ダニエル書12:1~3
ヨハネによる福音書11:1~27
ヨハネによる福音書は、イエス様が神である、主なる神とひとつのお方であるということを「七つのしるし」を通して語っています。
第一のしるしは、2章のカナの婚礼に於ける、水をぶどう酒の変える出来事。第二のしるしは、4章でカファルナウムの役人の息子が癒された出来事。第三が5章のベトサダの池のほとりで38年間病気で苦しんでいた人を癒された出来事。第四は6章の五つのパンと二匹の魚で男だけで5000人が食べて満腹した出来事。第五が6章のガリラヤ湖の上をイエス様が歩まれた出来事。第六が、9章の生まれながら目の見えない人の目が開かれた出来事。そして、第七が今週と来週読ませていただく、イエス様がラザロを死から甦らせた出来事。
これらの出来事は、ただの奇跡、業ではなく、イエス・キリストは神であるという「しるし」として、特別の意味を込めて語られている出来事なのです。
神殿奉献記念祭のエルサレムで、ユダヤ人たちはイエス様から「私はメシアである」という言質を取って、それを盾に捕まえて殺そうと近づきました。イエス様は、彼らの悪意を知りながらも、彼らの救いのための言葉、「わたしを信じなくても、その業を信じなさい」と語られましたが、ユダヤ人たちは更にイエス様の言葉を拒絶し、イエス様を石で打ち、捕らえようといたしました。
イエス様はユダヤ人たちの手から逃れて、エルサレムを去り、ヨルダン川の向こう側、洗礼者ヨハネが人々に洗礼を授けていた場所―イエス様が洗礼を受けられた場所―に向かわれそこに滞在をされました。イエス様はご自身の宣教の始まりの拠点に今一度戻られたのです。そこには、洗礼者ヨハネがイエス様について証しをしていたのを聞いていた人々が多くおり、「彼=ヨハネが、この方=イエス様について話したことは、すべて本当だった」と語り、さらに多くの人々がイエス様を信じました。
今日の御言葉は、ヨルダン川の向こう側にイエス様が居られた時に起こった出来事です。
「ある病人がいた」今日の御言葉の書き出しです。
今の日本ではどこの病院も人でいっぱいです。病気の人はいつもどこにも居られます。ひとりひとりにとって病を持つことは特別な試練ではありますが、よくよく考えてみますと、それは全く塵で造られた弱い人間の、人間的な出来事と思えます。
しかし、病を持つ時、私たちの多くは病を「不幸」として捉え、神は私を愛してはおられないのではないか、私は神に見捨てられているのではないか、いや、神などいないのではないか。イエス様が私たちを愛してくださっていることの反対の、非常に不幸な出来事に思えてしまいます。実際病を持つことは、困難を極め、また悲しみを極めることに至ることもとても多い。
この病人はラザロ。ラザロとは「神が助けである」という名前です。この人にはマルタとマリアというふたりの姉妹がおりました。マリアについては、12章で、イエス様に高価な香油を注いだ女性として語られています。
姉妹は、ヨルダン川の向こう側に居られるイエス様のもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と告げさせました。語られた「愛しておられる者」の「愛」はフィリア。友愛。人間の結びつきを語るギリシア語です。イエス様と、この3人の兄弟は非常に親しい間柄であったことが分かります。
それと同時に、「あなたの愛しておられる者が病気なのです」と敢えて「愛している」親しい友であるという言葉を告げているのは、それを伝言した姉妹の心に、イエス様に対して「どうしてお傍に居てくださらなかったのですか」という心の非難と言いましょうか、兄弟が病気になったことで、イエス様の愛、神の愛から自分たちは離されてしまったのではないかという不安、おののきが含まれているように思われます。それは、私たち自身が、また私たちの愛する人が病気になった時の、神の愛から引き離されたと思ってしまう心と同様でありましょう。
しかし、ヨハネによる福音書にはひとつの言葉に、書かれている出来事が起こった時のそのままの意味と、福音書が書かれた1世紀末の時代の教会に対する意味の二重の意味が隠されていることがあるということを再三申し上げておりますが、この「あなたの愛する者が病気なのです」というこの言葉、「愛する者」フィリア=友という言葉にも、福音書が語ろうとしている意図があります。
この友=フィリアという言葉は、ヨハネによる福音書が書かれた紀元1世紀の終わり頃には、信仰共同体の兄弟姉妹を表す言葉となっていました。ヨハネの手紙3の最後の言葉は「あなたに平和があるように。友人たちがよろしくと言っています。そちらの友人一人一人に、よろしく伝えてください」(15)とありますように、「愛する者=友」と言う時、イエス・キリストを信じる信仰の友、ひいては現代の私たちひとりひとりを表す言葉でもあると言えるのです。
「あなたの愛する者が病気なのです」
病気なのは、この時代、イエスを主と告白をすることによってユダヤ人としてのすべての権利を奪われ、命の危険にさらされている、そのような当時の信仰共同体の人々。さらに私であり、私たちの愛する人。その象徴としてのラザロの病として聴ける御言葉なのです。
