1節、お読みいたします。「後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」
さらに5節「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、平和の父、平和の君」と唱えられる」と。
クリスマスによく読まれるメシア預言、それは異邦人のガリラヤが栄光を受ける、ガリラヤからメシアが顕れると記されているのです。
しかし、ここで律法学者ファリサイ派の人々は、イザヤの預言の言葉に対する認識はありません。読んでいても、メシア預言とは捉えていなかったのでしょう。彼らが知っているのは決められた、固定化したふたつのメシアの考え方、隠されたメシアか、ダビデの出身地であるベツレヘムに現れるメシアかであって、異邦人=地の民のガリラヤが栄光を受ける、という御言葉など、目にもくれていなかったのでしょう。
律法の中で一番大切なことは何ですかと問われたイエス様は答えられました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』律法全体と預言者は、この二つの掟に基いている」と。
公正で、弱者に対する憐みに満ちている律法の掟の、その本質を彼らは知ろうともせず、モーセの律法に加えて作られた細かい細則―たとえば、安息日には何歩までしか歩かないなど―に囚われ、神の与えられた律法により、神を崇めるのではなく、自分自身を高めようとしていました。イエス様は、そのような神を自分の利益のために利用しながら、聖書の言葉も自分の都合のよいところばかりに固着して、真理に心を向けようとせず、自分を高めることだけに固執する人々によって、イエス様は十字架への道を歩むことになったのです。
一昨日、北朝鮮第一書記と、韓国大統領の驚くべき会談があり、朝鮮半島が思いがけない和解の道を歩む第一歩が記されました。ふたりきりでの会談の様子が放映されていましたが、その時、韓国のムンジィエン大統領の真摯な説得の姿と、それにほだされていくように見える暴君キムジョンウンの顔つきが印象的に私には思えました。
ムンジィエンの謙遜な姿勢と真摯な態度に、韓国ではクリスチャンが多いし、この人はクリスチャンなのではないかしらと思って調べてみましたら、カトリックの信者ということでした。南北朝鮮の和平に向けて、ローマ法王に親書を送っていたということも知りました。この途轍もない和平に向けての展開は、ムンジィエンの信仰、その人格の根底にある祈りに拠るところが大きいに違いないということを確信しました。
祈り、へりくだり、世界中から凶暴な何をしでかすか分からない自分と親子ほど歳の離れた暴君に和解の手を伸ばし、祈って信じて、勇気をもって説得をしたに違いないと思えたことでした。どれだけ祈り、御言葉を信じて、勇気をもって謙遜にキムジョンウンに向き合ったのかと思いました。もし、ムンジィエンが、今日の御言葉の中の律法学者、ファリサイ派の人々のような高慢で自画自賛するような態度であったとすれば、会談はありえませんし、あったとしても大変な決裂になったことでしょう。
世界の平和に向けて、私たちは希望をもって祈り続けたいと思います。
そして私たちも御言葉の前に謙遜で柔らかい探究心、飢え渇きをもって、期待をと信頼もって、立ちたいと願うものです。期待と信頼をもって祈り求めながら、御言葉に向かい続けているならば、必ず何か困った問題、大きな課題に遭遇した時など、ニコデモが咄嗟に、律法の言葉でファリサイ派の人々を諌めたように、「知恵の言葉」「知識の言葉」をいただけることでしょう。自分をひたすら高めようとする心や、固定観念に囚われ、握り締めるのではなく、自らを明け渡し御言葉の前に立つのです。御言葉から溢れる自由があること、希望があることを私たちは必ず知ることになります。そして、問題に立ち向かう勇気をいただけ、問題を御心によって切り拓いていくことが出来る力が与えられるに違いありません。