「ナルドの香油」(2018年10月21日礼拝説教)

出エジプト記30:22~33
ヨハネによる福音書12:1~11

 マリアは、当時の人の一年分の労働の対価である300デナリオンもの価値のあるナルドの香油を、イエス様の足に塗りました。このことを、バークレーという神学者は「愛の浪費」と呼びました。
「わたしたちは愛の浪費性を理解する。マリアは自分のもっている最も貴いものを取り、それを全部イエスのために使った。こまごまと代価を計算するような愛は愛ではない」、更に「わたしたちは愛が全く人前をはばからないことを理解する」とも。
 思い起こせば、そんな情熱的な愛に生きることが出来たらどんなに素晴らしいだろうと、青春時代、憧れていた私でした。音楽を聴いたり、恋愛映画を観たり、小説を読んでわくわくしたりして。でも、年齢を経ていくにつれて、謂わば「現実的」となっていき、だんだん無鉄砲な願望は影を潜めるようになって行き、世に言う「分別」のようなものが芽生えてきて、あれはしてはいけない、こうしなければいけない、また無駄遣いをしてはいけないなどと、いろいろ頭で計算をしながら、生きるようになった、成らざるを得なかったことを思います。多くの人にとって大人になっていくということは、どちらかと言えば、自分の思いを引き算して行動したり、世の常識というものを重んじたり、そのようなことを「当たり前」としていつしか生きるようになるものなのではないでしょうか。そして、思いのままに「常識はずれ」のことをしてしまう人を非難めいた目で見てしまったりしたりする。
無鉄砲気味だった青春を送った私にとって、それらの変化が心に起こったことには、信仰を持ったことが大きく影響をしました。御言葉に聴きつつ、自分の感情や思いよりも、神の御心は何かを求めるようになりましたし、「忍耐」を覚えるようにもなったとも思います。キリスト教信仰は、教会=神に集められた人々の群に於けるものであると同時に、神と「私」の一対一の愛の関係に入って行くことになりますので、その愛の関係は、私たちを鍛えてくれます。聖霊によって導かれ、神のご性質である聖霊の実というものを、時間を掛けて養い育ててくれます。個性を損なわないまま、神に愛された者として、抑制的な理性や生きる知恵も育んでいただけるものだと感じています。信仰にはそのような側面があります。
 そして今日の御言葉の中のユダの言葉は、正しく、常識的で、尚且つ「キリスト教的」な「大人の」言葉だと思えます。高価な香油をイエス様の足に塗ったマリアに「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と。キリスト教信仰に於いては、「施し」「慈善」ということは、所謂「徳目」と考えられているものです。人の目に驚かれる無鉄砲な振る舞いをしたマリアを諌め、信仰的であり所謂「大人」の常識を語るユダ。
しかし、イエス様は、このユダの言葉を退け、「この人のするままにさせておきなさい」と言われ、無鉄砲とも言ってしまえるような、人の目に非常識なマリアの「愛の浪費」とも言える行為を喜ばれたのです。

 今日の御言葉の時は、「過越祭の六日前」です。イエス様は、過越祭の直前に十字架に架けられておりますので、この日は、イエス様の十字架に架けられる6日前ということになりましょう。その日、イエス様は、ユダヤ人たちの殺意から逃れ、退いておられたエフライムからエルサレムに近いベタニアに行かれ、親しいマルタ、マリア、そしてラザロの住む家に入られたのです。
 ユダヤ人を避け、エフライムに退かれておられたイエス様が、エルサレムに近いベタニアに入られたということは、「時」が近づいた、イエス様はこれからその身に起こる苦難と死を覚悟しておられたということになります。イエス様の行動は、常に父なる神の御心のうちにありました。

 そこではマルタが給仕をして、夕食が整えられていました。ルカによる福音書では、マルタが給仕をし、給仕を手伝わず、イエス様のお傍でじっとイエス様の言葉に聞き入っていたマリアにマルタが苛立ちイエス様に手伝うように言って下さい、と苦情を述べ立てているところがありますが、今日の御言葉は、少し、それと同様の様子を垣間見る気がいたします。そこには、死から蘇ったラザロも、イエス様と共に食事の席に着いておりました。
 
