「神の業が現れるために」(2018年7月15日礼拝説教)

出エジプト記34:1~9
ヨハネによる福音書9:1~12

 西日本豪雨による被害の状況はいまだに全容は掴めていないような状況です。被災された方々と地域のために、私たちも心を合わせて祈りたいと願っています。

 今回の水害もそうですが、世の中にはさまざまな困難があります。病気があり、災害があり、死があり、対人関係のもつれ、生活のさまざまな苦しみもあります。
そのようなことが起こる時、私たちの多くは、理不尽な苦しみの中で、過去に目を向けて、自分を責めるということがあるのではないでしょうか。思いがけない事故のようなことであったとしても、あの時、ああいうことをしてしまったから、言ってしまったから、こんなことが天罰のように起こってしまったんじゃないだろうかと、その起こった原因を、過去の自分の何らかの罪責の思いに重ね合わせて自分を責める、私たちはなかなかそのような因果応報の考え方から抜け出せない者であることを感じるものです。
 何だか弁明になってしまいそうなのですが、私自身、牧師として説教の準備をする時というのは、絶えず自分の罪と向き合わされる作業であることを思っています。御言葉自体に、自分の罪を見つけて苦しむことがあり、また、説教をなかなか纏めることが出来ず苦しむ時もあって、時間との戦いの中で、御言葉との向き合い方、神への敬虔と祈りが足りなかったのではないかとか、自分のあり方を、因果応報的に責めつつ、神の憐れみによって働かせていただいていることを忘れて仕事をする時間があります。しかし、今日の御言葉の3節「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人の上に現れるためである」という御言葉を読むと、「ほっ」とします。因果応報ということはイエス様の前に無く、自分で自分の足りなさを自分で責めるのではなく、すべての過ちと思えることを通しても、神の御業は現れるのだ、未来は拓かれるのだとその時の自分に対して読めてしまい、もう一度、奮い立たせたりするのです。
そんな調子で説教を作っていて、最初に自分がこれを言いたい!と思って時間を掛けて丁寧に作っていた文章は、最後には全部削除してしまっている、というパターンが、私の場合非常に多いのです。御言葉の前に、自分のアイデアとかちょっと得意気に語ってみたいことなど、最後に打ち砕かれてしまうのです。そして、残るのは、御言葉の前に、もろくも崩れ去った自我と、神の憐れみと赦しの前にひれ伏すのみ。そんなことを続けています。

 さてイエス様を信じず、自分こそが正しいと信じて神を侮る人々から殺そうとまで狙う人々から「身を隠し」=見えなくされ、神殿の境内から出て行かれたイエス様は、エルサレムの近辺を歩いておられる時、「生まれつき目の見えない人を見かけられ」ました。「身を隠され」たイエス様が、その姿を表され、また「見かけられた」、目に留められたのは、生まれつき目の見えない人でありました。
「目の見えない人」とその視力の回復を、聖書は大きなメッセージとして語っています。ルカによる福音書4章で、イエス様が宣教のご生涯を始められた最初の故郷ナザレの会堂で、巻物を開き読まれたイザヤ書の御言葉は、イエス様の使命を象徴的に語っています。お読みいたします。「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるからである」(4:19b)今日の御言葉は、その象徴的な出来事が起こる時です。

生まれつき目が見えず、この人は物乞いをするしかない人でした―いえ、ひとり物乞いをするしかなかったこの人には両親が居たことが、この後の御言葉で明らかになりますが、両親はこの目の見えない息子に物乞いをさせていたということは、この息子の病気を利用して、息子に物乞いをさせたお金を自分たちの生活の糧にしていたとも考えられます。両親から労わられてはいない人だったことは確かでしょう。
律法には、今日お読みいたしました「父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者」という言葉がありますように、災い、病気というものは、両親や先祖、また本人の犯した罪の結果だと、当時一般に信じられておりました。その意味で、両親にとっては自分たちの罪の故に息子が目が見えないと言われているように疎ましさすらあったのではないでしょうか。
親からの愛を十分に受けることなく、ただ毎日道端に座っていることしか出来ないこの人に、イエス様は目を留められました。イエス様の目は、人間の孤独、悲しみ、傷みに殊更に向けられるのです。
 そのようなイエス様に、弟子たちは尋ねます。
「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」
 この人が居るのにあたかも居ないように語られる労わりのかけらもない残酷な言葉であったに違いないと思えるのですが、この弟子たちの問いかけというのは、この人にとって非常に辛い、自分自身の根源的な存在の問いでもあったに違いありません。
 創世記のエサウとヤコブという双子の兄弟の誕生の物語の中に、ふたりがお腹の中に居る時に、弟のヤコブがエサウを出し抜こうと足を引っ張ったということが記されてありますが、そのことから、胎児さえも罪を犯し得ると当時のユダヤ教では考える人がいたそうです。
 この生まれつき目の見えない人は、子どもの頃から、そのような心ない言葉を絶えず投げかけられ、また自分自身も胎児の頃から何か罪を犯したのかもしれない、など、絶えず自分を責め続けていたのではないでしょうか。先祖の罪、両親の罪、また自分の罪の故に、目が見えないのだ、自分という存在は、両親から見ても、周囲の誰から見ても、何より神から否定される存在として、また自分自身も自己否定をしたまま生きていたに違いありません。

