創世記15:1~6
ヨハネによる福音書8:48~59
今日の御言葉で、7章から続いていた仮庵祭でのイエス様とユダヤ人との論争は終わります。こうしてヨハネによる福音書を読み進んでおりますと、イエス様は如何にユダヤ人たちから憎まれ、殺されるほどの命の危険に常にさらされておられたか、ということが分かります。
イエス様は人に理解されず、憎まれる、という悲しさをとことん経験しておられました。イエス様は、世に於いて、私たち人間が経験する悲しみや口惜しさもすべて経験をされたことを思います。それだから、私たちの悲しみも、口惜しさも、苦しみも、ご自身のものとして分かってくださるのです。
そしてイエス様を理解しようとせず、傷めつけるユダヤ人たちにそれでも真理の言葉を語り続けておられます。イエス様の真理の言葉は、あまりにも無骨なまでにストレートで人間の生活の言葉としては、聴き取り難い言葉と思えます。
またイエス様はどんな時にも優しく穏やかなお方と、私たち願い、思い勝ちですけれど、福音書をくまなく読むことによって、論争する時には、徹底的に論争をされるその姿が読み取れます。こと真理の問題に関して、イエス様は一歩も譲歩なさいません。いい加減な妥協によって偽りの平和を造り出すのではなく、真理を知らせることを通して、人を自由にし、罪と死の縄目から解き放つために、イエス様は徹底的に戦われるお方なのです。
48節以下で、その戦いは非常に激しいものとなっていきます。
ユダヤ人たち―この人たちは31節にあるように、イエス様を一旦は信じた人々でありました。信じてはみたけれど、それは確信に至っていない、本当の悔い改め、信仰には至っていない人々でした。先週の御言葉に於ける論争では、イエス様は「あなたがたの父は悪魔だ」とまで仰いました。
それに対し、ユダヤ人たちは怒りを露にしていきます。「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と。
突然サマリア人という言葉が出てきていますが、サマリア人とユダヤ人いうのは、もともとは同じイスラエル民族でしたけれど、北王国イスラエルがアッシリアによって滅ぼされた後、アッシリアの移民との間の雑婚が進むようになり、民族の純潔を守らない民として、また自分たちの独自の聖所をゲリジム山に設けたことにより、イエス様の時代のユダヤ人たちにとっては、蔑みの対象でありました。
ここでユダヤ人たちがイエス様を「サマリア人」と言っているのは、それはただの「言いがかり」です。イエス様は、しかしご自分が「サマリア人」と言われたことに対しては、反論をなさっていません。イエス様にとってサマリア人は、4章に「サマリアの女」とイエス様の出来事が語られていましたが、サマリア人は、イエス様にとって救われなければならない大切な人々でした。だから、「サマリア人」という蔑みの言いがかりに対しては、イエス様は反論も何の対応もされず、ただ「わたしは悪霊に取りつかれてはいない」と語られ、論争は激しさを増して行きます。
そして51節で、イエス様の言葉に聞こうとしないユダヤ人たちにイエス様は言われます。「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことはない」と。
現実に誰一人死なない人間は居ないのに、不思議な言葉です。「死ぬことはない」と。そして、この言葉は、前の50節「わたしは、自分の栄光を求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる」と言われた、「裁き」という言葉に対する「死ぬことはない」というイエス様の言葉となっていきます。「裁きをなさる方はイエス様の他におられ」そのお方の「裁き」と人間の「死」は直結することが語られています。
しかし、ユダヤ人たちは、イエス様の言葉を重んじません。聞く耳がなく、非常に荒い言葉でイエス様を罵り続けます。「あなたが悪霊に取りつかれていることが今、はっきりした。アブラハムも死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。いったいあなたは自分を何ものだと思っているのか」と。
イエス様は何ものか。それは仮庵祭に於ける論争の中心的な問題でした。そのことのゆえに、この激しい論争は続いているのです。イエス様は、「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである」(7:16)と言われ、主なる神とご自身がひとつであることを語り続けておられます。しかしユダヤ人はそれを理解しない。そして、ユダヤ人の怒りは積み上がって行くのです。
アブラハムとは、ユダヤ人にとって尊敬すべき祖先。ユダヤ人はアブラハムの血統です。その意味で父と呼ぶ偉大な人です。しかし、偉大なアブラハムすら死んだではないか。ユダヤ人たちは、世の人間の「当たり前」をイエス様の言葉に対し、返しています。
