イザヤ書35:5~6
ヨハネによる福音書9:13~34
ヨハネによる福音書の書かれた年代は遅く、紀元90年前後であろうということが通説です。イエス様の地上での宣教の3年間というのは、紀元30年頃と考えられますので、この福音書は、イエス様の十字架と復活の出来事が起こってから約60年後に書かれたということになりましょう。
60年という歳月と言いますと、2000年前のパレスチナでは、ひとりの人の平均寿命をすっかり超えている年月であり、イエス様の十字架と復活の証人たちは殆ど亡くなっており、時代は移り変わっている。そのような中で、主の言葉を語り継ぎつつ、イエス様のご生涯の出来事と、著者のヨハネと、ヨハネの属していた教会共同体の置かれている当時の問題を重ね合わせつつ、紀元90年頃の、共に生きる共同体に対して、特別に語らなければならない強いメッセージを込めて、ヨハネによる福音書は書かれたと言われています。
お読みしたなかの22節「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」と語られているのですが、イエス様とユダヤ人たちとの軋轢は深まっていき、イエス様は十字架へと歩まれる訳ですが、歴史的検証から、ユダヤ人の会堂からイエスさまをメシアとすると公に言い表す人々が追放され始めたと言われるのは、イエス様が十字架に架けられてから約30年後、紀元62年頃からだと言われています。
そしてイエス様の時代というのは、まだイエス様と従う人々を「会堂を追放する」というところまでは及んでいなかったようなのです。イエス・キリストを信じる信仰というのは、そのはじめからユダヤ教から始まり、はじめはユダヤ教の一派と見做されていたのです。
この22節の御言葉、そしてその前後の今日の御言葉は、イエス様が登場されず、またまどろっこしい人間の悪意にただ満たされているように見える箇所なのですが、実は、ヨハネによる福音書が書かれた時代の人々にとって、また後の時代、今の私たちに対しても、大切なメッセージを織り込みつつ書かれていると言えます。福音書というのは、イエス様の「伝記」にとどまるものではありません。
会堂を追放されたとしても、それでもイエス・キリストを信じる信仰にしっかりと踏みとどまり、受けた恵み、信仰をはっきり告白しつつ、キリストにあって愛し合う共同体であれという強いメッセージが秘められていることが、この福音書の特徴だということを、今日の御言葉から片隅に憶えていていただければと思います。
イエス様は、生まれつき目が見えなかった人を見掛けられた時、「この人が目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか」という弟子たちの心無い問いに対し、「神の業がこの人に現れるためである」と、目が見えないというこの人の苦しみ、障害は、罪による因果応報ではなく、神のご計画のうちにあるのであり、その意味は、「神の業が現れるため」、目が見えなかった人の未来に於いて「神の御業が現れるため」に用いられる病、障害であるのだということを告げられました。そして何よりも現されなければならない「神の業」とは、究極的に信仰である、ということを、先週はお話しさせていただきました。
脇道に逸れるようですが、先週、劇団四季の浅利慶太さんという演出家が亡くなったことをニュースで知りました。私はかつて劇団四季に6年程在籍しておりましたが、浅利さんという方は、私にとっては世界で一番恐い人でした。教えられたことは、舞台の華やかさとは正反対の、台詞に於いては一音一音を正確に発声すること、歌を歌うときには、やはり一音一音を、リズムも共にまず正確に押さえること、感情の高ぶりに左右されない、徹底的に体から作るメソッドでした。しかし、私は子どもっぽく、いらぬ雑念が多かったのだと思うのです。それらをしっかりと受けとめきることが出来ず、苦しみました。そこで教えられたことは、私は今でもとても素晴らしいことだったと思っています。しかし、受け止める側の私が、音の一点、声の一点よりも、この世の欲、人からの評価などに目を向け続けることがあり、そのような要らぬ思いは自分をあらゆる点で成長することを阻むことになりました。結局大したことなど何も出来ないままに退団したことは、挫折と思える時となりました。
しかし辞めた後も、その時代に、消化しきれなかったことは、自分の姿勢として足りないものとして絶えず心にあり、形は変えていますが、生きる姿勢としてずっと問い続けて今がある、あそこに居ることがなければ一生分からなかったことのではないかと思いました。
そして何よりも、私自身はその時代の自分の過ち、いらぬ雑念、弱さを通して、自分の罪を知り、悔いながら闇の中に蹲って苦しんでいた時、闇を貫く光としてイエス・キリストに出会わせていただき、イエス・キリストを信じる信仰へと導かれたのだということを思いました。イエス・キリストに出会うということは、世の価値観とは間逆の神の真実を見せていただくことでした。私は徐々に世の雑念から、神の真理へと、目が開かれていきました。
