「イエスを認めない人々」(2018年9月16日礼拝説教)

ホセア書5:14~15
ヨハネによる福音書10:22~42

 ヨハネによる福音書を読み進んでおりますが、この福音書では絶えずイエス様の周りでイエス様を認めず、信じないユダヤ人たちが登場いたします。イエス様とユダヤ人たちとの論争は、他の福音書に比べても遥かに多いのです。他の福音書では、イエス様の十字架の前の最後の一週間の出来事として語られている神殿から商人を追い出す出来事が、既に2章で語られ、それ以来、イエス様は絶えずユダヤ人たちとの論争の中におられ、その中でこの福音書は展開されていきます。
 このことは、ヨハネによる福音書が書かれた背景を物語っていると思われます。ヨハネ福音書は紀元90年頃書かれたと言われています。この時代はユダヤ戦争によってエルサレム神殿が既に崩壊した後の時代であり、神殿を失ったユダヤ人たちは、その後ヤムニア会議と呼ばれる会議を経て、律法を中心としてユダヤ教の再建を図り、旧約聖書正典を形づくりました。そして、その会議の中で、イエス様をメシア=キリストと信じる信仰を「異端」として退けたと言われています。
 それまでは、イエス様を信じる信仰というのは、ユダヤ教の謂わば「イエス派」であり、ユダヤ教の一派だと自他共に認めていた訳ですが、ユダヤ教から異端として退けられ、キリスト教信仰はユダヤ教から完全に分離していくことになりました。そして、神殿から追放されていく。神殿を追放されていくということは、ユダヤ人としてそれまで持っていた権利、社会生活の基盤を失うということです。そのことを恐れ、信仰から離れようとする人たちも多く出てきました。その人たちに対し、イエス様こそが主なる神が人となられたお方、まことの救い主。ユダヤ人たちにとっての父なる神とイエス様はひとつであるということ、さらに永遠の命の希望を語り続け、イエス様を救い主と信じる信仰に踏みとどまりなさい、ひるまずイエス・キリストを中心とした共同体の中で、信仰に固く立って、互いに愛をもって仕え合いなさいと、絶えずこの福音書は語り続けているのです。
 ヨハネによる福音書は、イエス様はどのようなお方かということを―イエス様は神の言葉であり、暗闇を照らす光であり、命のパンであり、羊飼いであり、復活であり命である・・・のように、さまざまなこの言葉を使って語り、またはっきりとした聖霊論も語り、他の三つの福音書に比べて神秘的と思われることを多く含んだ福音書でありますが、反面、非常に実際的な、当時の人々の置かれている現実に対する信仰の励ましの言葉でもあるのです。そして、紀元90年代当時の教会の現状と、紀元30年頃のイエス様の生きた時代を重ね合わせながら、福音書は語られて行きます。そのため、言葉には二重性があったり、難解に感じることも多いのだと思われます。
そのような当時の事情を重ね合わせつつ、今日の御言葉に於いても、ユダヤ人とイエス様との論争の中で、福音書は展開して行くのです。

「そのころ」という接続詞から、今日の22節は始まっているのですが、21節までとは明らかに時が異なっています。7章から9章21節までは、仮庵祭という秋の祭りの出来事でしたが、22節からは神殿奉献記念祭の行われる冬の季節となっています。
 これもヨハネによる福音書の特徴なのですが、ユダヤ教の祭によって、「時」が刻まれているのです。
 神殿奉献記念祭というのは、律法に定められているユダヤ教の三大祭ではありません。この祭は、旧約聖書続編―カトリック教会は第二正典として取り扱っている―の中のマカバイ記と関連するのですが、歴史的な経緯をお話しいたしますと、紀元前4世紀、マケドニアのアレクサンダー大王が世界を席捲し、その領土はアレクサンダー大王が生きていたギリシアの文化、所謂ヘレニズム文化が覆うようになりました。エルサレム神殿を中心としたユダヤもその支配下に置かれるようになり、特に紀元前二世紀にシリア・セレウコス朝のアンティオコス四世エピファネスという人に、非常に厳しい迫害を受けたのです。律法の書は廃棄され、ユダヤ人の徴である割礼は禁止され、エルサレム神殿にはギリシアの神であるゼウスの像が安置され、ゼウスに対する祭儀(礼拝)が強要されたのです。ギリシャの彫刻などがたくさん持ち込まれたのでしょう。今、国家権力によって土気あすみが丘教会から十字架が撤去され、日本の神棚が持ち込まれ、それに拝めと強要されるような出来事が起こったのです。
 そういう宗教弾圧に対して反乱を起こした人の代表的人物が、ユダ・マカバイオスという人で、彼は激しい戦闘の末にアンティオコス4世の部下が率いる軍隊を撃ち破り、ついにエルサレムを奪還して、神殿に安置されていたゼウス像や祭壇を破壊し、主なる神に犠牲を捧げる祭壇をつくり直して神殿の汚れを清めました。宮清めをしたのです。そしてユダヤ人たちは一時的ではありますが、ハスモン王朝と呼ばれる自分たちの国を作ることも出来たのです。それが紀元前164年12月14日のことです。ユダヤ人は、このことを記念して、神殿奉献祭―口語訳では宮清めの祭り―として守っていたのです。この日は、8本の蝋燭に火を灯す光の祭り、ハヌカの祭りと呼ばれ今もユダヤ教では大切にされています。そのような歴史を持つ祭ですので、極めて政治的色彩の濃い祭りなのです。
 