イエス様はラザロが病気であることを聞いて言われました。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と。「この病気は死で終わるものではない」、原文を直訳しますと「この病気の終わりは死ではない」というはっきりした言葉です。「この病気の終わりは死ではなく、神の栄光のため。神の子がそれによって栄光を受ける」と。
この先、ラザロは死にますが、イエス様によって、納められていた墓から起き上がることになります。ここで「栄光」とは、イエス様が死者を蘇らせることを語っておられるのでしょうか。いえ、死者を蘇らせることは、旧約聖書のエリヤもエリシャもしましたし、パウロもそれをしたことが使徒言行録に記されています。イエス様が受けられる栄光とは、単に死人の蘇りの奇跡を起こされたということではありません。新約聖書に於いてイエス・キリストの栄光の時とは、主の十字架、復活、昇天を指します。イエス様のこの言葉は、ラザロの病とご自身の十字架の死を結びつけて語っておられるのです。ひいては、キリストに結ばれる私たち、病と死にも結びつけて読んでも宜しいでしょう。それは、どのような病も、この世の苦しみも悲しみも、死で終わるのではなく、新しい命の恵みへと移される。「栄光」とは、神が人間に表された救いの出来事を表す言葉であるのです。
続けて「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」とイエス様の愛を語ります。この「愛」はアガペー。イエス様は、神の御子として、神の愛、無償の愛、無条件の愛をもって彼らを愛しておられたことが語られています。
今日の御言葉は、福音書の中でも、イエス様の親しい人たちとの人間的な関わりが語られる、数少ない御言葉です。この人たちの住んでいたのはベタニア。エルサレム郊外の小さな村です。マルコによる福音書によりますと、イエス様がエルサレムに入場されてから十字架に架けられるまで、毎日、昼間は神殿でお話しになり、夜はベタニアに退いて泊まっておられたことが分かるのですが、おそらくイエス様は、十字架の前の一週間、マルタ、マリア、ラザロの家に泊まっておられたのでありましょう。
それにしても、イエス様はラザロが病気だと聞いて、すぐに駆けつけるということをなさいません。イエス様は時に不思議な行動を取られます。余程何か他の大切な出来事があったのか?私たちは殊に忙しい時には、物事の優先順位を心で思い描きながら行動をとるものですが、しかし、この時のイエス様は、優先順位を考えて、ということではなさそうです。イエス様は、時々「わたしの時は来ていない」と語っておられました。例えば2章、母マリアがイエス様に「ぶどう酒が無くなりました」と耳打ちをした時、「わたしの時はまだ来ていません」と答えられました。また、7章で不信仰な兄弟たちが「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちに見せてやりなさい」と言った時にも「わたしの時はまだ来ていない」と答えられました。
旧約聖書コヘレトの言葉3章に「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」と語られていますが、イエス様のなさる事には、明確な「定められた時」があるのです。
そして遂に二日後、「さあ、ユダヤに行こう」と弟子たちに言われました。ラザロのいるベタニアはユダヤの村です。すぐ側がエルサレムです。イエス様の命を狙っているユダヤ人たちが居ます。そのことを案じる弟子たちに、イエス様は不思議な言葉を語られます。「昼間は12時間あるではないか。昼のうちに歩けば、躓くことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、躓く。その人の内に光がないからである」。
ヨハネによる福音書は、光と闇を分けて語ります。光は神がお造りになったもの。闇は世を支配する悪の力、そして人間の罪を表します。人間は闇を好み、また罪に簡単に引かれて行くものですが、昼、神の光の中を歩くならば躓かない。神の光のもと、光の道を歩む時、恐れは無いのです。私たちも絶えず、闇ではなく心に神の光を受けて、歩む者でありたい、それであるなら、恐れはない、このことを覚えておきたいと思います。
さらに言われます。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」。イエス様は、ラザロのことを敢えてこの時、「友」と呼ばれました。親しい友であり、またイエス様を信じる群の一人としての友です。
これを聞いて、弟子たちはラザロはただ眠っているということをイエス様が仰ったのだと思いましたが、イエス様はラザロの死を「眠り」と呼ばれたのでした。今日の旧約朗読で、「塵の中の眠りから目覚める」と語られているのと同様の言葉をイエス様はお使いになったのです。「眠り」は「死」を表す言葉でした。この時、ラザロは既に肉に於いて死んでいた。そのことをイエス様は知っておられます。イエス様は、まだ見ぬことを知ることが出来るお方であられました。さらに言われました。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである」。
すると弟子のトマスが「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と、非常に熱い言葉を語りました。弟子たちすらも、イエス様がこの時、ユダヤ―エルサレムに近いベタニア―に行くということは、命の危険があるといことを知っていたのです。
