「イエスは良い羊飼い」(2018年8月19日礼拝説教)

エゼキエル書34:11~16
ヨハネによる福音書10:11~21

 この8月は、平和聖日にお母様の被爆体験を樋口恵子さんからうかがったこともあり、殊更に先の戦争のことについて思い巡らす夏になっています。私自身は一昨年の夏には広島に行き、この春は長崎に行き、いずれも原爆資料館に足を運びました。先の戦争とは違いますが、長崎は迫害による壮絶なまでのキリスト教徒の殉教の姿に思いを馳せる旅でもありました。そしていずれも、それらの背後にある社会の状況、人の心の罪を思いました。
戦争の背後にも、迫害と殉教の背後にも、どこを切り取っても、人間の権力への欲望、他者の苦しみに対する無関心、冷酷非情さ、命の軽視、罪の擦り付け合い、責任転嫁が、驚くほどあることを思います。そして、多くの人々が言葉に出来ないほどの無残な死に方をされている。そんな歴史を、人間社会というのは、知り得る限り、数千年も前から、絶えず繰り返し続けているということを、知れば知るほど思わされ、戦争が、戦争が引き起こす悲惨さが絶えることの無い世であることを思い、私たちの生かされているこの世というのは、一体何なのだろう?と考え込んでしまいました。
 神は世で起こるすべての悲惨も悲しみも知っておられます。この世は、罪によって神から引き離されている世なのだということを改めて思い巡らし、聖書が語っているこのことは、単に「聖書がこう語っている」ということではなく、牧師の私が今更言うのもおかしなことですが、真実に、世は人間の罪にまみれ、罪の背後には「この世の主」、悪しき力―サタン―がうごめき、人間を神から引き離したままにしようとしている、いえ、もっともっと人間を苦しめようとする力が働いている世なのだということを思ったのです。
神の目にはこのことは、私たち人間が認識することを遥かに超えて明らかであり、罪の世にあって、苦しみ続ける人間の悲惨さに、神は目を背けることはお出来にならず、その中にある人間を何としても救おうとされ、遂に神の御子を世に遣わされたことを、神が高き天より、低き罪の世に降りてこられたのだということをつくづく思いながら、この夏を過ごしています。
 そして、降りて来られたそのお方は、私たちを「一匹の羊」として、そのお方が羊を飼う「良い羊飼い」として、世に来られた。そのことを、今日の御言葉は語っているのです。

 私は25歳の頃、当時住んでいた家の窓から教会の十字架が見えることに気づき、「教会に行こう」と思ったのが信仰を持つようになったきっかけですが、その時、幼稚園の頃、大好きだった子ども讃美歌「ちいさいひつじ」を張り切って歌っていた自分を思い出しました。そして、その時は自己評価が本当に低くて、憔悴していましたが、自分に豊かな少女時代があったことを思い起こし、包まれていた愛があったことを思い起こし、冷え切っていた心に灯りが灯った気がいたしました。
 教会に行き始めて、ルカによる福音書15章の「見失った羊のたとえ」を知った時、この失われた羊は、私自身のことだったと思いました。私は、子どもの頃、イエス様の羊の囲いの中に居た子どもだったけれど、大人になるにつれて、イエス様を忘れてしまって自分勝手に、私が私がと、綻びばかりの、小さな自分の中でがんじがらめになって生きていた。自分のことばかり考えながら、神様を忘れて歩いていく先には道が無かった。真っ暗なところに「行き止まり」の札があり、私はその札の前で、蹲って泣いていた。その時、背中から明るい光が差し込んできて、振り向くと、光に照らされた道があり、私は体の方向を変えて、光のある道を歩き始めた―それが、私が悔い改めて、イエス・キリストを信じる信仰の道を歩き始めた時の、セルフイメージなのですが、そのセルフイメージが、羊飼いと羊の関係に重なり合い、羊というと、恥ずかしくなるほど、「私のこと」という意識があります。

 さて聖書の世界には、たくさんの動物が出てきます。『聖書動物大辞典』という本がありまして、そこに数え上げられている動物を数えてみますと、150種類近くの動物、爬虫類なども含めて聖書には登場していることが分かりました。その数ある動物の中から人間は「羊」と言われているのです。猿も狸も聖書には出てきますが、「羊」なのですね。
羊という動物について、先週は、自分では身づくろいなど自分の手入れをすることが出来ず、頼りなく、また頑固な面があり、興奮すると走り去り、帰り道が分からなくなる、そんな動物だということをお話しいたしました。
 でも、良いところもたくさんあります。巻き毛で覆われた丸い体は、見るだけで愛おしさを思わせる可愛さです。人の心の内側をご覧になる神様にとっては、私たちがたとえ世で歳を取ろうと、本当に愛おしい可愛い、いたいけな存在と思ってくださっているのでしょう。
 また、羊の驚くべきところは、自分を与える動物であるということです。羊の毛は、私たちの温かいセーターやコートになります。役に立つのです。ですから、毛が伸びると刈られてしまう。その繰り返しがあるようですが、大人しく毛を刈ることが出来るということは、従順であり、また毛を刈られる、自らを与え続けるということを赦し続けるのですから、羊飼いを信頼しきっており、忍耐強い性質とも言えましょう。
 先週お話しした羊の情けない様子は、神から見て放ってはおけない人間の情けなさであり、今お話しをした羊の性質というのは、情けなく、頼りない人間に、神が望まれる、神と人間とののあるべき姿なのではないでしょうか。