 その人にイエス様は姿を表され、その人を見られました。イエス様の心は人間が普通考える思いとは全く違うのです。旧約聖書は神の言葉でありますが、イエス・キリストという完全な救いの現れる前の書物で、救いに於いても未完成なままの書物です。イエス様は、旧約聖書の世界観を乗り越えておられます。
 イエス様は言われました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と。
イエス様の言葉は、この人の存在そのものを、目が見えないという病も、そのまま肯定しておられます。そして、この人が「生まれつき目が見えない」という病は、「神の業がこの人に現れるためである」と、目が見えないというこの人の苦しみ、障害は、神のご計画のうちにあり、神のご計画のうちにあるその意味は、未来に於いて明らかにされることを語られるのです。因果応報などはない。イエス様はここではっきりと語っておられます。

さらに言われます。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことの出来ない夜が来る。わたしは世にいる間、世の光である」と。
イエス様の居られる時、それは世に於いては「昼」であり、イエス様は世の光として昼の光として世に来られ、ひとり、そしてひとりと、主の憐れみのうちに、ご自身のもとに、ご自身の光のもとに招き入れておられる。イエスさまが世に居られる時、それはそこに神の国が前触れとして到来している光の中にある特別な時です。その間にイエス様は、イエス様をお遣わしになったかたの業を、救いの御業を、囚われ人の解放、目の見えない人へ光を与える業を、徹底的に、出来うる限り行わねばならない。イエス様は、救いへと導くために世に送られたのです。4節では「わたしたちは」と複数で語られておりますので、弟子たちにもその業に参与することを告げておられるのでしょう。またこのことばは後の時代の教会に対しての言葉でもあります。教会の使命は、イエス・キリストの救いをひたすら宣べ伝えることに他なりません。

そう語られた後イエスさまがなさったことは、地面に唾をし、唾で土を捏ねてその人の目にお塗りになったというのです。
主なる神は、人間を創造する時、「土の塵」で、人間を造られたということが、創世記の2章で語られています。イエスさまがここでなさった「唾で土を捏ねた」というのは、神の新しい創造、再生を表しているのではないでしょうか。唾というのは、子どもの頃など、転んで怪我をしたら、取り敢えず、自分の唾をつけてみたりする、癒しのイメージがあります。そのことと関連するのかは不明ですが、とにかくイエス様は、神が人間の創造の時になさったように、土を捏ねられたのです。イエス様の憐れみによって、新しく造りかえられる、これは私たちひとりひとりも、イエス・キリストを信じる信仰によって、癒され、新しく造りかえられることになる、そのことの予兆とも言えましょう。
そして、それを目の見えない人の目につけ、命じられました。
「シロアム―『遣わされた者』という意味―の池に行って洗いなさい」と。これはイエス様の命令の言葉でした。この人は、イエス様の言葉に従った。目に泥を塗られた。人間の目から見れば、変な行動です。しかし、この人は、イエス様の言葉に従いました。すると、この人の目は、見えるようになったのです。奇跡が起こったのです。

 この人は見えるようになりました。しかし、見えるようになったこの人の前には、イエス様はおられません。目の見えるようになったこの人の前には、近所の人々や、彼が物乞いであったことを知っている人たちの驚きの目線と、ファリサイ派の人々の訝しげな目。世の雑然としたものがまず目に入ってきたと言えます。そして目が見えるようになったこの人は、来週読みますが、この後、さまざまな人間の思惑の中、ファリサイ派の人々との論争に巻き込まれてゆきます。そして、論争の中で、「イエス様とは誰か」ということに徐々に「目が開かれて」いき、再来週お話しする予定の35節で、この人は初めて、その目でイエス様を「見る」ことになります。
 そして、この人はイエス様を「見て」、「主よ、信じます」と信仰の告白に至るのです。
   
