歴代誌下15:1~8
使徒言行録4:12~31
イエス・キリストの十字架の出来事から、2000年経とうとしている今日、この時です。
私は幼稚園の時にイエス様と出会いましたが、子どもの頃からずっと2000年前、ひとりの、地上を生き十字架に架けられたイエスという「人」の出来事と、語られた言葉が、2000年という歳月を経ても滅びることも廃ることもなく、全世界の隅々に至るまで告げ知らせられている、数えきれないほどのイエス・キリストの教会が世には立てられていることは何故なのか、不思議で仕方ありませんでした。また世界中の文学も絵画もあらゆる芸術は、聖書を基盤としているものが多く、聖書を知らなければ世の中には分からないことが多すぎることに、計り知れない謎と畏れを感じながら、聖書に対し、そこはかとない興味を持ちながら育ってきたように思います。いつかはこの謎を知りたいと思っていました。
また西暦という紀元が、イエス・キリストの誕生の時を起点として始まっているという事実を知った時には、「世の中はどういう構造をしているのだろう?」と、わくわくする思いが致しました。特に英語を少し知るようになると、BC紀元前と社会科の教科書に書かれている言葉が、Before Christ キリスト以前という意味だということに不思議な感覚を覚えました。キリスト以前と、その後の今に至る時代が、全く別の意味を持っているということが西暦という世界中で用いられている暦の中に語られているように思えて畏れを感じるようになりました。
これらのすべてに「神の御手」が働いていることに違いありません。神は人間の歴史に働いておられる。信じる信じないにかかわらず、イエス・キリストはこの世の中の中心軸におられる。そして神はそれを、神ご自身の手による不思議な、また超自然的な業として直接世に下されるということを、時になさいますが、その多くをその御手の業を人間に託されました。いえ、神はそのお働きを人間を用いることを通して成し遂げることを御心とされました。それは、ペンテコステの出来事=聖霊降臨の出来事、聖霊すなわち父なる神、イエス・キリストの霊であるお方が、弟子たちのひとりひとりの上にとどまり、弟子たちが新しい言葉、神から与えられた特別な言葉を話し始めたことに端を発し、始められて行ったのです。
イエス様は天に昇られる直前、言われました。「あなたがたがの上に聖霊が降ると、あなたがたがは力を受ける」(1:8)と。聖霊は、父なる神と、天に昇られすべてをご支配しておられるイエス・キリストの霊であられ、ペンテコステの日にひとりひとりの上に降られ、聖霊によって弟子たちは、それまで自分の力では持ちえなかった知恵や力、何よりも祈る力、おひとりの神を仰ぎ見信じる力が与えられ、新しく立ち上がって行きました。聖霊はイエス・キリストを証する霊であられ、聖霊を受けるということは、その証しを受けて、イエス・キリストの十字架の救いの御業が不思議なまでに確かなこととして、まっすぐに受け取れるようになれる、神の力なのです。
イエス様が逮捕された時には、蜘蛛の子を散らすように逃げて行き、その後はおびえて家に鍵を掛けて蹲っていた弟子たちでしたが、聖霊を受け、新しい言葉を語り始めたその後は別人のように外に出て行き、神の言葉を力に満ちて、大胆に語り始めました。
今日の御言葉は、3章からずっと続いている出来事ですので、3章で起こった出来事についても触れながらお話しをさせて頂きますが、弟子たちが行った宣教は、「イエス・キリストの名」を用いるものでした。
「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(3:6)
使徒ペトロが、足が不自由で、ずっと神殿の門のところで施しを乞うていた人に向かって命令をすると、その人は踊りあがって立ち上がり歩き出し、神を賛美いたしました。その男の人が、足が不自由で、いつも神殿の「美しの門」の側に座って人からの施しによって生きている姿しか見たことのなかった人々は、躍り上がったその姿に「我を忘れるほどの驚いた」と申します。
その後、この出来事を知り、またペトロとヨハネが、神殿で「イエスに起こった死者の中からの復活」を宣べ伝えていたゆえに、復活を信じていない祭司、神殿守衛長、サドカイ派の人々は、そのことを口実にふたりを捕らえ翌日まで牢に入れ、翌日ふたりの取調べをいたします。
ユダヤ人たちは、この足の不自由な男が癒され躍り上がり神を賛美しているという奇跡が起こったこと、隠れていたイエス様の弟子たちが急激に力強くなり、人々の目がペトロたちに驚きと賞賛を以て向けられていることに、一体何が起こったのかと恐れたのでありましょう。何しろその日、歩けなかった人が歩けるようになったことを見て、またペトロの説教、ヨハネの言葉を聞いた人たちは、男だけで5000人がイエス・キリストを信じたというのですから。
そして翌日、ユダヤ教の最高議会、サンヘドリンを招集して、ペトロとヨハネの取り調べをし、申しました。「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と。