 また現在、パレスチナには自然に生息はしていないそうですが、その昔には、イエス様がここで語っておられますが狼、またライオンも居たのだそうです。イザヤ書31章4節には、羊飼いたちがライオンに対し、大勢で大声を上げて威嚇する姿が語られています。
そのような獰猛な動物が多く、弱い動物には危険の多いパレスチナにあって、羊は人々にとっての重要な財産でした。イエス様の誕生が語られているルカによる福音書2章では、羊飼いたちが、夜通し羊の群の番をしていることが語られていました。財産である、大切な羊を夜、狼やライオンなどの獰猛な動物から守るために、夜通し羊飼いたちが働いていたことを、福音書は語っています。
 良い羊飼いは、周囲の獰猛な動物から羊の命を救うために自ら命を賭けて戦う―これが、イエス様の語られる良い羊飼いの姿です。それは、自分の大切な所有の存在であるから。―羊飼いはイエス様、羊は私たち。私たちは、イエス様のものなのです―でも自分の所有ではない、雇い人が羊の群を守っているならば、狼が来れば、自分の命のほうが大切ですから、逃げてしまう。羊を守ることが、ただの仕事であれば、当たり前と言えば、当たり前の人間の姿でしょう。しかし、羊飼いと羊の関係は、そんな殺伐とした利害関係に於けるものではないのです。
 良い羊飼いは自分の羊を知っており、羊も羊飼いを知っている。そこには、ただの所有物と飼い主の関係にとどまらない、愛の交わりがあります。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」と、羊飼いであるイエス様と、私たちひとりひとりの関係は、父なる神と、子なるキリスト、三位一体の神と呼ばれるお方のうちの、ふたつの位格であられる、父と子の関係―イエス様はヨハネによる福音書で何度も何度も「わたしと父はひとつである」と語っておられる、その関係であると仰るのです。驚くべきことです。父なる神、子なるキリスト=親子の関係が私たちとイエス様の関係だと仰るのですから。

 神、イエス様は、私たちの目で今見ることは出来ませんし、触れることも出来ません。ですから、なかなか、神にそれほどまでに愛されていることを実感出来ないでいる私たちかも知れませんが、今、改めて、神は私の親のように私を愛し、絶えず心配してくれている、そのことを心に確かめてご覧になってください。この悲しみの多い世にあって、どんな時にも、ひとりではない確信と、どうしてよいのか不安に打ちひしがれているときでも、ふと心を神に向けたならば、そこに新しい光が、道があることに気づくことでしょう。計り知れない大きな愛に、今、私たちはイエス様を信じる信仰によって、既に包まれているのです。

 そして、この中に、まだイエス様を救い主と信じるところまで、信仰を告白することにまで至っていない方がおられたならば、16節「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける」と語られている一人として数えられているに違いありません。イエス様は、今、羊飼いとして、その方を、御自分の羊の囲いに迎え入れて、御自分のものとして、大切に養い、ご自身の命まで与えて、まことの救いに導こうとしておられます。

 また、私たちを「知っている」というのですから、私たちの良い所も欠点も、どうしようもない部分も、イエス様は知っておられます。
 少し先、ヨハネ13章は、イエス様の十字架の前の晩、最後の晩餐の出来事が語られていますが、1節には「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを覚り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と語られています。そして、ひとりひとりの足をイエス様はその手で洗われました。
その直後、ペトロをはじめ弟子たちは皆、イエス様を裏切って逃げてしまうのですが、イエス様は、皆が裏切ることを知っていながら、そのような弱さを持っていることをご存知でありながら、それでも尚、いえ、そうであるからこそ「愛し抜かれた」のでありましょう。そして、ご自身が去られた後の弟子たちに対し、足を洗うことを通して、「互いに愛し合う」という、イエス・キリストを中心とした共同体に対し、自ら模範を自ら示されました。
 イエス様にとって、世の弟子たちは、ご自身に一番近い、羊たちでした。大切な羊たちであるけれど、羊はとにかく弱いのです。口では「御一緒なら、牢に入って死んでもよいと覚悟しております」(ルカ22:34)などと言いながらも、いざとなったら驚いて一目散に逃げてしまうのです。
ペトロは、裏切った自分に対し、大泣きに泣きました。自分が口だけが立派で、いざとなると思ってもみなかったような弱さをさらけ出して逃げてしまうような人間であったことに、どれだけ自分を責めても責めてもやりきれない思いだったことに違いありません。
 しかし、逃げなければ、この時ペトロも十字架に架けられて、悲惨なむごたらしい死に方をすることになったことでしょう。
羊飼いであられるイエス様は、羊の弱さをとことん知っておられます。イエス様は、人間の罪が引き起こす世の悲惨さ、痛み、苦痛、辱め、人間の経験し得る死の苦しみのすべてを狂おしいほど憐れまれ、自分の羊に代わって、おひとりで受けられたのです。人間の長い歴史の中の、人間の受けた悲しみ、悲惨さ、苦痛、痛みのすべてを神の御子ご自身が、すべて引き受けられ、死なれたのです。
「わたしは羊のために命を捨てる」イエス様は言われました。
 羊は、犠牲のささげものとして献げられる動物でもありました。旧約の時代は、数知れない羊たちが、人間の罪の贖いのために、祭壇の上で血を流し、焼かれ、死んで行きました。そんな数知れない羊たちにも代わって、イエス様は死なれました。もう、お前たちは苦しまなくていい、私が苦しむからと。イエス様は、自らの人間としての命を捨てて、弟子たちを、そして愛するご自身の羊たちを守られたのです。