 この時代の正式な食卓というのは、現在のようにテーブルの周りに椅子を置いて食べるのではなく、皆横になり、肩肘をついて、足を投げ出して食べる、そのような食卓でした。
 その時、マリアが「純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ」持って来て、足を投げ出して食事をしておられるイエス様の足にそれを塗り、自分の髪でその足をぬぐったというのです。
「ナルド」というのは、北インドの山岳地方を原産とする木なのだそうです。木の根から香料が取れ、その香油は非常に高価なもので、ユダの言葉では、一リトラが300デナリオンの価値があると申します。1デナリオンは一日分の働きの報酬と言われる金額ですから、300デナリオンと言えば、ひとりの人の1年分の働きの代価ということになります。それほど高価なものを、その中の少しを使う、というのではなく、マリアはすべてイエス様の足に塗り、自分の髪で、それを拭ったのです。
 当然、食卓は香油の香りで立ち込めます。良い香りといえども、食卓の美味しい香りなど一瞬にして掻き消してしまうような強烈な香りがその場に立ち込めたに違いありません。また、マリアは自分の髪で、イエス様の足を拭った。常識外れの異様な光景でありました。
 当時のパレスチナの女性は、髪をほどいたまま人前に出ることは無かったと申します。髪を人前で解いているのは娼婦たちだけ。そうでない女性たちは髪の毛を結え、きっちりと纏めるのが常識。髪を解いた姿を見せるのは、夫に寝室だけで見せるだけだったと申します。ですから、このマリアの取った行動というのは、如何に異様な光景であったかということです。ましてや、髪の毛でイエス様の足を拭うのですから。
 実は、マタイとマルコにも非常に似た出来事が記されているのですが、そこではイエス様にナルドの香油を注いだ女性が誰かは記されておりません。また、マタイ、マルコでは、女性がナルドの香油を頭から注ぎ掛けたと記されています。
 マタイやマルコが語るように、頭から油を注ぐということ、これは「王の即位」を意味いたします。「救い主」をヘブライ語ではメシアと言いますが、これは「油注がれた者」という意味の言葉です。サウル王も、ダビデ王も、頭に油を注がれたということが語られています。
 フェミニスト神学という1990年頃、非常に注目を浴びた「女性」という視点からの聖書の読み方があるのですが、フェミニスト神学の理解によれば、マタイ、マルコでイエス様に油を注いだ女性は、マグダラのマリアと理解されており、マリアがイエス様にナルドの香油を頭から注いだということは、これから十字架に架けられ、死なれ、復活をし、栄光を受けられ、まことの救い主、王となられる、そのことを象徴する預言的な行為である、と理解をしています。加えて申せば、フェミニスト神学、女性神学ですので、そのような預言的な行為をしたのが女性であった、ということを強調して語っています。
 確かにそのように油を注ぐということには、「王の即位」の意味がある。しかし、ヨハネに於いては、マルタとラザロの姉妹であるベタニアのマリアが、イエス様の足に香油を塗り、自分の髪の毛でその足を拭うのです。
 マリアは何故、このような行為をしたのでしょうか。

 イエス様はこの時、自らの死を覚悟しておられました。神の子であられるから、死に対しても泰然と、恐れなくおられた、というのでは無かった筈です。捕らえられる前のゲッセマネでイエス様は、悶え苦しまれました。イエス様は十字架を前にして、この時深い孤独の中におられた筈です。誰もそれを知り得ず、食事を楽しんでいる。これから過越祭、盛大な祝いが待っている。久しぶりにイエス様にお会いできた喜び、そしてラザロは死から蘇り、その日その家を訪れたイエス様を囲んだ食卓で、皆喜びに溢れていた筈です。誰もイエス様の胸中を知ることなく。
 しかし、いつもイエス様の膝元でひたすらイエス様の話を聴き入り、イエス様をこの上なく愛していたマリアには、察知することがあったのではないでしょうか。フェミニスト神学が語るように預言的に、神の言葉、神の知恵を受けて。久しぶりにお会いしたイエス様の目を見て、イエス様の苦悩と悲しみを、これから起こる「何か」を、彼女はその愛によって、愛に加えて神に与えられた知恵によって、察知したのではないでしょうか。そして已むに已まれず、その時、自分の為し得る一番のことを、なりふり構わずしたのではないでしょうか。高価な香油を注ぎ、布などではなく、自分の大切な髪でそれを拭いたのですから。自分のすべてをイエス様の前に注ぎ出している。それは、マリアの激しいまでの愛の行為であり、マリアの信仰告白の行動だったのではないでしょうか。
 しかしこの時、マリアは、イエス様の油を注ぎましたが、それは「王の即位」を表す頭から香油を注いだのではありませんでした。「王の即位」の意味もこの出来事は含んでいることは確かですが、しかしマリアはイエス様の足を香油で拭いたのです。

 足―イエス様は、世にあって、宣教のために労された足です。イエス様はその足で歩かれ、多くの人に出会い、人々を励まし、癒され、人々を救いへと導かれました。この時は、既に十字架への道を歩み始めておられる足です。そしてこの後、十字架の直前の最後の晩餐の席で、イエス様は弟子たちの足を洗われました。イエス様が世にある最後の時間、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれて行われた愛の行為が、イエス様ご自身が、弟子の足を、奴隷が主人に仕えるように洗うという行為でした。さらに、十字架の上で釘が打ち込まれ、血を流される、痛みの極まりを味わわれる足です。そして、すべての人が、その御足の跡を辿りつつ、信仰の深みへと踏み入ってゆく、私たちの模範となるべき足です。
 マリアはそのような宣教のために労されたイエス様の足を、高価なナルドの香油で濡らしたのです。