そして、劇団に居た時の失敗は、反面教師のように信仰を成長させるための大きな糧となったとも思いました。神の愛、「神の業」が、私自身の過去の心の傷、人間的な目にはマイナスと思えたことを用いて、現された。この救いは何に代えても私が得なければならない救いであったのだということを、改めて思い巡らす時となった報せでありました。
さて今日の御言葉は、その続きです。
この人は、イエス様の言葉に従いシロアムの池に行き、イエス様が唾で土をこねてその人の目にお塗りになった土を洗いますと、目が見えるようになりました。そして、家に帰って来ますと、近所の人々や彼が物乞いであったことを知っている人たちは、まさに「目を疑った」のでありましょう。驚く人々にこの人がありのままを伝えましたところ、人々はファリサイ派の人々のところにこの人を連れて行ったのです。その御業に驚き、信仰に「目が開かれる」のではなく、その日は安息日でありましたので、「安息日違反」の罪を暴くために、この人をファリサイ派の人々の前に連れて行ったとういう訳です。まさに、「監視社会」です。
ユダヤ教の安息日に対する細則によれば、この目の見えない人を癒したというこの行為そのものが、「仕事」であり、もっと細かく申しますと、「唾を吐く」ということも労働と捉えられており、土を捏ねることは左官屋の仕事であり、それを盲人のまぶたに塗るということは、壁塗り職人の仕事と見做されるのだそうです。ですから、ここでイエス様は、癒す、唾を吐く、土を捏ねる、塗るという4つの労働を安息日にした、という言いがかりをつけられることになったのです。
それにしても誰が見ても驚くべき出来事でした。ファリサイ派の人々の間でも、この出来事に対して議論は分かれました。ある人々は、「その人=イエス様は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と、神の律法を守らない者が神からの者であるはずがないと言い、また「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と、イエスという人にはもしかしたら、罪がない神からの者ではないのか、と言う人もいたのです。
旧約聖書には、例えば詩編66:18「わたしが心に悪事を見ているなら、主は聞いてくださらないでしょう」のように、罪ある者の願いを主なる神はきいてはくださらないという類のことがいくつか記されています。目の見えなかった人が見えるようになる、そのような業を行えるということは、そのことこそが、神から遣わされた義人のしるしであると思われていました。頑ななユダヤ人たちの中にも、この出来事に驚き心を動かされた人が居たということでしょう。
しかし当時のユダヤ人たち、特に宗教的権威者であったファリサイ派の人々は、イエス様を神から遣わされたメシア、救い主として何としても認めることが出来ません。認めることは、彼らの存在価値を否定することだからです。そこで、彼らは盲人に起こったことをなかったことにしようとする。そこで論争が起こる。それが今日の御言葉です。
まず人々は、イエス様によって目が見えるようにしていただいた人に、「お前はあの人をどう思うのか」と問います。この言葉の背後には、「イエスをメシアと認める発言をするなら、ただごとではないぞ」という意味が込められています。
すると、この人は「あの方は預言者です」と語ります。目の見えなかった自分が見えるようになった、その事実は、あまりにも大きく、この人の口、言葉は、ためらいを無くしています。脅しに屈していない。しかし、この時点でこの人が答えているのは「救い主」ではなく「預言者」です。この人は、自分が「救い主」に出会ったとはこの時点でまだはっきりとは認識してはおりません。
そこで、ユダヤ人たちは、目の見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねます。ここでも「イエスをメシアだと言うならただ事ではないぞ」という悪意が滲み出ています。
ここから、新共同訳で17行、かなり長い言葉を通して、一見あまり必要とは思えない両親とのやりとりが語られているように思えてしまうのですが、この人を物乞いとして日中はずっと外に座らせていた両親です。両親は、この人が確かに自分たちの息子であること、生まれつき目が見えなかったことは認めました。目の見えなかった息子が見えるようになった、こんな嬉しいことは無い筈なのですが、しかし、この両親の態度や言葉から喜びは感じられません。「だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう」と、曖昧に、自分たちには責任が被されない答え方しかいたしません。それは、両親はこの時、ユダヤ人たちがイエスをメシア=救い主であると公に言い表す者がいれば、会堂を追放すると決めていたので、両親はユダヤ人を恐れて、自分たちに、言葉の責任が被せられないように、言い逃れをしているからであると福音書は告げます。
