民数記21:4~9
ヨハネによる福音書8:21~30
今日は花の日。紫陽花の美しく咲き誇る季節です。この日は「子どもの日」とも呼ばれる日。週報にも記させていただきましたが、この日は子どもたちに奉仕と感謝を実地に学ばせることを趣旨として、アメリカで始められた子どもたちの信仰教育の時です。私たちの教会では、一番近い老人ホーム、かつてSS姉が居られた「ひまわりの郷」に花束をお渡しして参りました。
今の時代、人と人との生のコミュニケーションが希薄な時代になっているのではないかと思えます。電車に乗ると、皆スマートフォンとにらめっこをしていて、実際傍に居ない人との文字の対話に勤しみ、実際隣にいる人をそれぞれが遮断し、大切にしていないように見えます。このような社会の中で、子どもたちに、他者との生きた関わり、「奉仕と感謝」ということを伝え、信仰の実践的な経験の機会を持つことは、ささやかなひとときではありますが、貴重なことだと思えます。
ヨハネによる福音書をずっと読み続けており、今日は、ヨハネによる福音書の特徴ということについて、いくつかお話しをさせていただくつもりですが、特徴のひとつはイエス・キリストに結ばれた者たちとして「互いに愛し合う」ということが強く語られている書物であるということです。キリストに結ばれるということは、イエス様を救い主と信じる信仰の上に立つことです。そして神の愛を受けた者として互いに愛し合い、重んじあう私たちとして、そのことを子どもたちに伝え、心からの感謝と共に、主に仕えるように人に仕える人たちの群として私たちの教会は成長していきたいと願い、またそれらを子どもたちにも伝えられるようになりたいと心から願っています。
それにしても世を見渡しますと、子どもたちを巡る悲しい、悲惨な事件が後を絶ちません。国内に於いては親からの虐待、他人の大人の暴力を受ける子どもたち、世界に目を向ければ戦争、難民となる子どもたち。飢えと命の危険にさらされている子どもたちが、今この世にどれほど居るのでしょうか。
先ほど、「ヨハネによる福音書の特徴のひとつは、キリストに結ばれている者たちとして互いに愛し合うことが語られている」ということを申しました。それと並行してと言いましょうか、ヨハネによる福音書のもうひとつの特徴は、「世の支配者はサタン=悪の力である」というはっきりした認識がある書物であるということです。恐ろしいことですね。でも、世の支配者はサタンである、という目で世の中を見渡しますと、なるほど、それは本当にそうなのだ、と思わされませんでしょうか。人は皆苦労し、生きています。さまざまな苦しみや悲しみをそれぞれ持っています。昨今の子どもたちを巡る虐待の問題、また私が最近見たテレビで非常に衝撃を受けたのは、「南京大虐殺」についての検証の番組がありました。これがどれほどのことであったのか、それを行った兵士たちはその時狂気であったとしか思えない。政治権力の言うままにやったこととは言え、そこで行われたことは、私の思い描く以上の地獄絵でした。
世を生きる私たちは、ほんの少しのきっかけで、そのような狂気に巻き込まれてゆく可能性がある。戦争は過去に於いても今も、至るところで起こっており、また自然災害もある。世にあって平穏に生きているということの方が、もしかしたら奇跡なのではないだろうか、と思えることがあります。私たちはそのような世に生かされているのです。しかし、世は罪の世であり苦しみがあるというのが、この世の姿なのだというのが、ヨハネによる福音書を、また聖書全体が貫く世界観なのでありましょう。しかし、この人間の罪と悪に支配された世にあって、神による救いが今は既に顕されている、聖書はそのことを語っているのです。
今日の御言葉の中で、イエス様は23節「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない」と語っておられます。私たちの住むこの世は下のもの、サタン、悪に属している。生まれたままの人間はそこにそのまま生きている。しかし、イエス様は上のものに属しておられる。しかし、神の救いは既に顕されており、それはイエスを救い主、キリストであると信じる信仰によって、下に属していた者が、世にありながら上に属する者とされる、信仰によってイエス・キリストの共におられるところに行くことが出来る、その道が既に現されているのです。それを見出せ、聖書はそのことを強く強く語っています。
そのためのキーワード、それは「イエスとは誰か」を知ることです。
ヨハネによる福音書には、イエス様は誰か、どのようなお方か、そのことがたくさん書かれてあります。これはヨハネによる福音書の大きな特徴です。
