詩編110編1~4
ヨハネによる福音書7:25~31
ヨハネによる福音書の講解説教に、2ヵ月ぶりに戻って参りました。
ヨハネ6,7章というのは、イエス様の二匹の魚と五つのパンの奇跡、また湖の上を歩かれるという奇跡から始まりましたが、その後は、イエス様とユダヤ人をはじめとする人々との論争であり、イエス様がユダヤ人はじめ、自分の兄弟たち、多くの人々の中にあって、その不思議な力ある業の故に嫉妬され、誤解を受け、憎まれ殺意を抱かれ、また近しい兄弟たちから蔑みのような言葉まで投げかけられている、それは十字架の死へと繋がってゆくわけで、読み解きながらも心が重くなる箇所と思えています。
しかし、イエス様がそのように人間として、人間から受けるさまざまな理不尽な苦しみを経験されたということ、イエス様は人間の心の醜さ、恐ろしさ、罪というものをとことんその身に於いて経験をなさったということであり、そのことは、この世に於いてさまざまな苦労のある私たちにとって、慰めと励ましになります。イエス様は、罪が無いのに、罪ある者とされ、十字架の死を遂げられました。すべての人間の罪を、無実のイエス様が被らされ殺されたのが、十字架の死であったのです。
しかし、主はその苦しみを「父の御心」として、ゲツセマネの園で苦しみ悶えられながらも、受け入れられ、十字架を担い、苦しみ死なれました。
私たちの世で経験する理不尽なまでの苦しみや悲しみや痛みのすべてをイエス様は経験されたのです。私たちが苦しむ時、イエス様はその苦しみを知っておられます。悲しむ時、その悲しみを知ってくださっておられます。イエス様は、人として生きられ、人として受けられた苦しみを通して、人間の世の苦労を、悲しみを、苦しみを、すべて知ることになられたのです。いえ、人間の苦悩のすべてをその身に於いて神が「知るために」、神が人となられた、主なる神は御子を世に遣わされたと言えるのではないでしょうか。父なる神は、ご自身が愛して創造した人間の、その罪の故に苦しむ姿に、神ご自身が耐え切れないほどの嘆きと苦しみを以って、人間の苦悩のすべてを神ご自身が経験されるために、御子をお遣わしになられたのではないでしょうか。
そのようにしてまで、人間の苦悩を「知っていてくださる」ということは、私たちが傷む時、私たちの傷みを知り、その傷みを十字架の主は御自身のものとして負ってくださり、悔いる心で主の十字架の御前に立つ私たちの苦しみを重荷を軽くしてくださるということです。
主は言われました。「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28~30)と。
今日の御言葉は、イエス様にとっての最後の仮庵の祭。エルサレム神殿での出来事です。
この時、ユダヤ人たちの間では、イエス様を「殺そう」としているということは人々の目にも自明のことがらであったようです。それも「殺そう」と狙っているのは当時の支配者たちです。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか」と。そして、30節では「人々はイエスを捕らえようとしたが、手を掛けるものはいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである」と、「時」ということが語られています。
「イエスの時」とは、イエス様が神の栄光を受けられる時。2章で、母マリアに婚礼の席で「ぶどう酒がなくなりました」と告げられた主は、「わたしの時はまだ来ていません」とお答えになられました。「わたしの時」とは、ここで言う「イエスの時」と同じ。栄光を受けられる時とは、主の十字架の死の時のことです。ギリシア語でカイロス。この言葉に「イエスの」がつくと、ただ一度の神の出来事、主の十字架を指す言葉となります。その「時」が来るまで、人々はイエス様を殺そうと考えながらも、行動を起こせなかった、神にその行動は止められていたということが分かります。
しかし、この時の人々にとっては、「イエスの時」ということなど分かる筈もありませんから、ユダヤ人の議員たちが、公然と人々の前で話をするイエス様を捕らえないということ自体が不思議に思えていたのです。さらに申します。「しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、誰も知らないはずなのに」と。
この言い方は、少々説明が必要かと思います。イエス様がガリラヤのナザレの出身であるということは、人々に知られておりました。少し先の41節に「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか」と語られています。イエス様はガリラヤの出身だということを、人々は知っておりましたが、住民登録の事情で、ベツレヘムに両親が旅をしている時にお生まれになられたことは、この箇所ではどうやら知られてはいないようです。