ここで両親は「もう大人ですから」という言葉を語っています。「自分のことは自分で話すでしょう」と。この両親の言葉は、自分たちが会堂から追い出され、ユダヤ人たちから村八分にされることを恐れての言葉です。しかし、真実を語っている言葉ではあります。人は、自分自身のことは、他人任せではなく、自分の心で考え、吟味し、また自分の言葉には自分で責任を持たなければなりません。「大人である」ということは、そのように自立した心と責任ある言葉を持つことでありましょう。そして確かにこの目の開けられた人は、これから責任をもって自らの言葉で、心からの証言をしていきます。
しかしながら、「もう大人ですから」と語っている両親は、心で吟味することも、自分の言葉に責任を持つこともしておりません。むしろ「ずるい大人」という、真理から目を背け、物事を穏便に済ませようとする曖昧な性質が表されており、この両親というのは、ここでヨハネが語らんとする、信仰者の「悪い見本」と言えましょう。
そもそも信仰を持つそのはじめ、教会員になる、この信仰共同体の一員となるためには、信仰を自ら告白することがまず求められます。洗礼は、親や他人に強制されるものではなく、自らの信仰によって信仰の誓約を言葉にし、水による洗いを受けます。さらに礼拝では、毎週「信仰告白」を自分の口で唱えます。信仰生活というのは、ただ一度の洗礼ですべてが完成するのではなく、その後、毎週の礼拝を通して、神を賛美し、祈り、信仰の告白を口にしながら歩むものです。絶えず繰り返すことにより、神との交わりは強く結び合わされ、信仰生活は深まり、私たちの信仰は成長し、洗礼という入り口から入った新しい命は、実を結んで行きます。信仰とは告白を通して成長するものであるのです。
さらにユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出し言うのです。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ」。しかし、この人たちの「罪ある人間だと知っている」という根拠はありません。高慢な自分の正しさから来る思い込みの言葉でありましょう。
それに対し、盲人であった人は率直です。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」。
この人の言葉は、人の目を気にするなど、無駄な雑念はありません。目が開かれた、ただひとつの真実を見つめています。目が見えなかった。暗闇にずっと居た人が、光を得たのです。
9:5でイエス様は、「わたしは、世にいる間、世の光である」と言われました。そして、唾でこねた土を、この人の目に塗られた。これは神が人間を新しく形づくられた出来事であり、暗闇に光が与えられた、神の大いなる御業が顕された、象徴的な出来事でありました。この人の上に神の御業が現されたのです。それは畏れとおののきと、計り知れない喜びは、この人を、自分の言葉で真理を告白することから離れさせることはありません。
この人は、神の御業の御前に、身の上に起こったことを語る以外になかったのです。信仰とは、受けた恵みを証しすることでもあります。仮令、周囲の人が「神などいない」と神をののしったとしても、救われた確信のもと、堂々と信仰を告白することが、私たちにも求められていると言えましょう。
さらにユダヤ人たちは、しつこくこの人に問いますので、目の見えなかった人も、いらだちと呆れを隠し切れなくなっていきます。26節から29節のユダヤ人たちの言葉の応酬は、言いがかり以上のことは感じられません。
しかし、目の見えなかった人は、言いがかりのような論争の中で、ただひとつのこと、「目の見えなかったわたしが、今は見える」ということから、真実から片時も目を背けることはありませんでした。見えなかったものが見えるようになったのですから。この人は、証しをせずにはいられないのです。そして論争を通じてこの人は、真理に目を開かれて行きます。そして堂々と語るのです。「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」と。
ひるむことのない、信仰告白です。ユダヤ人たちからの追放に恐れることなく、この目の見えるようになった人の目は、ただ真理にのみ目が向けられている。これはすべての信仰者に求められている、生きる姿勢でありましょう。
ヨハネはこの御言葉の中で、イエスをメシアであると告白することから離れるな、ひるむな、ということを告げているのです。それは今の時代の私たちにも告げられている言葉です。
私たちは、それぞれ、時を得て、イエス・キリストの出会い、招かれ、ここに集っています。おひとりおひとりにとって、イエス・キリストに出会った出来事とは、闇を光に変える、その存在の根底から変えられる、世の価値観はひっくり返るような出来事であったではないでしょうか。
私たちは、その恵みの光を曇らせることなく、信仰の確信を固く保ち、さらに絶えず開かれた目で、真理に目を向け続け、世にあってはさまざまな人のお思惑はありますが、世の悪賢い知恵に振り回されず、御言葉に立ち、語るべき時には大胆に語る主の証人として生涯を歩みとおせる者でありたいと願うものです。
信仰の喜びは、人を強くし、人を自立した心を持つまことの大人にするのです。