「父の約束されたもの」(2018年5月20日ペンテコステ礼拝説教)

ルカによる福音書24:44~49
使徒言行録1:3~5

 イースターから数えて50日目の今日、ペンテコステ・聖霊降臨日がやって参りました。ペンテコステというのは、ギリシア語で50という数字を表す言葉で、主のご復活から50日目という意味の言葉です。
 イエス様は復活をされてから、40日に亘って弟子たちに多くの教えをなさり、そのままの姿で天に昇られ、雲に隠れて見えなくなりました。10日前、先々週木曜日がイエス・キリストの昇天日に当たり、その日から今日、聖霊降臨の出来事が起こるまで、弟子たちはイエス様が十字架に架けられたエルサレムに留まり、ひとつになって祈っていました。それは、主が天に上げられる前、イエス様から「高いところからの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」という命令からでした。

「高いところからの力に覆われる」、その時のことが語られているのは、使徒言行録2章です。ペンテコステ、と言えば「この御言葉」なのですが、今日はお読みしませんでしたが、これは重要な証言の言葉ですので、やはりお読みいたします。「五旬祭の日が来て、一同がひとつになっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国の言葉で話し出した」(2:1~4)。
イエス様の語られた「高いところからの力」とは、天からの神の霊、聖霊に「覆われる」ということであったのです。
 イエス様はヨハネによる福音書16章、最後の晩餐の席で、聖霊を「弁護者」という言葉を使って次のように語っておられます。「しかし、実を言うと、わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる。わたしが去っていかなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、裁きについて、世の誤りを明らかにする」(16:7~8)。
 ここで「去って行く」というのは、イエス様が逮捕され、十字架に架けられ、死なれ、弟子たちのもとから居なくなってしまう、そのように「去って行く」ということです。イエス様はそのことが「あなたがた=弟子たちのためになる」と言われました。イエス様が去って行かなければ―旧約聖書のモーセの言葉、預言書、詩編などで語られていた、メシア・救い主に関する言葉―例えば申命記18章で、「モーセのような預言者を立てる」という言葉、 イザヤ書53章の「苦難の僕」―これはイエス様の十字架への道を思わせる言葉です―ですとか、イエス様の十字架の上の御苦しみを思わせる、詩編22編のように、メシアは多くの苦しみを受けるという預言の言葉―が成就されなければ、弁護者=聖霊は来ないからと言われるのです。
聖霊とは、イエス様の十字架と復活と昇天、神がイエス・キリストを通して顕されようとされたすべてが成し遂げられた後、天に昇られたイエス・キリストと父なる神のもとから、地上に与えられる神の霊、地上におられたイエス様に代わって、世に降され、人々を覆う神の力であるお方です。使徒パウロは、聖霊は「人々を覆う」だけでなく、信仰者の体自体を「生ける神の神殿」と語り、聖霊なる神が、信じる者ひとりひとりのうちに留まられるということを語りました。

イエス様の十字架から2000年の間、私たちの生きるこの地上にはイエス様はおられませんが、イエス様が共におられることと同様のこと、いえ、弟子たちはじめ私たち人間にとっては、イエス様が側におられる以上の力に覆われた出来事、それがペンテコステの出来事でした。
イエス様がおられる以上の出来事、というと「そんな訳はない」と思われる方もおられるかもしれません。しかし、イエス様がおられた時のお弟子たちを思い出してみてください。イエス様に甘えっぱなしで、教えを受けてもまだまだ何も分かっておらず、最後の晩餐の席に至るまで、「自分たちの中で誰が一番偉いのか」などと言い争っているような、自己本位のまま、自分を何とかひとよりも際立たせたい、上に立ちたいなどの願望のある弟子たちでした。彼らの内面は、ちっとも変わらないまま、イエス様のお傍にいるために、特別な恵みを受けていたのです。

イエス様が「去って行かれた」後の時、どう生きるのか、どのように神の愛と神の力が世に顕わされるのか、神が、イエス・キリストが私たちと「共におられる」ということをどのように教えてくださり私たちを励ましてくださるのか、そして、どのようにイエス・キリストの十字架の福音が全世界へと広がりゆくのか。イエス・キリストが十字架の苦しみの末に、ご栄光を受けられ、復活され天に昇られ、弟子たちのもとから去って行かれた後、神は世に「何を残されたのか」。それが、イエス様が「送る」と言われた、「父が約束されたもの」であり、弁護者、聖霊なる神であられました。