「名」ということ、私たちはそれぞれ固有の名を持っています。名は私たちの人格を区別します。さらに聖書に於いては、名はその人、存在の人格や性格そのもの本質を表します。時に聖書では、ひとりの人の名前が変わる、神によって別の名で呼ばれるようになる出来事を見ます。例えば、アブラハムが、最初はアブラム=偉大な父という名前だったのに、神との契約を境に、アブラハム=多くの国民の父と呼ばれるようになったように。
また「名」が置かれているところには、その名による「保証」がある、そのように考えられておりました。
申命記12:21に、「あなたの神、主がその名を置くために選ばれた場所」という御言葉があり、このことについては後にソロモン王が主なる神にエルサレム神殿を奉献した時、神殿を「ここはあなたが『わたしの名を留める』と仰せになったところです」と祈りました。
神は大きく、人間が造った建物などに納まるお方ではありません。ソロモンの造った神殿は、神ご自身の住まいではなく、神の「名」が置かれた、神の「名」の「保証」のある場所であるということを、ソロモンは知っておりました。神殿というのは、「神の名」によって、主なる神ご自身の保証がある、神がそこにおられるのと同様の力に満ちている場所であったのです。
サンヘドリンに於いて「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と取調べを受けたことに対し、ペトロは「ナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」と申しました。イエス・キリストの名、イエス・キリストの人格とその本質そのものによる、その名の置かれているところには、イエスが居られるその権威の「保証」がある、名のあるところにイエス様が行うのと同様の御業が現される、イエスの名こそが、救いの名である、ペトロはそのように答え、またそのことを宣言したのです。
議員たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかもふたりは特別な学問をした人ではない、普通の人であることに驚き、またイエスの名によって、足を癒された人を見て、ひと言も言い返すことは出来ず、また、イエスの名による癒しを否定することも出来ず、、「このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅す」こと決め、ペトロとヨハネに「今後、あの名=イエスの名=によって話したり、教えたりしないようにと脅しました。脅したというのですから、イエスの名によって話したり教えたりしたならば、酷い目に遭うぞ、場合によっては命はない、ということです。
しかし、ペトロとヨハネはひるまず答えます。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」と。
このような言葉を語ること、世にあってはどれだけ勇気の要ることでしょうか。神に従うか、世の権力に従うかを突きつけられ、世に歯向かえば、恐らく殺される。しかし、この時、ふたりは聖霊に満たされ、とにかく「自分たちが見たこと、聞いたことを話さないではいられないのです」と、議員たちの言葉を退けます。それでも二人が釈放されたのは、足の不自由な人が踊りあがったことで、多くの人々が神を賛美しており、そのような民衆を恐れて、民衆の熱狂の中で二人を処罰したならば、民衆がどのような行動を起こすかを恐れて、二人を釈放したのです。さらに二人を脅して。
そして、二人は釈放されると仲間たちのところに行き、祭司長たちが言ったこと、恐らくは酷い脅しの言葉のすべてを話しました。
それを聞いたイエス・キリストを信じる聖霊に満たされた人々は、脅しの言葉にひるむことなく、まず成したことは、心をひとつに祈ることでした。祈りのうちに、彼らは旧約聖書詩編の言葉を思い起こすのです。それは詩編2編の御言葉でした。「なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか。地上の王はこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、主とそのメシアに逆らう」。
彼らは、聖霊によって、祈りのうちに、詩編2編の意味を悟りました。それは、異邦人であるヘロデ―この人はユダヤの王と呼ばれておりましたが、民族としてはエドム人。イスラエルから見れば異邦人でした―、そしてローマ総督ポンティオ・ピラトは、イスラエルの民であるファリサイ派、律法学者、サンヘドリンの議員たちと一緒になって、イエス様に逆らい、そしてイエス様を十字架に架けた。それは、既に旧約聖書で預言されていた出来事であり、キリスト信じる者たちを迫害する者たち、脅すものたちがいることは、既にご計画をされていたことだったのだということを。自分たちの置かれている今の状況というのは、神の御手の中にある、だから、神は共に居て下さるのだ、そのことを悟り、さらに神のご計画が成し遂げられることを祈るのです。「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることが出来るようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気が癒され、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」
