「イエスは世の光」(2018年5月7日礼拝説教)

申命記19:15~21
ヨハネによる福音書8:12~20

最近のニュースで、よく政治家が自分に向けられている疑念に対し、「(真実は)私が申し上げているとおりです」のように、他者の証言や、記録された公文書が出て来ていても、それらを否定し、自分の自分に対する証言こそが、正しいと強弁することが多く、報道もその政治家の言う、自分に向けられた自分の正しさを主張する証言と、他者の証言、公文書まで同列に並べて比較したりして報道をしているのを見て、この国の社会倫理の基準はどうなってしまっているのだろうと思わされることがあります。「私はそんなことはしていない」と一言言えば、公文書ですら、言った言わないという水掛け論に巻き込まれていくことに、非常に不可解なものを感じています。
そしてこのような報道を見ながら、今から3千年以上前に、主なる神によって制定された律法と律法の理解から発展した、ユダヤ教のミシュナーの教えを応用すべきではないかと思えてしまっています。
ミシュナーというのは、モーセ律法に細かい具体的な解釈を加えたラビ=律法の教師たちの教えで、律法を具体的に生活に密着させて発展させて理解して実践しているものなのですが、物事を証明するためには、「誰も自分自身のために証拠立てることは出来ない」と、自分自身のために証拠を提出することは出来ない、疑義のある本人の証言というのは認められないということが書かれてあります。それは、人間は自分に都合よく物事を語る性質があるからなのだ、ということなのだそうです。そのようなユダヤ人に対しては、今の日本の政治家の「私が自分を証言している言葉は正しい」と言う強弁は、恐らく全く通用しないのではないかと思います。
そして今日お読みした13節で、ファリサイ派の人たちが「わたしは世の光である」と仰ったイエス様の「私は世の光」という自己証言に対し、「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない」と、後にミシュナーとして纏められる当時の口伝律法を用いてイエス様を非難していると思われます。それに対しイエス様は17節「あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある」と、口伝律法ではなく、モーセの律法、今日お読みした申命記19章の教えを用いて反論をしておられます。
口伝律法はイエス様の時代の後に纏められたものでありますが、あくまで人間の考えによって神が与え賜うたモーセの律法に解釈を加えたものです。今日の御言葉は、モーセ律法よりも口伝律法の教えを守り続けることが律法を行うことだと思い込んでいるユダヤ人に対し、イエス様は、19節で「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない」と嘆いておられますが、まことのモーセの律法、神の言葉にのみ立ち帰れと語っておられることも含まれているようにも思われます。

さて、12節は「イエスは再び言われた」から始まっています。何に対して「再び」なのでしょうか。3週間前、8章1節~11節をお読みした時、この箇所は()の中に入れられていることをお話しし、ヨハネによる福音書が書かれたその時には、入っておらず、後の時代の写本から入るようになっている、後の時代の挿入であると考えられていることをお話しいたしました。古い写本では、7章52節の後に、8:12~が続いています。ですから、今日の御言葉は、7章から始まっている、仮庵の祭の終わりの日の出来事であるのです。ですから何に対して「再び」と語られているのかと言えば、7:37「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と、イエス様ご自身が生けるまことの水であるということを、水をふんだんに用いる、仮庵の祭りの中で「大声で言われた」ことに加えての「再び」であると思われます。
仮庵の祭りはモーセに率いられて出エジプトをしたイスラエルの民が、荒野で移動式の仮庵=テントに暮らしながら、天から与えられるパン=マナ、岩から吹き出る水によって養われたことを記念し、思い起こす祭です。さらにもうひとつ荒野の生活では、思い起こすべきことがありました。それは、荒野を旅する中、主なる神は、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって、イスラエルの民を導かれたことです。
「出エジプト記」の最後は、次のような言葉で終わっています。「旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたからである」と。

エルサレム神殿には「婦人の庭」と呼ばれる、男も女も入れる庭がありました。神殿では厳格に男女の区別がなされており、「婦人の庭」は神殿の中でも、至聖所、契約の箱が治められているところから離れたところにある広い庭で、それより中に、女性は入ることは出来ませんでした。
「婦人の庭」の四隅には四本の高い塔が立っており、その先に4本の燭台が立てられている。その塔はとても高く、梯子がついており、祭司が油を持って昇り、仮庵の祭の最初の日の夕暮れ、先端の高いところに油を注ぎ火をつけるのです。この火は、エルサレムの町中から仰ぎ見ることが出来たと申します。それは、主なる神が、夜は火の柱をもってイスラエルを導いたことを記念しているのです。