 その時、凄まじいまでの神の霊の力が、弟子たちを襲うように顕れました。「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」た、どんな音だったのでしょうか。ごーーっと唸るような風の音だったのでしょうか。恐ろしいまでの大きすぎる風のような音があり、それが家中に響いたというのですから、家中が轟音で細かに揺れて震えるようなさまだったのでしょうか。そして、炎のような舌、恐らくは真っ赤な舌が分かれ分かれに現れた。それがひとりひとりの上にとどまったというのですから、燃え盛る炎のような舌が家の中に現れて、纏まって炎のような形だったものが、ひとつずつの舌に分かれて、それがひとりひとりの頭の上にとどまるのがそれぞれの目に映ったということなのでしょう。とてもとても不思議な光景です。
すると、一同は、「聖霊に満たされ」、聖霊の語らせるままに、他の国々の言葉で話し出したというのです。
激しい風のような大きな音というのは、どうやら、弟子たちの居た家から響いた音であったようで、家の音に驚いた多くの人々がその家に入ってくると、ガリラヤ出身のイエス様の弟子たちが、ガリラヤでもエルサレムで語られている言葉ではない言葉、集まってきた人たちの故郷の言葉で神を賛美し、神の偉大な御業を語っているのを見たのです。

 この聖霊の語らせるままに弟子たちが話し出した言葉を聖書では「異言」と語られています。英語ではトング=舌という意味の言葉です。炎のような舌が現れて、ひとりひとりの上に止まり、その舌が語らせる、舌が止まった人が通常会話に使っているのではない言葉を聖霊が語らせるという不思議な言葉なのです。信仰の「神秘」と言えましょう。パウロ書簡、コリントの信徒への手紙一12章でパウロが語る、聖霊の賜物のうちのひとつです。それは、この時、弟子たちが「(知らない)他国の言葉を話し始めた」というように、外国語であったり、パウロが「天使たちの異言」と呼ぶ、人間には分からない言葉もあります。使徒パウロは、「自分は誰よりも多くの異言を語る」と自らのことを語っております。コリントの信徒への手紙一13章で、パウロは「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう」という言葉を残しておりますが、現代も、異言を語る人々はおられますが、初代教会の時代は、その力は、今に増して目覚しいものであったことが想像出来ます。何しろ、炎のような舌があらわれたと、聖書でここでしか語られていない、まことに不思議な出来事が起こった最初の時代なのですから。
 この出来事―聖書の中でも、特別に不思議な圧倒的な神の臨在の出来事―こそが、イエス様が言われた「高いところからの力に覆われる」という出来事だったのです。そして、このことは、今日お読みした使徒言行録1:5の、イエス様の言葉によれば、「聖霊による洗礼」と呼ばれている事柄であったのです。

 ここに居た弟子たちの殆ど―イエス様の母マリアや、数人の女性たちを除いた―は、イエス様の十字架の時、自分も逮捕をされることが恐くて、その場から逃げ出した人たちでした。「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ22:33)とイエス様に向かって宣言をしながらも、いざという時になると裏切り、逃げてしまった弟子たちです。人間の咄嗟の時の行動は、その人の本性を表すと言いましょうか。弟子たちは、主が逮捕される時、蜘蛛の子を散らすように、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。それが「父の約束されたもの」を弟子たちが受ける、53日前までの弟子たちの姿でありました。彼らはイエス様のお傍には居りましたが、まだ真理を知らなかったのです。
彼らはイエス様の十字架を遠くで見ているだけでした。言葉と行動が裏腹な自分、イエス様が鞭うたれ、茨の冠を被せられ、頭からも体中から血を流し、そのままの姿で十字架の上で釘を打たれ、血を流し、苦しみぬいて死なれたのを、ただ遠くから見ていることしか出来ませんでした。
弟子たちはどれだけ自分を責めたことでしょう。しかし、自分たちも捕らえられるかもしれないという恐れは彼らを覆っており、家の鍵は勿論、心にも固く鍵を閉めるように閉じこもっていたのです。
そのような弟子たちの真ん中に、イエス様が、復活の体をもって、弟子たちの真ん中に立たれ、「あなたがたに平和があるように」と、恐れでいっぱいだった弟子たちに、平和を宣言され、復活の姿をあらわされました。ご自身が生きていることを、さまざまなことを通して証をなさり、それから40日に亘って、再び弟子たちと共に居て下さり、旧約聖書の預言者の書や、詩編などで、どれほどイエス様について記されているか、そしてそれらはすべて実現するのだということを語られ、弟子たちに聖書を悟らせるために、心の目を開いて言われました。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と。

イエス様の十字架、復活の出来事を通し、弟子たちは、ようやくイエス様が3年間語り続けておられた言葉、真理の言葉に心が開かれるようになっていったのです。そして、自分たちがどれだけ弱く、罪深い人間であったかということを思い知り、また、復活のキリスト・イエスの語られる言葉によって、イエス様の十字架の死は、自分の、自分たちの罪の身代わりの死であったのだということを、ひとりひとりが悟ったのです。
そして各々が己の罪を悔い改め、神に祈り続けていた、そのような中、「父の約束されたもの」「高いところからの力」が、弟子たちを覆っていた恐れのすべてを突き抜けて、弟子たちの上に下されたのです。そして、弟子たちは、聖霊によって新たに造りかえられた人として、その内側から強められ、聖霊が共にある新しい歩みを、宣教の道へと力強く、まるで、53日前とは別人のような歩みを始め、世界中にイエス・キリストの福音が宣べ伝えられ始めることになります。

