「真理はあなたがたを自由にする」(2018年6月17日礼拝説教)

創世記3:1~6
ヨハネによる福音書8:31~47

「真理はあなたがたを自由にする」
 ヨハネによる福音書には、心に残る御言葉の宝箱のように、私たちの心を神へと向けさせる御言葉が多くあります。この御言葉もそのひとつであると思えます。
 ヨハネ福音書が語る「真理」とは、イエス・キリスト、そのお方ご自身を指し示す言葉です。ですから真理とはイエス・キリストである。真理とは人間の思索によって人間の思いや考えで到達することが出来るものではなく、ただひとつの真理は神によってもう既に与えられているのです。それは、イエス・キリスト。神の御子。このお方を信じ、その言葉に聞くことです。
ヨハネによる福音書の冒頭は、「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった」と始まりますが、真理の言葉。言葉なる神とはイエス・キリストであり、イエス様の言葉でもあります。イエス様の言葉は、父なる神、万物の創造主であられるお方の言葉であるからです。
そして、この御言葉にはもうひとつ、私たちの心を明るい希望のようなものに向けさせる言葉があります。それは「自由」。
私は四国の松山で生まれ育ち、小学校4年生の途中から中学2年まで大阪で暮らし、中学3年で松山に戻り、高校からひとりで上京し、東京で暮らすようになりました。それらの中で、大阪で暮らした時代以外、本当に規則づくめの生活をしていたことを思い出します。行動や服装への決まりごとがものすごく多い学校ばかりだったのです。それらは、外から子どもを縛ることによって、有無を言わさず自由な感情や意思を封じ込めるものであったと思い返します。私が育った時代背景から言えば、多分私の受けた教育は古い価値観を引きずる特殊なものだったのではないかと思います。私は「自由」というと、あれをやってはいけないこれをやってはいけないと、外側からがんじがらめに規制されて生きていた不自由な経験をもとにまず思い巡らせてしまいます。

 お読みした旧約聖書3章、説教でもよく取り上げる人間の罪のはじまりの出来事ですが、はじめの人、アダムとエバが、神から「この木の果実だけは食べてはならない」と命じられていた木から、神の命令に背き、蛇の誘惑に乗ってしまい、木の実を食べてしまったことから、人間には罪という、神に背く性質が生まれたことが語られています。
 しかしこの御言葉を読むと、いろいろな疑問を感じてしまいます。食べてはいけないのなら、何故神はその木の周りに有刺鉄線のような柵を張り巡らせなかったんだろうか、むしろ、私が子どもの頃経験したように、がんじがらめに決まりごとを作る方が、人間は罪を犯さずに済んだのにとか、そもそもどうして神は食べてはいけない木の実などを、わざわざお造りになっただろうか?など。
 神は人間を「神の似姿」としてお造りになられたことが、創世記1章に記されています。「神の似姿」とはどういうことか。神に似せるということは、人格のある、自由な意志を持つ者としてお造りになられたということです。自由な意志を持つ者として造られた人間は、ただひとつのこと以外を、すべてを自由な意志によって任されており、何をしても、何を食べてもよかった。ただひとつの木から実を取って食べてはならないということ以外は。

「キリスト教」というと、知らない方々からは、行動の制約などが多いのではないかと思っておられる方々も多いのではないかと思いますが、実は、ただひとつのことしか、制約というのはないのです。それは、「神をほかの何よりも一番に愛する」という命令です。ですから、旧約聖書の律法の第一戒は語るのです。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト20:3)と。そして、神を一番に愛するという唯ひとつの命令は、神が私たちを愛しておられるということへの応答としての愛です。神の愛はイエス・キリストに於いて顕されました。イエス・キリストは十字架の上でその命を捨ててまで、人間を罪の縄目から救い出し、罪から救い出された全き自由を持つ者となる道を開かれました。
神の似姿として、その思い、心、存在のすべてをそのまま重んじられている者として、人格を尊重される存在として、神の御子が命を捨てられるほどに愛されている者として、神を一番に愛する。それだけ、です。
加えて申せば、神を愛するということの行為の表れは、神を礼拝するということを重んじることとなり、また、神と愛し合う関係に入れられた者たち同士、愛のうちにある者どうし、互いに愛し合いつつ生きる。キリスト教に、しなければならないという命令があるとするならば、神に愛されている者として、神を第一に愛し、神を礼拝し、神に愛されている者同士、互いに愛し合いなさい、それに尽きるのであろうと思います。