この日は祭の終わりの日でした。祭が終わり、燭台の火は消されます。その頃でしょうか、イエス様は、婦人の庭に設けられている宝物殿=賽銭箱のあるところで、人々に向かって、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と語られたのです。それは、神殿の火は消されても、イエス様ご自身こそが、まことの光、命の光であると言われたのです。またイスラエルを荒野で導いた神、その光は、私であった、私こそが主である、という宣言でありました。

神の最初の被造物は「光」でした。世は真暗闇でありましたが、神の「光あれ」という言葉によって、まばゆい光が生まれ、世を照らしました。
イエス様は「世の光」とご自身を語られましたが、イエス様が光であるなら、イエス様の照らす光とはどのような光でしょうか。神は三位一体。三つにいましておひとりのお方ですが、三位と分かれて考える時、イエス様はどういう役割、使命を帯びておられるのでしょうか。

8章1節から11節は、後の時代の挿入だと考えられているために、()付きになっていることをお話しいたしました。
3週間前に共に読みました()内の御言葉では、祭の賑わいの中、姦淫の現場を取り押さえられた女がひとり、ファリサイ派の人々に連れて来られ、律法の教えである「姦通したものは石打の刑」と言われて、イエス様をファリサイ派の人々が試すために、イエス様の前に立たされた出来事でした。イエス様は「あなたがたのうちで罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と仰いました。すると年配のものから、ひとり、またひとりと、石を投げずに去っていき、最後にひとりも残らなくなり、この女は石打の刑を免れ、またイエス様も「わたしもあなたを罪に定めない」と言われた出来事でした。
挿入と考えられているとはいえ、「わたしは世の光である」とイエス様が言われたという出来事の直前にこの姦通の女の出来事が敢えて挿入されているということは、この出来事は、イエス様が仰る「光」と関連しているたからなのではないでしょうか。
イエス様の「罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われた言葉は、自分たちにはこの女を裁く権利があると思っていきり立っていた者たちの罪を、その人たちの内に明らかにしました。今日の御言葉15節で主は、「あなたがたは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である」と言われましたが、イエス様は、この時、誰に対しても裁きの言葉を語ることはありませんでした。ただイエス様の前に立ち、イエス様の言葉に聞いて、自らを省みた時、人々は、自分の内の罪を、自らの闇、これまで犯した罪を思い起こしたのです。
しかし、そこに居た人々は皆イエス様の前から罪に気づきつつ、去っていきました。しかし、罪に気づくということそのものは当たり前に世を生きているならば、難しいことです。自分の罪というものは、イエス・キリストの光によって照らされなければ、分からないことなのだと思われるからです。
昨日は、あすみが丘家庭集会がありました。あすみが丘家庭集会には、おふたりの求道者の方が来ておられるのですが、教会に来て「あなたには罪がある」と言われるのは気持ちの良いものではないということで少し話が盛り上がりました。そうなのだろうと思う。教会に来るきっかけというのはさまざまだと思いますが、例えば「精神的に高められる何かを求めて」良い話を聞きたいと願って教会に来られたとして、そこで「あなたに罪がある」と説教で聞いたら、教会は失礼なことを言う、と感じられることでしょう。世にあって何か物足りないもの、その何かを求めて―求めることは尊いことですが、しかしそれが例えば「自分を高めたい」と思って「高めるために」教会に来られたとしたならば、恐らく残念ながら教会は、その人を高めるという要望に対する答える言葉を持っていないと思う。
キリスト教信仰とは、神と個々の人間との人格的な、密な関わりです。ただおひとりの神と自分との関係にまず気づかなければ、いえ、神と人格的に出会わなければ、神と人との関わりは断絶されたままのものです。
聖なる神、熱情の神、また公正な裁きを求められる神、すべてを含みつつ、ただ愛であられる神の御前にまず立つということ、神と向き合うこと、そこからしか始まらないのです。そして、人は神の御前に立つ時、闇を貫く光に照らされ、まず自分の罪に人は気づかされるのです。