「イエスとは誰か」ということをイエス様ご自身の言葉で言い表す箇所が、ヨハネによる福音書には何度も出て参ります。6章では「わたしは命のパンである」7章では「わたしは世の光である」、10章では「わたしは羊の門である」、「わたしは良い羊飼いである」、11章「わたしは復活であり命である」さらに15章「わたしはぶどうの木」など。そして今日の御言葉には、「わたしはある」と、「わたしは~である」という述語の無い言葉がイエス様ご自身の口から二度語られています。
「わたしはある」、これは、ギリシア語で「エゴーエイミ」という言葉です。エゴーエイミに、ギリシャ語で「命のパン」という述語を繋げると、「わたしは命のパンである」という、イエス様こそがまことの命に至るまことの食べ物である―このことは既にお話しいたしました―という言葉となり、またエゴーエイミに、ギリシア語で「世の光」という述語を繋げると、「私は世の光である」という言葉になります。
このエゴーエイミは、旧約聖書出エジプト記3章で、モーセが主なる神にその「名」を尋ねたときへの主の答え、「わたしはある。わたしはあるという者だ」(14節)と、主なる神がご自身の名を宣言されたことと、このヨハネによる福音書でイエス様がご自身を「わたしはある」と語られていることは、原語がヘブライ語とギリシア語の違いはありますが、同じ意味だと言われています。すなわち、「わたしはある」、ただ「わたしはある」と語られる時は、それは先週お話しいたしました、「神の名」が語られており、それは神の権威の表れであり、イエス様が「わたしはある」と語られる時には、ご自身が主なる神、ヤハウェと等しい者であるということを、自ら宣言しておられる言葉となるのです。
今日の御言葉、そして8章全体も、7章から続く仮庵の祭でのエルサレムの出来事の続きです。祭りの終わりの日に神殿の宝物殿の近くで、イエス様は語り続けておられます。
「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」
「去って行く」ということ、この言葉はイエス様が祭りが終わり、エルサレムから去って行くという具体的な意味もありますが、イエス様が十字架の死を見据えての言葉でもあります。また、あなたたち、ユダヤ人たちは、居なくなったイエス様を探す、このことも具体的にエルサレムを離れたイエス様を探すという意味と、イエス様の死の後の二重の意味合いの言葉です。ヨハネによる福音書の特徴として、ひとつの言葉が重なり合う二重の意味となっていることが多いということもあげられると思います。
そして言われるのです。「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行くところに、あなたたちは来ることは出来ない」と。イエス様は、ご自身の十字架の死を見据えてこの言葉を語っておられます。上に属するイエス様、イエス様は死んで死の国、陰府に降られ、死を打ち破り復活され、天に昇られます。その場所に、神の支配のある場所に、あなたたちは来ることは出来ないと言われるのです。
ここに居るユダヤ人、ファリサイ派の人々というのは、自分たちこそが、律法を守っているので神の前に正しく、神の裁きなど受けないと信じている人たちです。ファリサイ派の人々は死者の復活を信じている人たちですが、律法を守る自分たちこそ復活の命に与ることが出来ると思っている。そして、「わたしの行くところにあなたたちは来ることができない」という言葉に、「自殺でもするつもりなのだろうか」などとイエス様に対し的外れなことを言っているのは、下にある者が上におられるイエス様を理解出来ない意味合いと共に、ファリサイ派の人々は、あらゆる区別をする人々で、自殺をした人と自分たちは行く所が違うと考えていたからなのです。自分たちは上に行く。自殺をしたなら下に行く。
しかし、イエス様は全く反対のことを言われます。そのようなファリサイ派の人々の人間的な思いを打ち破り言われます。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している」さらに「あなたたちは自分の罪のために死ぬことになる」、とこの言葉を三度も念をおすように厳しい言葉を続けておられるのです。
ユダヤ人たちは、自分たちが上に属すると思っているけれど、そのままでは駄目なのだ、あなたがたには気づかなければならないこと、知らねばならないことがあるのだと。
イエス様の言葉は厳しいですが、同じ言葉を3度語られるということは、それほどに、この言葉が真実なる言葉、イエス様が、己の罪を知らず、イエス様を主と認めないユダヤ人たちを心配して言っておられる言葉であるということです。下に、世に属する者たち、世は悪に支配されている罪の世でありますから、そのままでは、罪にあるままでは、罪のために罪のうちに死ぬことになる。死は死でしかない滅びとなる。復活の命には至らないと。そして、この厳しい言葉を語られるのはイエス様の愛だと私には思えます。