メシア=救い主がベツレヘムから出るという考えは、旧約聖書ミカ書5章「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」という御言葉が根拠とされて言い伝えられていましたが、後半の「彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」という御言葉から、メシアはベツレヘムから出る、そのメシアは永遠の昔から存在しているのだけれど、しかし実際に現れるまで隠れているのだ、という「隠れたメシア論」とも言われる、もうひとつのメシア思想があったのです。これは、メシアに対し、神秘性を求める人間の願望が潜んでいると言えましょう。隠れていたものが突然現れるのがメシアであり、素性が分からない、そのような神秘的な存在であれば、その人と神との関わりを信じ得る・・・しかし、ガリラヤの出身で、父は大工であり、子どもの頃から知っているようなイエスという人がメシアである筈はない、という思いがあったのでしょう。そのようにメシアが来られるときは、どこから来られるのか、誰も知らないはずなのだから、イエスという人が、ガリラヤの出身だということを自分たちは「知っている」ということ自体が、イエスという人がメシアではない、ということを語っている訳です。
この言葉を、イエス様は聞かれました。この人は、人々に囲まれて話をされているイエス様に「聞こえる」ような声で語った訳ではない、ひそひそ話の類の話であった筈です。しかし、イエス様の耳には、心には、人の思いが、離れていても伝わるのです。
主は大声で言われました。「わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたがたはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである」
今日お読みした御言葉には、「知っている」という言葉が、短い箇所にたくさん出て参ります。人々の言葉として三箇所、新共同訳では二箇所に「知っている」という言葉に訳されていますが、原語に於いては26節の「認めたのではなかろうか」も、「知ったのではないだろうか」という「知る」という言葉が使われています。
そして、イエス様の言葉としては4箇所「知っている」という言葉が語られています。イエス様は、人々の言葉を受けて答えておられますが、しかし、「知っている」という言葉が、ギリシア語の原語に於いて、人々の使っている言葉はギノースコゥという単語であり、イエス様の言葉はホイダーという単語で語られています。ギリシアの語句事典で、ギノースコゥとホイダーの違いを調べてみたのですが、残念ながら明確な違いは分かりませんでした。しかし、言葉が変えられていることに明確な理由が分からないながら、人々の言葉とイエス様の答えの言葉は違っている、イエス様は敢えて、同じ意味の別の言葉で返答をし、語っておられることだけは、原語を通して分かりました。
人々の思いとイエス様の思いは違う。人々はイエス様の本質を理解していない。そのことを「知っている」という同じ意味でありながら別の言葉で返されることで表しているのではないかと考えるのです。
あなたたちは、私イエスという人間を知っており、その出身地も知っている。確かにそうだろう、しかし、本当のことは何も知らないではないか、と、イエス様の言葉はそのような意味が込められています。
そして、そこから、イエス様は御自身がどのような者であられるか、神の真理を宣言されているのです。
「わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたがたはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである」
ここで、お遣わしになった方がどなたであるか、イエス様ははっきりと告げておられません。そのお方は「真実なる方」と語られます。この「真実」という言葉は「真理」とも訳してもよい言葉です。そして「真理」とは、イエス様を遣わされた父なる神、ユダヤ人にとっての主なる神をあらわしています。
イエス様がこの時、「わたしをお遣わしになった方は、あなたたちの知る主なる神である」と、もし仰ったとすれば、この時、ユダヤ人たちは、即座にイエス様の語られることをストレートに理解し、「神を冒涜している」と騒ぎたてたことでしょう。しかし、ここでイエス様はかなり捻った言葉を使っておられます。「わたしをお遣わしになった方は、真実=真理なるお方である。あなたがたはその方を知らない」と。
ユダヤ人たちは、自分たちこそが神を知っている、知られている、特別な民「神の選びの民」であると信じています。だから、この人はメシアか、救い主か、そういうことは自分で判断できると思い込んでいました。しかし、イエス様は「あなたがたは真実なるその方を知らない」と仰った。
イエス様がなぜここで神をわざわざ「真実」「真理」とお呼びになり、「あなたがたはそれを知らない」と仰ったのか。それは、「あなたがたは真理を知らない」「真理に生きることを知らない」「偽りに生きている」と言われたのです。