そのように心をひとつに、脅しや迫害にもひるまず、思い切って大胆に御言葉を語ることを望み、祈り、さらに自分たちが用いるイエスの名によって、病気の癒し、しるしと不思議な神の業が行われるように、祈った時、一同が集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り出したというのです。
「揺れ動く」ということ、その昔、シナイ山でモーセに主なる神が顕現され、律法によるシナイ契約を結んだとき、「山全体が激しく震えた」(19:18)と語られています。この時、イエスを信じる者たちが祈ったその「場所が揺れ動いた」のは、神がこの場にご臨在され、彼らの願いを聞き届けてくださったというしるしに他なりません。
ペンテコステの出来事は、弟子たちがひとつになって熱心に祈り続けている時に顕されました。ペンテコステの出来事に継いで顕された、この時の大胆な神の顕現は、彼らの宣教が聖霊降臨によって始まり、最初の試練に出会った時、またひとつになって祈る時に顕されました。主なる神は、キリストを信じる群が、脅し、迫害の危機にさらされる中、人々の祈りのうちに大胆に顕現され、聖霊による新しい力を与えられました。神は、試練の中にある人々に聖霊による力を与え、人を用いて宣教へと、神の言葉を語ることに突き動かし、その御業を成し遂げようとされるのです。
それ以来、キリスト教会は数知れぬ迫害に遭いながらも、しかし、滅びることなく、絶えることなく、イエス・キリストの十字架の救い、イエスの名のほかに救いの名はないという教会の信仰を宣べ伝え続け、2000年の年月が経っています。この間、神は時に大胆に人の間にご自身を顕され、力を与え、試練にも迫害にも耐え、ただひたすら「神に従う」人を起こし続け、さらに必要に応じて聖霊による強い力を与えられ続けました。
キリスト教の歴史は、迫害と苦難の歴史です。今日の御言葉はその始まりの予兆とも言える事柄でありましょう。
しかし、キリスト教会は2000年経った今、世界に広がり、今も迫害を受ける人々がおり、しかし、迫害の中に働かれる聖霊の力があります。ひとつの例として近年の中国のキリスト教会の動きは目覚しいものがあることを伝え聞いています。そこには、使徒言行録さながらの聖霊の働きがある。聖霊は今も生きて働かれ、力を与えて人間を用いて、神の救いの御業を成し遂げようとしておられます。私たちの間でも勿論ですが、私たちの知らないところでも、今も聖霊は計り知れないほど力強く働かれており、御心を顕し続け、イエス・キリストの救いを告げ知らせ続けておられます。
教会の宣教、それは「イエス・キリストの名」を用いての宣教でした。天に昇られたイエス様に代わって、聖霊が世には下され、それと同時に「イエス・キリストの名」を用いて、神の御業を宣べ伝えることが、弟子たちには残されたのです。
イエス様は、ヨハネによる福音書16:24、十字架に掛けられる前日の夜、最後の晩餐の席で次のように言われました。「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」。
イエス様は「わたしの名によって願いなさい」と言われました。ですから、私たちは自分の言葉で祈る時、「この祈りを救い主イエス・キリストのお名前を通して御前におささげいたします」と祈ります。「イエス・キリストを通して」ではなく、「イエス・キリストの御名、お名前によって御前におささげします」と祈る根のです。この言葉を聴き、また復活の主イエスに40日に亘って多くの教えを受けた弟子たちは、その後「イエスの名」を用いて神の御業の宣言・癒しの業をなし、また「イエスの名」を用いて祈り、また「イエスの名」を用いた宣教をするようになったのです。
使徒言行録を読んでおりますと、「イエスの名」と「聖霊」は、非常に近いと言いますか、ほぼ同じような意味合いで使われていることを覚えます。イエスの名が語られるところに聖霊が働かれる、イエスの名と聖霊はひとつであると言っても良いのではないか、そのようにすら思えます。イエスの名を用いて祈るところに聖霊は働かれ、私たちを強め、神の働きは顕されるのです。
さらに、教会が思いをひとつに、ただ神に従い、神の御業を信じ、イエスの名を用いて祈る時、神の御業は豊かに、また大胆に働かれることを覚え、またそのことを信じる群と私たちの教会がならせていただきたいと願います。
この教会には水曜日には聖書を読む会があり、この会の後半は祈祷会です。是非とも多くの方々にここに集っていただき、共にイエスの名を用いて、神の御業が私たちの上に豊かに顕されるように祈りたい、そして神の素晴らしい御業をこの教会に於いて見せていただきたい、このことを強く願っています。
イエスの名には、イエス・キリストの「保証」がある。私たちがイエス・キリストの名を用いて祈るとき、それはイエス様の祈りになるのです。このことを心に留め、おひとりおひとり豊かな祈りの生活をなさり、また集い、ひとつになり、大胆に神の御業を求め続ける群でありたいと願っています。