イエス様がベタニアに着いた時、ラザロが死んで葬られて既に4日も経っておりました。ユダヤに於いては、死後、直ぐに墓に葬るのだそうです。しかし、墓と言っても、現代日本のような火葬ではありませんし、西欧のように棺に入れて、土を掘って埋葬するというのでもありません。墓は岩肌をくり抜いた岩穴のようなところです。エルサレムで、イエス様の墓と言われるところに参りましたが、そこは岩をくり抜いた岩穴で、確か、六つの遺体が納められるように区切られていました。岩穴は人が立てるだけの高さもあります。そこに、布を巻いて寝かせ、およそ一年そのままにし、その後、骨を壷に入れるのだそうです。
ラザロの遺体も、この時既に布が巻かれ、岩穴の墓に置かれておりました。
マルタとマリアの家には、多くの人々が慰めに来ておりました。イエス様が来られたと聞いて、姉のマルタはイエス様を出迎えます。マリアは家の中に座ったままでした。きっとマリアは兄弟を亡くした悲しみと、イエス様が悲しみの中、4日も自分たちのもとに来てくれなかったことに対し、忸怩たる思いがあったのではないかと想像いたします。
マルタは申します。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」。
マルタのこの言葉は、彼女の苦渋の中から発せられた言葉ではありますが、イエス様に対する信頼、ここにしか救いは無いという信仰に立っています。愛する兄弟ラザロが死んだ。四日も経っている。しかし、「神には出来る」と。マルタというのは、よく奉仕をする女性で、マリアが祈りの人だと言われますが、そうではない。この時のマルタははっきりとした信仰を告白しており、マルタの信仰はイエス様を突き動かします。
マルタの言葉を受けて、イエス様は言われました。「あなたの兄弟は復活する」と。マルタは答えます。「終わりの日に復活することは存じております」。
マルタはユダヤ人であり、彼女は旧約聖書の教えを知っておりました。お読みしました旧約朗読ダニエル書12章2節「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。あるものは永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」は、旧約の時代―とはいえ新しい時代ですが―の復活信仰の言葉です。「塵の中の眠り」とは墓を表します。そして、永遠の命に入れられる者と、永遠の憎悪の中に置かれる者とに分けられる。それがユダヤ人ファリサイ派の人々の復活信仰でした。
更なるマルタの信仰の言葉を受けて、イエス様は言われるのです。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」
イエス様はあくまで、ここで「信じるか」「信じる」という信仰を求めておられます。その信仰の内容とは、イエス様を信じる者は、死んでも生きる、滅びに至ることはない。永遠の滅びを免れるというまことの命の道への招きです。
これまでイエス様は、ご自身を「命のパン」と言われ、また「羊の門」であると言われました。イエス様を通ってこそ、人はまことの救いに至るのです。神の顕される救いとは、世の死を超えた、まことの命の救いのことでありました。イエス様を信じる者に、命の救いが与えられるのです。信じる者にとって世の死は終わりではない。永遠の命を受け取ることが出来るのです。イエス様は、この時、その事を、マルタの信仰に応えて宣言をされました。
「このことを信じるか」と問われたマルタは、さらに信仰を告白いたします。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」。
この信仰の言葉を受けて、この後、イエス様はラザロを蘇らせます。腐敗しかかった体が蘇ったのです。
しかし、この出来事は、イエス様の言われる「復活」ではありません。復活とは、神の栄光の表れであり、復活の初穂となられるのは十字架に架かり死なれ、復活されたイエス・キリストです。イエス様を信じる者たちは、仮令世の命に死んでも、眠りについても、復活されたイエス・キリストの命に与り、滅びることのない、朽ちることのない、かの日、復活し、永遠の命を受ける。これがイエス様の言われたことであり、私たち信仰者に与えられている命の恵みです。すべての病も悲しみも、死によって終わるのではない。イエス様の十字架によって終わるのです。その終わりとは、悲しみは喜びに、死は命へと変えられる命の恵みです。
ラザロの出来事はイエス様こそが、「復活であり命である」ことのしるしでありました。しるしとしての蘇りでありました。何故なら、ラザロはこの後、世の命に於いては死にます。しかし、ラザロも必ず復活する時を得ます。ラザロの出来事、それは、イエス様が「復活であり命である」ということ、甦り、復活のしるしとしての出来事でありました。
この真理は、マルタの信仰の告白によって、イエス様の口から表されました。そして、この命の恵みは、私たちひとりひとりの信仰の告白に応えて表される恵みです。
この命の恵みを信じ、永遠の命の恵みを豊かに受ける者として、私たちも命の希望をどんなときにも抱きつつ、この世を歩んでいきたいと願います。