 イエス様は、人となられ、十字架という人として最も惨い死に方によって、命を捨てられました。
 しかし、イエス様は神の御子であられます。神の御子の苦しみと死は、ただ苦しみと死で終わることなどありませんでした。
 主は十字架に架かり、三日目に復活されたのです。人間にとって最も残酷で悲痛な死の苦しみ、すべての人の罪の裁きの杯をその身に受けられ、死なれ、陰府という死者の国、暗い、希望の無いところと言われるところに―イエス様が来られる前、すべての人間がそうであったように、神の御子は堕ちて行かれたのです。イエス様は光です。闇ではありません。闇を突き破る光です。光がやってきたなら、闇は消えうせます。光なるイエス様は、死の暗闇を、死を打ち破り、復活されました。
それは、ご自身の羊たちが命を得るためでした。そのために、イエス様は命を捨てられ、陰府を打ち破り、復活されることによって、命を、再び受けられることになったのです。再び受けられた命は、永遠なる神が共にある命、永遠の命です。
 そして、イエスさまが復活をされたのに倣い、自らの罪を知り、悔い改め、イエス・キリストを信じるもの―これが羊の姿です―は、滅びではなく、神が共にある永遠の命を得ることが出来る道が拓かれたのです。
 この救いの業は、良き羊飼いであられるイエスさまが、ご自身の羊を愛され、愛し抜かれるが故に、成し遂げてくださった救いの道でした。そのことが無ければ、人間にとって世の悲惨な死も、死でしかなかった。人は陰府に堕ちて、そのまま失われるしかなかった。しかし、イエス様が死なれ、死を打ち破られたということは、世に於ける苦難も悲しみも、死も、神の御子がすべて引き受けられたということです。たとえ、世に於いて私たちが苦しみのうちに置かれることがあったとしても、私たちはたとえその時であってもひとりではありません。羊飼いなるイエス様が、その命を捨てる愛で、私たちを守ってくださいます。このことを信じましょう。そしてイエス・キリストにあって、世の死は滅びではなく、まことの命への新しい転換点となったのです。

 羊の門を入り、羊の囲いの中に入った羊は、羊の囲いの中で、羊飼いに養われ、羊飼いの声を聞き分け、羊飼いの声には従順に、毛を刈られながら、またその毛を用いられながら生きていきます。
 既にイエス様という羊飼いの羊となった者たち、羊飼いが命を掛けて救いに入れていただいた者たちにとって、ある意味、死は恐れではなく、それを超えた希望を見据えるようになったのでしょう。イエス様の十字架の時には、逃げたペトロでしたが、後の伝承では、ペトロは逆さ十字架に架けられて殉教をしたと言われています。また信仰による多くの殉教の死を遂げた人たちが出ました。
 長崎でも、殉教者たちの事を考えました。なかなか結論は見出せません。
 しかし、羊飼いであられるイエス様が命を掛けて救ってくださって得た新しい命は、神のものです。イエス様は人間が苦しむことなど望んでおられない―ご自身がすべての罪をその身に担われたのですから―しかし、人々に自分自身を与える動物である羊自身、羊飼いの声を聞き分け、羊飼いに倣い、自らをささげる場合もあるのかもしれない、信仰にはそのような厳しい側面があることも思います。
 しかし、人間の苦しみの極限を通られた良き羊飼いであられるイエス様は、羊である私たちの、その弱さも悲しみも苦悩もすべて知っておられます。この世の苦しみについて、それを超えた救いについて、語りつくす言葉を持てておりませんが、でも、羊飼いは、イエス様は、ご自身の命を捨てるほどに、私を、私たちを愛しておられる。そのことを心から信じる者でありたいと願います。人間の悲しみや苦しみに居ても立ってもおられず、いかなる時も、世に降りて来られ、命まで捨てられた、神の激しいまでの愛に自らを委ねたいと願います。

最後に詩編23編1~4をお読みいたします。
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」