アダムとエバの罪、蛇の言うことに従ってしまったということは、神を第一に愛することを忘れて、神の戒めを忘れて、別のものの言葉に従ったことを意味いたします。神は、自由な意志を与えられた人間が、神をまず第一に愛することを、どこまでも神を選ぶことを望んでおられます。―だから、食べてはならない木の周りに有刺鉄線を張り巡らすことはなさらないまま、食べてはならない木を、他の木と同様に園の中央に置かれていたのでありましょう。自由を与えられた者として、ただひとつの戒めを守る者であってほしいという願いを込めて。
 パウロはガラテヤの信徒への手紙5章で次のように語っています。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」。
 神は人間を愛し、信頼し、縛り付けるのではなく、その自由な意志をもってご自分と共に生きることを望まれました。神の愛は、人間を愛し、信頼し、その意志に任せる愛です。そして聖書の語る自由の一つの意味とは、まず、与えられた自由をどのように用いるのか、自由な意志による決断ということが挙げられましょう。その意味で、自由というのは、責任を伴うものです。

 さて今日の御言葉は、先週の続きで、仮庵祭の終わりの日のイエス様とユダヤ人たちとの論争が続いています。イエス様の言葉を聞いて「信じた」ユダヤ人たちがおりました。その人たちに向かって語られているイエス様の言葉です。
 先週の御言葉では、イエス様は「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と非常に厳しい言葉を繰り返し言われました。この厳しい言葉を語られた時、「多くの人々がイエスを信じた」と語られておりますが、実は私は、なぜこれらの厳しく、また分かり難いイエス様の言葉を聞いて「多くの人が信じた」のか、不思議な気がいたしました。そして、今日の御言葉への展開を読みますと、ユダヤ人たちの「信じた」というその「信じ方」は、心からの悔い改めをもって信じたというのではどうやらない。半信半疑のまま、「信じてみた」という人たちが多かったということなのではないか?と思えました。なぜなら、イエス様は31節で「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」、と「とどまるならば」という仮定形で、話をしておられるからです。「とどまらないならば」本当の弟子ではないのです。
そして、この後の話の展開は、「信じた」というユダヤ人たちと、イエス様の対話がより理解し合えない、ぎくしゃくしたものになって行くことを語っています。
今日の御言葉は、一度読んでもなかなか分かり難く、語られている言葉の論理も旧約聖書をよく知っていなければ、なかなか理解し難いのですが、出来るだけ噛み砕いてお話ししたいと思いますので、お聴きください。
 
 イエス様は続けて言われました。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と。この「あなたたちは真理を知り」は、「真理を知ることになる」とも言い換えられる、未来形で語られています。
 この言葉は、「信じた」ユダヤ人たちをカチンと来させたはずです。ユダヤ人たちは、自分たちこそが既に真理を知っていると思っている人々です。それが、未来形で語られるということは、今あなたたちは、「真理を知らない」とイエス様に言われていることと同じです。
そして「自由」という事柄が、旧約聖書に於ける「信仰の父」と呼ばれるアブラハムとの関連に於いてユダヤ人の口から語られていくのですが、これは、アブラハムにはふたりの子どもがおりましたが、ひとりは妻であるサラの子どもイサク、もうひとりは女奴隷ハガルの子どもとして生まれたイシュマエル。ユダヤ人の血統は、サラの子どもに繋がる血統ですので、自分たちは奴隷の子ではない、自由な身分の女から産まれた子の子孫だということを誇らし気に語っているのです。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷だったことはありません」と。これは、イエス様の言葉に対する抗議の言葉です。
それに対し、イエス様は言われます。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすればあなたたちは本当に自由になる」と。
「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」、イエス様は、自由ということを罪と結び付けて語っておられます。アダムとエバは、与えられた自由を罪を犯すことに用いてしまいました。そしてアダムとエバは、そしてその子孫のすべては、自分たちがその言葉に従ってしまった蛇=悪魔の領域に入ってしまった。そしてアダムとエバの間に生まれた最初の子どもたち、カインとアベルは、兄が弟を殺すという、兄弟殺しの罪を犯し、その子孫である人間のすべては、殺す、殺しあうということも含む、神へ背を向けることから生じる罪がもたらす、さまざまな人間の悪行の中に生きる者とされてしまいました。
ユダヤ人たちというのは、神に選ばれた民で、律法を与えられた民でありましたが、ユダヤ人、イスラエルの人々は、律法に従うということを出来なかった。アダムとエバが神のただひとつの戒めに従い抜くことが出来なかったのと同様に、神の戒めの律法を守ることは出来ず、またその自由な意志によって律法を守ることを自ら選べず、挙句の果てに、自分たちが神の上に立つかのように律法を自分の誇りとし、神であり、神から遣わされたお方、イエス様を認め、受け入れることが出来ない。イエス様は、神から遣わされたお方でありますから、イエス様の言葉を受け入れないということは、どこまでも神に背き続け、罪の奴隷であり続けている状態なのです。そして真理なるイエス様を殺そうまでとしている。