そして、ユダヤ人たちとイエス様の対話は全く噛み合わないまま、イエス様は「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」―このことは以前お話しいたしました。出エジプト記3章で主なる神がモーセに初めて顕現された時、名を尋ねたモーセに「わたしはある、わたしはあるというものだ」と仰ったのと同じ意味の言葉―すなわち、「わたしは主なる神である」というご自身が神であるという宣言の言葉でした。ユダヤ人たちは、イエス様がアブラハムの神であるということを宣言されたために、怒りは頂点に達し、「神を冒涜した」と、石を取り上げ、イエス様に投げつけようとしたのです。
この石を投げつけようとした、というのは、例えば子どもが石を怒って投げるというような意味ではありません。8章のはじめに、姦通の現場を押さえられた女性に対し、石を投げるということが語られておりましたが、それと同様、石打の刑、すなわちその場で殺そうとしたのです。
それに対し、イエス様は身を隠して、神殿の境内から出て行かれた、これが今日の御言葉です。
今日は、「わたしの言葉を守るなら」という説教題とさせていただきました。本当は、「わたしの言葉を守るならそその人は決して死ぬことはない」いう題にしたかったのですが、長すぎることと、看板を見た人が恐らくぎょっとするだろうと思い直しまして、「わたしの言葉を守るなら」とさせていただきました。しかし、「わたしの言葉を守るならそその人は決して死ぬことはない」というイエス様の言葉を中心に、「死」と「命」ということ、そして今日の御言葉が語ることを考えてみたいと思いました。
「死」ということ、これは人生の最大の問題でありましょう。私自身、父の死、友人たちの死を経験する中で、死ということを数々思い巡らせています。実は考えない日はない。人は誰しも死にます。そのことは、人間にとって最大の恐れ、恐怖ですらありますし、最大の悲しみでもあります。
そして、神にとっても人間の死と命の問題というのはこの上なく重要なことであるのです。
宗教改革者のマルチン・ルターはヨハネによる福音書3章16節「神はそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。ひとり子を信じる者がひとりも滅びないで永遠の命を得るためである」という御言葉を、聖書のメッセージがひとことで詰まった聖書のミニチュア、「小聖書」と呼びました。
小聖書=聖書のミニチュアと言われたこの短い御言葉には、滅びと永遠の命ということが対になるように語られています。滅びとは死を意味いたします。しかし、この死というのは、私たちのすべてが通らなければならない肉体の死を語っているのではありません。このことは後でお話しいたします。そして、永遠の命、これは永遠なる神ともにある命。さらにひとり子を与えるほどの神の愛。
聖書に凝縮されている重要なメッセージとは、「死」と「命」、そして「ひとり子を与えるほどに―神がわが子を犠牲とするほどに―人間を愛する神の愛。死と命と神の愛、究極的には聖書のメッセージはそこに凝縮されていくということでありましょう。それほどまでに、神にとっても人間の死と永遠の命の問題は大きな問題であるのです。死と命の問題が無ければ、イエス様は世には送られませんでした。
はじめの人、アダムとエバが神ではなく、悪魔に譬えられる蛇の言葉に唆され、蛇の言葉に従った―蛇の言葉を守ったがために、人間には罪が入り込むようになり、罪によって死が入り込んだ、このことを使徒パウロはロマ書5章で次のように語っています。「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです」と。聖書は、人間の神ではなく悪魔の言葉を守った罪が、死、肉体の死を招いたことを語っています。
旧約聖書に於いて、死とは、暗い地下の死者の国、陰府と呼ばれる場所に下ることだと考えられていました。そして自分を覚えていてくれる人の生きているうちは、死者は陰府に於いて生きており、自分を覚えている人が世に居なくなった時、陰府からもいつしか消え去る。死とはそのような滅びとして捉えられていたのです。
イエス・キリストは、世に遣わされた神のひとり子。イエス様はひとりの人として勝手に振る舞い、勝手に世を生きられたのではなく、父なる神の御許から世に送られた、神のひとり子。神が人となられたお方がイエス様です。イエス様はひとりの人間として、自分の世に於ける栄光を求めて生きられたわけではありません。世の人としてひたすら自分の栄光を求めたとしたならば、世の人がそうであるように、自分の地位を世に於いてひたすら高める、人を蹴落としても傷つけても、自分が上り詰めることをするはずです。そのことを、イエス様は宣教のご生涯のはじめ、悪魔の誘惑に遭い、「自分に従えば世の栄光のすべてを与える」と唆されましたが、悪魔の言葉を退け、イエス様はひたすら父なる神の御心を行われました。
父なる神とイエス様はひとつであり、イエス様は父の御心だけを地上に於いて為されるお方だったのです。神の御心とはただひとつ。神は人間を愛しておられ、罪と死の縄目にある人間を救い出すことでありました。そのためにイエス様は世に送られたのです。
イエス様が父なる神によって天の神の御許から世に送られた原因は、父なる神が人間がその罪によって死すべきものとなったことを憐れまれたことに因ります。人間の死を私たちが思うのと同様に、神は非常に重い問題として捉えておられます。