 この日、神殿の境内のソロモンの回廊を歩かれるイエス様の周りにユダヤ人―宗教指導者たち―が取り囲み言うのです。「いつまで、わたしたちに気をもませるのかもしメシアなら、はっきりそう言いなさい」。
 ちょっと変な言葉です。これまでイエス様は、何度もユダヤ人たちに主なる神とご自身はひとつであるということを語り続けて来られました。しかしご自身を明確にメシアとは語っておられません。これを言うユダヤ人たちの中に思い描かれるメシア像というのは、神殿奉献記念祭という政治的意味合いの強い祭りの中にあって、政治的指導者としてのメシアをイメージしてイエス様に語りかけているのだと思われます。もともとメシアというヘブライ語は、「油注がれた者」すなわち王に対して使われていた言葉であり、多くの奇跡を行い、民衆の心を奪うイエス様が、民衆を扇動し、自分たちを脇へ追いやるようなことを行い、メシア=この世の王として宣言するのではないか、そのような猜疑心があったのです。「メシアである」という言質をイエス様から引き出し、暴動を起こすと見做して、イエス様を捕らえ、殺したかったのです。
 しかし、イエス様の目指されることというのは、神の御心は、ユダヤ人たちの思いとは全く別のものです。イエス様の語られる救いとは、「永遠の命」に至る救いであり、この世に於ける王として君臨することや、この世の繁栄ではありませんでした。
 イエス様はこの問いに対しても、ご自身が「メシアである」とは言われませんが、「わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証ししている」さらに「わたしと父は一つである」と答えられます。そして、ユダヤ人たちに対し、「しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。」と言われるのです。

 しかし、ユダヤ人というのは神の選びの民です。旧約聖書申命記には、ユダヤ人の先祖イスラエルの民に対し、「あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民より貧弱であった」(7:6~7)と語られています。すべての民族の中で、誰よりも「貧弱である」が故に、神の御目にとまり、神の救いがイスラエルを通して顕されたのです。
 神の選びというのは、まことに貧しい者に向けられます。マタイによる福音書の山上の説教と言われる説教のイエス様第一声は、「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」でした。
 私はかれこれ30年近く前と思いますが、この説教を初めて礼拝で聴いた時の衝撃をよく覚えています。人間というのは、いつも自分のことばかり、自分を如何に高めるか、自分が何をするか、自分を如何に人に誇るか、そのようなことで絶えず心をいっぱいにしている。しかし、自分のことで心をいっぱいにしてしまったなら、神が人間のうち入りこむことが出来ない。心の中の私が、私が、という思いでいっぱいにするのではなく、心の中に自分の誇りなど何も無い、自分に貧しくなったとき、そして自分の貧しさを神に明け渡した時、神はその人の心に入って来られ、その人を満たし、天来の喜びに満たしてくださるのだ、とそのような内容の説教だったと思います。
それを聴いた私自身、それまで「自分が自分が」と自分のことで心をいっぱいにしていて、行き詰まり、打ち砕かれ、心が空っぽになり、神をひたすら求めていた時期でしたので、その説教は自分のための説教として心に捉え、今もその御言葉は私のうちに確かなものとしてあります。
 このことを当時のイエス様の周りに居て、いつもイエス様を監視していたユダヤ人たち、そして彼らの祖先のイスラエルの民に置き換えますと、もともとは置かれていた現状も、そして心の中も貧しく空っぽの民族であったから、神がイスラエルを選び、民の中に大胆に入って来られ、ご自身の宝の民とされたのに、いつしか、彼らは変質してしまったのです。律法を与えられ、律法を守りきれず、罪を犯し続けた中で、国は滅びてしまった。しかし、神の憐れみはイスラエルを離れることなく、神殿を再建し、改めて律法を中心として生きることを民族の中心に据えた。
 その後、先にお話しした、神殿奉献祭の原因となった、アンティオコス4世エピファネスによる大迫害が起こり、それに勝利し、ますます律法を守る、ということを中心に据えて歩むうちに、いつしか、律法と律法に加えた細則を守ることだけに固執をするようになり、それらを守る自分自身を誇り、他者を裁く―はじめに神に選ばれた時の貧しさは、神の律法を守る誇りでいっぱいになり、本来神のものであった律法は、人間の誇りに摩り替わり、律法を誇りとするユダヤ人たちは、結局心の中は自分の誇りでいっぱいになり、神の入って来られる場所を塞ぎ、神を拒絶するようになって行ったのです。
 そして、神が人となられたお方、イエス様が目の前に現れても、自分にとって都合の悪い存在として拒絶し、何とか無きものにしようとする。神を殺そうとするのです。
自分が大きくなりすぎたユダヤ人たちは、その時は最早、イエス様、神の羊ではありませんでした。自分たちを誇ることでいっぱいになったユダヤ人たちは、まことの羊飼いの声を聞き分けることが出来ず、羊の囲いの中に入ることなど出来ない。あくまで自分が中心。自分の律法を守るという力に於いて、自分自身が中心であり、神が入る場所もないのです。