イエス・キリストは、「世の罪を贖うために」、高き天より低き地に来られた神。神が人となられたお方、神の光です。イエス・キリストは、人間を罪から救うために世に来られました。人間には神に背くという、根源的な罪があります。罪は闇とも言い換えられる。神は聖なるお方で、罪の無いお方です。神は人間の罪と共に生きることはお出来にならない。
しかしその神が、自ら人となられ、世に降られ、人として、人と共に生きられたお方、それがイエス・キリストです。出会ったひとりひとりと向き合い、罪の赦しの宣言をされたお方です。
イエス・キリストの光とは、私たちの罪は露にする光です。神の愛とは、暗闇を照らす光。キリストの前に立つということは、自分の闇に罪に気づかされること―それは聖霊の働きでしかないのかもしれませんが。さらに罪の気づきとは、「赦される」ということ、「赦されなければならない」ということと一対のものです。神に赦されることを知らなければ、人間は自分の罪を悟ること、罪と向かい合うことは出来ないのではないか、そのように思います。罪を知るところに、神の愛と赦しはあるのです。
そして、罪を知ったならば、もう暗闇に戻らず、ファリサイ派の人々のようにイエス様のもとからそのまま去って行かず、イエス・キリストの光に照らされたまま、自分の罪をとことん見つめ、それを贖い取ってくださるイエス・キリストにすべてを明け渡し、悔い改め、イエス・キリストの光の道を、まことの命の道を、命の光の中を赦された者として新しく歩むべきです。自らを吟味し、罪を悔い改めつつ、その先は御言葉に従い、祈りつつ、歩むのです。それをする中で、それぞれに相応しい歩みを、命の道を、神は賜物として与えてくださるに違いありません。

先に、「わたしは世の光である」と言われたイエス様の言葉に対し、「あなたは自分について証ししている。その証しは真実ではない」とファリサイ派の人々は、イエス様をユダヤ教の口伝律法に則って否定したことをお話しいたしました。
それに対しイエス様は「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか。そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ」、さらに「わたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである」、そのように言われました。またさらに、「二人が行う証しは真実である」と律法に書いてあると。
今日は、三位一体主日。先週はペンテコステ、聖霊降臨日の礼拝をささげ、今日は、神は父・子・聖霊、三つにいましておひとりの神であられるということが、あらわされた、その出現に於いて明らかにされたことを記念する礼拝の日です。
先週の礼拝では、父子聖霊は、パンを焼く時、捏ねる小麦粉をたとえに、同じひとつのパンを作る小麦粉の固まりを、三つに分けて、もう一度捏ねるためにひとつにまとめたら、先ほどどのように三つに分けたのか、ひとつにしてしまうと分からない、そのようにおひとつ、おひとりの神であり、三位一体だということを申しあげました。
しかし、今日の御言葉では、聖霊なる神を含めた三位は語られていませんが、父なる神とイエス・キリストという、神のふたつの位格の関係についてイエス様は「二人が行う証しは真実である」という律法の教えを引用した言葉を、ファリサイ派の人々に投げかけておられます。
イエス様は、18節で「わたしをお遣わしになった父」と語っておられます。父なる神とイエス・キリストは「共にいる」(16節)のであり、尚且つこの時、父なる神は天におられ、イエス様は地におられました。そのように、おひとりの神であられながら、ふたつのあり方をされている。天におられる神が、人となられたお方がイエス様。そのように分かれて働いておられる。しかし、人間を救うという、ひとつの御業のために共に働いておられる。イエス様は人となられた神として、人間と同じ肉体を持ち、私たちと同じ息をする命として、感じ、考え、思い、痛む、人格のあるお方であられました。そして、イエス様は、天の父に向かって、絶えず祈っておられました。そのようにおられる場所は違い、働きは違うところにある。しかし、思い、考えの質は同じ、ひとつであり、イエス様が裁かれる裁きは、父なる神の裁きとなります。そのように、ひとつでありながら、それぞれに人格を持っておられる。今日の御言葉には聖霊は語られませんが、聖霊なる神も同様に、人格を持った神として、私たち信じる者のうちに、また互いの間におられ、神の御心のままに、今も働いておられます。
そのようにおひとりの神でありながら、形と場所をそれぞれ変えて働かれる、父なる神、イエス・キリスト、聖霊なる神は、それぞれに人格をお持ちのお方です。しかし、やはりパンにする小麦粉を捏ねるようにひとつにすると同質、まったく同じひとつのお方です。
そのような不思議なあり方に於いて、今日の御言葉では、イエス様がご自身を「世の光である」と証言することは、同じひとつの神であられながらも、個別の人格として働いておられる父と人となられたイエス様を、「二人」と見做し、「二人が行う証しは真実である」という律法の教えにイエス様の「世の光である」という自己を証言する言葉は適っており、イエス様の「世の光である」という証言は、真実なものであるということをイエス様は語っておられるのです。
神の三つの位格=人格のうちのおひとりであるイエス・キリストは、世にある人間の罪を、その光によって明らかにし、明らかにされた罪を悔い改めた人間の罪を、その十字架によって打ち滅ぼし、罪のないものとして下さり、神と和解をさせてくださる仲介者として、今も私たちのために執り成しをしてくださっておられます。イエス様の光のうちに、罪赦された者として、神の支配の中に入れられている者として、光の道を、御言葉に聴きつつ、祈りと希望を持って歩む者とさせていただきたいと願います。