 聖霊とは何か。カール・バルトという、20世紀最大の神学者と呼ばれる人は、「聖霊は、何かイエス・キリストとは別のもの、新しいものではない。聖霊をそのように理解したのは、いつも聖霊の誤った把握であった。『わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである』(ヨハネ16:14)とあるように、聖霊は、イエス・キリストの霊である。」(『教義学要綱』)と、ストレートに語っています。
「聖霊」というと日本語であまりニュアンスの宜しくない「霊」という言葉が使われているせいもあるのでしょうか、日本の教会では「あまり語ることが宜しくないもの」と思われる向きもあるのですが、聖霊というのは、イエス・キリストが昇天された後、天におられる父なる神と、神の右の座におられるイエス・キリストのもとから、地上に与えられる神・イエス・キリストの霊なのです。霊とは、おそらく形のないもの。変幻自在という言葉が当てはまるのかも知れません。

 父なる神、イエス・キリスト、聖霊なる神、三つにいましてひとりの神、ということを三位一体の神と申しますが、これをどう捉えるか、明確な答えはなかなか見つかっておりません。
 ひとつのヒントとして、パンをご自分で捏ねて焼く方は、捏ねる小麦粉の塊を思い起こしてみられてください。塊を三つに分けてみます。でももう一度ひとつにして捏ねると、どこで分けたのか分からなくなります。同じひとつの小麦粉の塊だからです。そのように、神が三位一体であられるということは、同じ小麦粉の塊を分けても、また混ぜれば同じひとつである、というようなそのような関係なのではないでしょうか。
 その中で、聖霊は目に見えない、形のおそらく無い、変幻自在のお方ですので、天の父とイエス・キリストのもとより、無数なものとして、「思いのままに」働かれる。イエス・キリストは今、天におられ地上にはおられませんが、十字架に架かり、陰府に下られ、復活され、天に昇られたイエス・キリストに代わって、変幻自在の、思いのままに吹き荒れる「霊」として、父なる神は、天の父とキリストのもとから、ご自身を霊として、今、地上に送っておられるのです。そして、信じるひとりひとりの上に、炎のような舌としてとどまられ、また、それぞれのうちに生きられ、さらに、人と人との間に働かれ、人を生かし、強め、真理をことごとく悟る知恵を与えてくださり、何より、イエス・キリストこそが救い主であることが分かる信仰を与えてくださいます。イエス・キリストの十字架は、私の、私たちの罪の身代わりの苦しみと死であったのだという、人の目には愚かに思える「真理」をことごとく悟らせてくださり、神の御前にまことに悔い改める心を与えてくださり、復活のキリストと共に、すべてを新しくし、人の内側から強め、人を変革し力を与え、生かす、神ご自身であられるのです。
 先に、「イエス様が側におられる以上の力に覆われた出来事がペンテコステの出来事」と申しましたが、それは、今、キリストは霊として、聖霊として、私たちに直接、ダイレクトにひとりひとりの内側から働いておられるから。そういう意味なのです。
 弟子たちは、聖霊を受けて、新しくされ、強められ、ペンテコステの出来事を大きな転機として、イエス・キリストの地上の教会は形づくられていくことになります。聖霊は、ひとりひとりに働いて、一人一人を強め、また、人と人との交わりを結ぶ神の霊です。

 牧師であった祖父が亡くなった時、開いた祖父の聖書に「イエス・キリストは今見える姿ではおられない。しかし、私はイエス・キリストの今おられることを強く感じている」というような言葉が書かれてあったのを思い出します。そして、祖父は、聖霊なる神の臨在を、高いところからの力に覆われることを知っていたのだということを、今は分かり、思うのです。
私たちは、恐れず、この暗い世、この地に生きる私たちひとりひとりと共にいてくださるイエス・キリストの霊であられる聖霊の力に覆われることを、恐れず求めたいと願う者です。時に激しく、時に穏やかな風のように私たちを包み、私たちを内側からの変革を促してくださる、聖霊なる神。悔い改め、イエス・キリストの赦しのもとにある者たちに、強く強く働いて下さる神なるお方、「父の約束されたもの」です。
「求めなさい。そうすれば与えられる。~まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ11:9~)
 私たちひとりひとりに、また、土気あすみが丘教会に、「父の約束された」「高いところから覆われる力」が豊かにありますように。