 ここまで今日の御言葉を読んで参りましたが、改めて「神の業があらわされる」とは何でしょうか。目の見えない人が、目が見えるようになる、病は罪の結果ではない。それはイエス様の言われるとおりです。
ここでは癒しの奇跡が「神の業」と語られているのでしょうか。若しくはその奇跡をもって、神がほめたたえられるということなのでしょうか。また、目の見えない苦しみを通して、「神の業」がその人の上に顕されて、その人を神の証人として用いられるということなのでしょうか。
私は3節のこの御言葉だけに目を向けて読んでいた時、実は、漠然と人間的な希望的な観測も踏まえて病を通して「神の証し人として用いられる」そのことがそのまま起こる、そのように捉えていました。確かにそうなる場合がある。自分自身のあるがままを受け入れ、そこから新しい希望を持って生きる時、素晴らしい神を証しする人となられる方が多くおられることを知っています。それは素晴らしい「神の業」です。しかし、ここで語られていることは、そのように開かれて行く未来の前に、何より大切なことは、この目の見えない人が、見えるようになる、この人自身がただイエス様をまことに信じる人になる、そのための癒しの業ということであるということに、私自身が目を開かれました。何よりも信仰が第一なのです。
この人は、この先の9章38節で「主よ、信じます」と信仰を告白しています。「信じる」ということ、ただそのことだけが、どれほど聖書全体を通して語られる「神の業」であるのか、ということを思うのです。人間の誉れのようなものは、そこにはこれっぽっちも入る隙はない。
 6章29節には、「神がお遣わしになった方を信じること、それが神の業である」というイエス様の言葉がありました。「信じること、信仰がその人の内に確かな事として顕されることこそが、神の業」なのです。
 
 ヘブライ人への手紙に、「信仰」についての言葉があります。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(11:1)。
 信仰とは、過去に、過去の自分に囚われるものではありません。「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」です。信仰とは、過去ではなく、私たちの未来に関わることです。私たちの過去の罪は、イエス・キリストに於いて、悔い改めによって帳消しにされています。
 この人は、生まれた時から目が見えず、侮られ、苦しんできました。しかし、この人の前にイエスさまが現れ、因果応報を否定された。この人にとって、目が見えないことは、イエス様を主と信じる=信仰という神の御業が顕されるためであるということがイエス様の口から明らかにされました。
 イエス様の憐れみの中で、イエス様に捏ねられた土を目に塗られ、それをシロアムの池で洗ったこの人―土を捏ねることは、神の創造の業を表し、水は聖霊を表します―は、新しくイエス様によって造り変えられ、目が開き、また信仰という神の業があらわされ、新しい未来が築かれて行く礎が築かれたのです。
この人のみならず、イエス様に出会った人には、過去は問題にはならない。罪を悔い改めたならば、イエス・キリストによる新しい創造、新しい命によって、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する、新しい希望を、未来を見据えて歩む者とされるのです。
その上で、主の素晴らしい証人として歩まれる方が起こされてゆくのです。その前に、何よりも、「神をお遣わしになった方を信じること。それが神の業」なのです。

世の苦しみ、病気、それらが何故起こるのか、すべての理由は分かりません。過去を見据えて悔い改めるということは何より大切なことですが、しかし、少なくとも、私たちは過去に目を向けて、因果応報的に自分を責め続けるということがあってはならないでしょう。また当たり前ながら、因果応報的な言葉を人に投げかけることなどあってはならない。

 私たち人間は、この世の視点ですべてのものごとを諮ろうと致します。しかし、私たちをお造りになられた主なる神にとって、何よりも起こされなければならない神の御業は、すべての人に「信仰」という神の業が起こされることです。それぞれの身体的な悩み、健康の悩み、環境の悩み、違ったものをそれぞれが持っている。しかし、イエス・キリストにあって、イエス・キリストに出会う前に持っていたもの―この人にとっては生まれながら目が見えなかった―それらは古きものなのです。イエス・キリストに出会った私たちに、イエス様は新しく土を捏ねて、古きものに、新しい創造をしてくださいます。
 イエス・キリストに出会うことによって、信仰によって開かれる未来があります。悔い改めた罪は帳消しにされ、過去の傷、痛み、イエス様はそれらのすべてを、この目の見えない人のすべてを肯定され、癒され新しく生きることに促されたように、信仰によって新しい御業が起こされるのです。過去の傷みは、神の憐れみと信仰によって、新しい未来へと変えられて行きます。
 信仰を持ち、希望を持って新しく歩む時、私たちの上にも「神の業が現される」この見えない事実を確認しつつ、キリストにあって新しくされた生を、キリストと共に、雄々しく生き抜くものでありたいと願います。
 そして、それぞれが主の素晴らしさだけに、額づき、主の憐みのうちに生かされていることを、絶えず味わいつつ、歩む者であらせていただきたいと願います。