神のひとり子イエス様の世の生涯の終わりは、十字架の死という苦しみでありました。イエス様は、人として生き、人として最も苦しい死に方をなされ、暗い死者の国、陰府に下られたのです。神が人間として生きて、死なれた。神が、神のひとり子が、人間のすべてが経験しなければならない、死、滅びを、その最もむごいあり方に於いて経験されたのです。
しかし、その事が、父なる神がイエス様にお与えになる栄光へと繋がっていきました。イエス様の栄光とは、すべての人間に救いの道を拓かれることになった十字架を指します。イエス様の十字架の死は、すべての人の罪の身代わりの死、罪を滅ぼすための死でありました。十字架こそが、神の御心、罪と死の縄目にある人間を救い出す道であり、救いの道を成し遂げたこと、それこそがイエス様の栄光でありました。イエス様の栄光とは苦しみを受けられ、人間に救いの道を拓くことでありました。そのために、神はイエス様を世に送られたのです。
イエス様は、暗い死の世界、蛆がわき、じめじめした暗黒の死の世界であると語られる陰府に下られた三日後、死を暗闇を、陰府を打ち破り復活されました。人間の罪によって生じた死の暗闇を、神のひとり子が一人の人として死なれ、そこに神のひとり子が落ちていかれ、死の闇、滅びの穴が打ち破られたのです。神にしかお出来にならないことが起こったのです。
陰府は打ち破られ、死は死に終わるのではなく、陰府に落ちた人はそのまま滅びに至るのではなく、イエス・キリストの十字架の死によって、さらに陰府を打ち破り、復活されたキリストと共に、死の暗闇から、滅びの穴から引き上げられる、ただひとつの道が人間に拓かれたのです。
また、先ほど「裁き」と人間の「死」は直結することが50~51節で語られていることを申しあげましたが、新約聖書に於いては、死とは第一の死と第二の死、二つの死が語られるようになります。これはヨハネの黙示録に語られていることですが、第一の死とは、この世の肉体の死。これはすべての人がいつか迎える死。
そして第二の死が「神の裁き」と直結する死。それはいつ起こるのか、神のみがご存知のことですが、イエス・キリストが再び世に来られる終わりの時の最後の審判に於ける死を、第二の死と呼び、また「滅び」と呼んでいます。このことはヨハネの黙示録20章に記されていますが、神はすべての人がこの死から免れることを熱望しておられます。
「神はそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。ひとり子を信じる者がひとりも滅びないで永遠の命を得るためである」
この小聖書と呼ばれる御言葉は、その死に、第二の死に、誰一人陥らないために、神がひとり子イエスを世に送られ、十字架の死を遂げさせ、栄光を与えられ、すべての人を滅びから救う道を拓かれたということが語られている御言葉なのです。そして、今日の御言葉では、イエス様は「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことはない」この御言葉も同様のことを語っています。
「わたしの言葉を守るなら」のこの「守る」という言葉は、原語では見る、保つ、という意味の言葉です。がんじがらめに命令に従わせるというニュアンスではありません。大切にイエス様の言葉を見る。聖書の御言葉が何を語っているのかを「見る」、そしてそれを「保つ」。意思的にイエス様の言葉、聖書の御言葉に立つ、という意味合いが強いと思われます。
さらに「死ぬことはない」という言葉にも、面白いのですが、「見る」というニュアンスが含まれています。「眺める」「注意して観察する」という意味の「見る」なのです。直訳すれば、「死を見ることはない」となります。これは第二の死を「見ることはない」死ぬことはない、という言葉です。第一の死、肉体の死は誰しも訪れる、しかし滅びることはない、第二の死は無く、「わたしの言葉を守るなら、死ぬことはなく、永遠の命に至る」、イエス様がそのように言っておられる言葉なのです。
また、「死を見ることがない」を、第一の死、肉体の死に於いても「死を見ることがない」と理解することも可能という解釈もあります。それは、死を「観察する」死とはどのようなものか拘り闇雲に恐れをもって見ることはない、見る必要はないと理解するのです。
それは、すべての人を死の闇から解き放つことを望まれる神の愛を信じ、イエス・キリストに於いて、永遠の命の保証をいただいている、希望に基づく信仰者の姿でありましょう。
第一の死、誰しも通らなければならない肉体の死。
私たちの救い主イエス様は、その死を、最も苦しい形で迎えられました。イエス様は死の悲しみも苦悩もすべて知っておられます。私たちの死の悲しみや不安や苦しみもすべて、イエス様は知っておられ、私たちの重荷を負ってくださるお方です。ですから、私たちには、死に対して、過剰な恐れは不要でありましょう。イエス様は、私たちの死の苦しみをご存知であられるからです。ご存知であられるということは、私たちを不安と苦しみの中、そのままにはしておかれません。救いがそこにはあります。
神は、ひとり子を世に送られました。すべての人間が、死と滅びから救われ、解放されて、永遠の命へと導かれるためです。
この真理の言葉を信じ、イエス様の言葉を守る、御言葉を保ち、御言葉を生きる、そのような者であり続けたい、そのことを強く願います。