 しかし、イエス様はそれでもユダヤ人たちに救われて欲しいのです。神の愛は、決して離れることはない。しかし、人間の側が神を拒絶するならば、神は人間の中に強引に分け入るように入ろうとはなさいません。なぜなら人間は神に似たものとして、自由な意思を持つ者として神はお造りになられたからです。ご自身が人間のすべてを支配しようなどとなさらないのです。
神と人間との間に必要なこと、それは、人間の側が神に心を明け渡し、神を求めることです。造り主なる神の御前に小さな者として、神を讃え、神を求め、神を、神の愛を信じて生きるのです。そのことに於いてこそ、人間は神に近づくことが出来、神も人間のうちに豊かに働かれるのです。

 イエス様は、29節で「わたしの父がわたしにしてくださったものは、すべてのものより偉大であり、誰も父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである」と言われました。父なる神とイエス様はひとつ―このことはイエス様はユダヤ人に再三告げておられます。しかし、ここでもこの言葉を聞いたユダヤ人たちは、「神を冒涜した」と言って、イエス様に石を投げて殺そうとします。

 しかしイエス様は、自分の誇りを守ることに汲々しているユダヤ人に対し、それでもユダヤ人たちにご自身を証しされ、何としてもユダヤ人たちが信じる人になって欲しいと願われているのでしょう。そして言われます。「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう」と。

「あなたたちは知り、また悟るだろう」の「知り」「悟る」は原文では同じ「知る」という言葉です。でも、語形が違い、「知り」というのは未来に知る、そして「悟る」と訳されている言葉は、「次第によりよく知るようになるだろう」というニュアンスの語形です。
 イエス様はご自分を殺そうとしているユダヤ人たちを、それでも愛され、「今はわたしを信じられなくてもいい。わたし・イエスを高めようとして言っているのでも、為しているのではない。ただ、わたしが行っている業を信じてほしい。わたしが奇跡的な業を行うということは、父なる神が、救いの業を愛の業を始めておられるのだということを知って欲しい。その業がよく見えてくるならば、私の中に父なる神が生きて働いておられるということにあなたがたも気づくだろう。業を信じるならば、あなたがたのうちに、やがて信仰が息づくであろう」イエス様は、そのような意味で、この言葉を語っておられるのです。
 信じられない者たちが信じるようになり、永遠の命に至る救いに入るためには、業、不思議な奇跡をまず見なさいと、愛をもって語っておられるのです。

 不思議な業というものは、信仰の入り口なのです。世には宗教というものに対し、不思議な業、自分にとっての利益を求めるものだと思っている人たちが多く居ます。「業」ということ、イエス様がなされたように、現代に於いてもキリスト教会で「業」はあります。奇跡はある。そのことを私自身、体験したことも、また聞いたことも幾度もあります。しかし、それは信仰を持つことの目標ではない。入り口なのです。信じない者ではなく、信じる者とするために、入り口を与えるために、神は不思議な業を起こされる場合がある。業などなくとも信仰に生きられるなら、それに越したことはない。しかし、すべての人はそうではありません。業によって信じ、そこから始まる信仰はある。そこから始まり神に信頼し、神を絶えず見上げるようになることで、信仰は深まり、自分を高めることではなく、まず神を見上げ、神こそが素晴らしいお方、私を愛し、絶えず守り導かれる、私の羊飼いであることに悟らせていただけるようになるのです。

 ユダヤ人たちは、それでも業をも認めようとせず、イエス様を捕らえ殺そうとしました。そして、この時は12月。イエス様はこの後3~4ヵ月後の、過越祭の時に、十字架に架けられることになります。
イエス様は十字架の上で祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と。
イエス様は十字架の苦しみの極みまで、ユダヤ人たちのために執り成し、祈られたのです。
イエス様を信じないユダヤ人に対しても、神の愛は離れることはありません。それであるなら、信じて神の許にとどまり生きる、神の羊として羊飼いのもとに生きる私たちを、どれほど主なる神は、イエス様は愛しておられることでしょうか。
 主を信じ、羊飼いなる主の御許に、私たちは信頼して自らを明け渡し、養われる、神の羊でありたいと願います。神の愛はどのような時でも、私たちと共にあります。信じない者ではなく、信じる者として、生きる時、私たちは「私の思い、願い」を超えた、素晴らしい神の恵みの内を生かせていただけるに違いありません。