 その時、「家は香油の香りでいっぱいになった」と語られます。パウロの言葉に「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」(エフェソ5:2)という言葉がありますが、この香りというのは、「いけにえ」も意味するのでありましょう。イエス様は、すべての人の罪の贖いのための小羊として、この後、過越祭の直前、十字架に架けられ死なれることとなります。「香りのよい供え物、いけにえ」として、このパウロの言葉のとおりにイエス様は、この先、その足で歩み行かれることになります。

 マリアはそれらのすべてを預言するように、イエス様の十字架の死への備えとして、世の価値に於いては「浪費」と思える、ずっと大切に持っていたに違いない、ひとりの人の1年分の労働の対価にも相当する高価なナルドの香油をイエス様の御足にすべて注ぎ、イエス様への愛と献身を表しました。
このことを、この後イエス様を裏切ることになるユダが、「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人に施さなかったのか」という一見常識的な大人のような言葉でマリアを咎めます。福音書の著者は、このユダの言葉を「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」と語っておりますが、ユダが不正を行ったことで、心に何らかの咎めを感じており、マリアの「浪費」に対し、自分の公正さを際だたせようとした、そのような意味でしょうか。
 それにしてもユダの言葉は、世の人間の価値観を代表する言葉です。私たちは、無駄な浪費をすることは良くないことであることを覚えています。子どもの頃から教えられる事柄です。そして、「貧しい人への施し」は道義的に良いことです。愛の実践を伴わなければ、信仰とは言えないことは確かです。しかし、この時にユダが自分の不正を覆い隠そうとしてこの言葉を語っているならば、この言葉は、人間の大人の小さな常識に照らし合わせて正しい言葉かもしれませんが、神を見上げている言葉ではありません。あくまで自分の言い訳、言い逃れを含んだ言葉であり、言い逃れをしながら、「貧しい人への施し」とあたかも信仰に則ったと思える言葉を使っている。神を見上げることなく、「貧しい人への施し」を語るとするならば、それは、神を実は侮っている言葉であり、自分を高みに置く罪から発せられる言葉であり、まさに偽善でありましょう。
 そして、そのように神を見上げないまま、あたかも人間的に常識的な言葉で自分を飾るユダの行き着く先は、イエス様を裏切り、銀貨30枚という、奴隷を売り渡す代価としてのわずかな金銭で、イエス様をユダヤ人たちに売り渡すとことになるのです

 イエス様は言われました。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」。
 イエス様は、マリアの人前をはばからない、世の常識から大きく外れたその異様なまでの行為を、その行為を起こす愛を、心を、そしてイエス様のために自分の持てるよきものの全てをささげ尽くす、マリアの愛を受けとめられました。信仰の世界は世の常識を超えます。私たちは世の知恵をいただきつつも、時に、世の常識を飛び越え、人間の小さな計算など超えて、神にすべてを委ねることが出来たならば、新しい神の支配が私たちを通して始まって行きます。イエス様を愛する故の行為、それがいびつに見えるものであっても、主は喜んでお受けくださり、私たちを神の祝福の深みへと導かれます。

 ところでマリアの愛、「愛の浪費」とも言える行為を喜んでお受けになられたイエス様ですが、実はイエス様の、神の人間に対する愛こそが、狂おしいまでの、世の常識を遥かに超えた、「愛の浪費」だったのではないでしょうか。
 神は、人間を愛するが故に、そのひとり子イエス様を世にお与えになられました。
 神は私たちを狂おしいまでに愛してくださっておられます。愛するが故に、そのひとり子をお与えになったのです。その愛は、あまりにも人間の常識を超えています。神は、この私を罪の縄目から救い出すために、ひとり子イエス様を世に送られ、罪によって死に定められていた私を救うために、死すべき私の命の代わりに、ひとり子を十字架に架けられました。「私」私たちのためにです。自分で自分を見れば、何と無価値なのだろうと思えてしまう「私」でしかないと思えますが、その価値がないと思える「私」のために、神の御子が世に来られ、命を捨ててくださったのです。これ以上の激しい愛が、無駄と思える「浪費」とまで思えるほどの愛があるでしょうか。

 人間の小さな常識を大きく逸脱した愛。それが神の愛なのです。私のために、神の御子が代わって死なれ、私を生かしてくださったのです。
 この計り知れない愛のうちに、私たちは今生かされています。この愛を受けた者として、この愛を基点として、愛を受けた喜びと感謝から、激しいまでにますます主なる神を愛し、自分を愛し、自分を愛するように隣人を愛し、世に於いて、神に愛されている者としての使命を歩みぬく者でありたいと願っています。