その内心は、「自分の罪のために死んで欲しくはない」「わたし=イエスは誰か」ということに気づいて欲しいということです。イエス様は徹底的にユダヤ人と向き合っておられます。徹底的に向き合うということは、彼らを愛しているということです。無関心であれば、関係がなければ向き合い、厳しい言葉など語ることはないでしょう。神は罪人を愛し、赦す神です。罪人が罪のまま滅びるのを喜ばれない。むしろ、悪人、罪人が立ち返って生きることを喜ばれるお方です。(エゼキエル)
その証拠に、同じ言葉を最後の晩餐の席で、イエス様はご自身の愛する弟子たちに向かっても語っておられます。
13章33節からお読みいたします。196ページ。「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じ事を言っておく」と。さらに、この言葉は「新しい掟」へと続きます。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛しあいなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを知るようになる」(34~35節)
ユダヤ人たちは、神に愛され選ばれ、律法を与えられた民でありますが、彼らは律法の本質を知り得ることなく、イエス様のおられる時代を自分よがりに律法を守るという自己満足の中で、律法に加えた自分たちが作り上げた規則を守ることで、自分こそが正しいと思い込んで生きておりました。しかし、そのようなユダヤ人たちは、イエス様を憎み、殺そうと企んでいたのです。憎み、企み、殺すことを考える、それは下に属する事柄、世に属する事柄、サタン=悪に属する事柄です。そのようなままでは、「自分の罪のうちに死ぬことになる」のです。
弟子たちもどうでしょうか。最後の晩餐の時、イエス様からユダヤ人と同じこと「わたしが行くところにあなたがたは来ることは出来ない」と言われた弟子たちです。イエス様の逮捕の時、蜘蛛の子を散らすように逃げていき、イエス様を裏切ります。それは、イエス様に3年に亘って多くの教えを直接いただきながらも、本当には分かっていなかった。弟子たちもずっと下に属している人たちだったのです。本当には信じていなかったからです。信じていたならば、イエス様の死と復活は、イエス様の言葉で再三予告されていたのですから、裏切らなかったに違いない。しかし、彼らはまだ本当には信じ得ていなかったのです。
しかし、イエス様の十字架と復活を経験し、復活の主に赦され、愛されていることを知った弟子たちは、まことに信じる者と変えられました。「人の子を上げたとき=十字架に主が架けられたことによって、初めて『わたしはある』ということ」、イエス様は父なる神からの言葉をそのまま語っておられるおかただということが、分かるようになると、イエス様は言われました。
そうなのです。イエス様が上げられる、十字架に、そのことによって弟子たちは、主の十字架を経て、自分たちの罪を弱さを、とことん知りました。そして、自分たちがイエス様を十字架に架けたことを、イエス様の十字架の死は自分の罪のためであったのだということを、またその苦しみは、聖書=旧約聖書で預言されていたメシア=救い主の姿であったこと、イエス様こそが「わたしはある」というお方、主なる神、そのお方であることを、自分の罪を知ることによって、初めて知るに至ったのです。そして何より、そんな罪深い、弱い自分を自分たちは、赦されたのだ、ということを知ったのです。
復活の主は、弟子たちに、明るく「おはよう」と仰り、平和を告げられました。炭火を起こして魚を焼き、朝食の準備をしてくださった。復活の主は、弱さと罪の中で崩れ落ちそうなでしたちを、完全に赦し、その愛ですべてを包んでくださいました。
そしてイエス様こそが「わたしはある」という神であることを信じ、知る者となり、下に属する者から、上に属する者、罪と苦しみの世にありながらも、上に、天に属する者、天の喜びを持つ者に変えられ、上からの力を得て、イエス・キリストを宣べ伝える、宣教の業に、世の命を掛けて歩み出したのです。「罪のうちに死ぬ」のではなく、キリストのために生き、神に結ばれて死ぬ―それは永遠の命にいたる―そのような上に、キリストと共に天に属する者として、下を世を生きる者とされたのです。
そのように、イエス様こそが「わたしはある」というお方であることを信じたイエス・キリストの共同体、それは「互いに愛し合う」「仕え合う」共同体として始まりました。憎しみや暴力のあるところには、キリストはおられない。「互いに愛し合う」ところにイエス・キリストはおられます。
私たちもイエス様こそが、「わたしはある」というお方であることを信じ、自らの罪を悔い改め、新しくされたものとして、憎しみではなく、愛をもって仕え合う者として、世を生きること、このことを私、私自身のものと得させていただきましょう。
そして、「イエス様の居られるところに行くことが出来る」者として、この苦難のある世を、喜びと希望を持って生き抜きたいと願います。