 イエス様は、ユダヤ人はアブラハムの子孫、サラの血統の子孫であることは認めておられます。アブラハムの子孫、サラの血統であるのならば、奴隷の子ではない。それがユダヤ人たちの論理であり誇りですが、アブラハムという人のことを、ユダヤ人たちは自分たちの血統と結び付けて誇らしく語っているのに対し、イエス様は血統ではなく、アブラハムの信仰に目を向けて語られます。
アブラハムの信仰とは、創世記15章に語られている、「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」ということに集約されて行きましょう。既に高齢になっていたアブラハムでしたが、主なる神がアブラハムを外に連れ出し、満天の星を指して、「あなたの子孫はこのようになる」と言われた主の言葉を、アブラハムは信じたのです。神の言葉を信じて受け入れたのです。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ」、イエス様はユダヤ人に向かって厳しく言われますが、イエス様は、あなたたちが誇っている先祖アブラハムが信じた、主なる神から遣わされたお方であるのに、なぜ信じないのか。アブラハムの子なら、アブラハムが主を信じたように、私イエスを信じるはずだ、それなのに、イエス様を殺そうとしている。
「悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている」、イエス様はユダヤ人たちに申します。アダムとエバを唆した蛇は、その本性から偽りを言って、ふたりを騙しました。そして、未だその支配の中にいて、蛇に象徴される悪魔を父としてユダヤ人たちは生きているとイエス様は仰るのです。それは、真理の言葉、イエス様を信じないからだ。信じられないあなたがたは罪の奴隷のままであり、あなたがたの父は悪魔だ、イエス様は厳しい言葉を続けられます。

しかし、イエス様は、32節で語っておられました。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」と。「あなたたちは真理を知り」は、未来形です。ユダヤ人たちもいつか、イエス様の真理の言葉を知る時が来るのだ。そのことをイエス様は、厳しい言葉の中にも愛をもって語っておられます。「奴隷は家にいつまでもいるわけにいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすればあなたたちは本当に自由になる」(35,16節)、ユダヤ人がいつまでも罪の奴隷のままでいることはない、そのことを語っておられます。神は愛であられるからです。イエス様は、ユダヤ人たちによって十字架への道を歩まれることになりますが、十字架の死の極みでさえ、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と父にご自分を十字架に架けた人々への執り成しを祈り、ユダヤ人たちが自由になることを待っておられます。

神の望みは、すべての人が神に立ち返ること。神の言葉、真理の言葉であるイエス様の言葉を聞いて、いにしえにアブラハムが、主なる神の言葉を聞いて信じたように、自由な意志をもってイエス・キリストを、その救いを信じ、信仰によって、罪赦され、罪赦された者として、真理なるイエス・キリストのもとにしっかりと立ち、与えられている自由を、偽りを言うことや、憎しみ、悪意に用いず、悪魔ではなく、主なる神を父として、神に愛されている者として、神の与えてくださった自由を、神を愛することに先ず用い、神が何を望んでおられるか、イエス・キリストの真理の言葉に絶えず聞き、神の御心は何かを絶えず問いつつ、神を愛し、自分を愛するように隣人を愛することです。
そのように歩む者となることを、イエス様は待っておられます。「子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすればあなたたちは本当に自由になる」のです。いつまでも主は、ユダヤ人がまた、私たちひとりひとりが立ち返り、主のものとなり、罪赦され、自由な者となることを待っておられます。

聖書の語る自由とは、何より罪からの解放です。自由な意志をもって、イエス・キリストを信じ、御言葉に聞きつつ生きる。そこに新しく開かれた神が共にある自由があります。神は私たちを自由な意志を持つ者として、それぞれのあり方を重んじられ、それぞれがそれぞれのままに、神を愛することを第一として、新しい歩みをすることを待っておられます。神が共にある自由、それはこの世の価値観では測ることの出来ない、神の愛の中に生きることであり、聖書の御言葉が実現していく生き方です。

「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」イエス様は言われました。
イエス様の言葉にとどまることは、イエス様の命の中にとどまる、罪赦された自由な人として、イエス様の命のうちにとどまり続ける者とならせていただきたいと願います。そうすることこそがイエス様の弟子であり、そこに自由が、罪からの解放と自由があるのです。 
まことの自由な意志をもって、神の愛を受けた者として、神を第一とし、イエス様の言葉に聞き、御言葉にとどまり、最後まで従う者でありたいと願います。