ヨハネの手紙一に「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」(3:16)という御言葉があります。神は愛そのものであられる。神のご性質は愛であり、愛とは神の真実、真理です。神の内にとどまっているならば、神もその人の内にとどまってくださる。真実なる神の内に生きるならば、神のご性質である愛を知るはずである。
しかし、ユダヤ人たちは、イエス様を殺そうと狙っているのです。殺す、ということは、愛とは真反対の事柄です。ですから、イエス様は言われるのです。あなたがたは真理ではなく、偽りの中に生きている。神を知り、神に知られていると思いながら、神の御前にある人間のあるべき姿を持っていない。神を知っていると思い込み、驕り高ぶり、まことに神が遣わされた方、イエス様を殺そうとまでたくらんでいる。自分を高め、悪意を持ち、人を嘲り続けている。あなたがたには、神の愛は無い。あなたがたの「知っている」ことと、神を「知っている」ということは、全く正反対のことなのだと、イエス様は、戒めを込めて厳しい言葉を語っておられるのです。 ユダヤ人たちは自分たちの「知っている」ことと、イエス様の「知っている」ということ、同じ事を「知っている」と思い込みながらも、本当は「知らない」のです。
イエス様は、神から遣わされたお方である。「私と父はひとつである」、イエス様はこのような言葉をヨハネによる福音書で何度も何度も語っておられます。ヨハネによる福音書の冒頭の「初めに言があった。言は神と共にあった」と語られている、「神の言」とはイエス・キリストのことを語っています。イエス様は、神であり、神の言として神と共におられた、神とひとつのお方。そのおひとりの神が、世に遣わされたお方がイエス様であると、イエス様ご自身が宣言しておられます。
さらに聖霊なる神と共に、父子聖霊なる三位一体の神とキリスト教教義は呼びます。三位一体、三つの位格のお方が一体であるこのことを、カール・バルトという20世紀のドイツの神学者は、「愛の交わり」と呼びました。愛の交わりにおいて、父、子、聖霊はひとつのおひとりの神である、というのです。愛に於いて、三つの位格がひとつに結ばれている三位一体の神。神のもとに、結ばれた愛があり、愛の交わりがあり、共にある、ということが「ある」のです。
その「共にある」ところからはひととき御子イエス様は離れ、何故世に遣わされたのでしょう?それは、ご自身が造られた人間の罪と、罪から引き起こされる、苦難、悲しみ、悲惨、すべてをとことん「知る」ためであり、神が人間のすべてを知り尽くし、知って、私たち人間の苦しみを我がものとされ、人間の重荷を軽くし、また救いだすためでありました。そのために、神は御子を世に遣わされたのです。世に遣わされたイエス様は、人間と「共にある」お方となられました。神が人となられたから、神は人間の傷みや苦しみのすべてを知り得たのです。
神にとって「知る」ということは、共にあること、またそれは愛そのもの。神の愛そのものであるのです。この時のユダヤ人たちの「知る」ということは、自分の独善的な知識であり、それらは高じて他者を憎しみ、蔑み、気に食わない者を排除し殺すことに繋がる「知る」でありました。
イエス様は神の愛と正反対の独善的な「知る」という知識の中で、真実を真理を、神を、神の愛を知らずに生きている人々が、イエス様を十字架に架けることになります。
しかし、イエス様の愛は、それらまことに神を「知る」ことのない、真理を知らない人間の罪をも赦す、すべてを神に結ばせる愛でありました。この時、ここにいる人々はその愛を知らない。あくまでも自己中心的にすべてのことを知ろうとしている。だから、神から遣わされたお方が目の前にいても、イエス様が何を言おうと、何をなさろうと、まことに理解せず、そのお方を認め、知ることは出来ないのです。
しかしイエス様はそのような人間の只中に降りて来られ、すべての罪をご自身で被り、死なれました。罪を打ち滅ぼす、自己中心的な人間の考えを打ち滅ぼし、神と共に生きる道を拓かれました。
私たちはすでにイエス様の愛によって「知られ」ており、私たちの悲しみも苦悩もすべて神がご存知であられる中、私たちはここに集められています。三位一体の神の愛の交わりの中に、私たちも入れていただいているのです。
主は言われました。「かの日には、わたしが父のうちにおり、あなたがたがわたしのうちにおり、わたしもあなたがたの内にいるということが、あなたがたに分かる」(14:20)と。神は私たちを、それぞれの奥深くまで、とことん「知って」おられ、私たちの罪を十字架によって滅ぼし、赦し、ここに招いていて下さり、私たちをひとつにし、さらに神との交わりに於いてもひとつにして下さっているのです。
この神の愛をまことに知るものとさせていただきたい、そして、神を知り、神の愛のもと、神の愛を知り、神の愛に結ばれて、独善的になるのではなく、神の愛を受けた者として、愛を以って生きる者として主に喜ばれる者として生きたいと心から願います。