「ユダーイエスを裏切った者」(2019年2月3日礼拝説教)

ゼカリヤ書11:7~14
ヨハネによる福音書13:18~30

 イエス様は、まことの光として私たちの住むこの世に来られました。闇を突き抜けて光が来られた、暗き世に、神のひとり子が高き天より低き地に降られ、すべての人の救いとしてお生まれになられました。
 今日の御言葉の最後は、「夜であった」と語られています。ユダはイエス様を裏切って、イエス様に背を向けて、食事の席から出て行った。そこは夜の暗闇だったのです。イエス様に背を向けた時、そこには暗闇が広がる。これはこの時のユダだけではなく、私たちすべてにも当てはまるのではないでしょうか。

 ユダという人、イエス様に選ばれた12人のうちのひとりでした。今日の御言葉は、所謂最後の晩餐と言われる食卓の出来事です。レオナルド・ダヴィンチのこの時のことを描いた絵画はあまりにも有名です。
この時、イエス様はご自身の死を覚悟しておられました。そしてこの食卓に於いて、イエス様は弟子の足を洗われ言われました。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」。そしてご自身がイエス様が去られた後、残された者たちが互いに仕えあい生きることの模範を自ら示されたのです。
 しかし、イエス様はここで不思議なことを言われます。「わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのように人々を選び出したのか分かっている」と。
 この言葉には、この後イエス様を裏切るユダのことが、イエス様のお心の中にありました。ユダはこの食卓で、イエス様に足を洗っていただいた筈です。しかし、この後、弟子たちの仕え合う交わりの中にユダは置かれないこと、さらに、「どのような人々を選び出したのか」ということ、「裏切る者がいる」ということにまでイエス様は言及しておられるのです。
 12人。イエス様のお側で、3年間、絶えず教えを受けてきた弟子たちでした。その多くは、イエス様に見出され、召し出された時のことが福音書に記されてありますが、ユダの召命がどのようなものであったかについてはどの福音書も触れていません。
しかし、ヨハネによる福音書に於いては、6章で、別のことでイエス様はユダについて言及をしておられます。「あなたがた12人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ」と。そして福音書は説明として、「このユダは、12人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた」と既に語られているのです。
ヨハネによる福音書は、ユダヤ人の「祭り」によって、時期が分けられているのが特徴のひとつですが、その見方から時系列的に推測しますと、その言葉はイエス様の十字架の半年以上前と考えられます。その時から既に、ユダはイエス様を裏切ることを考えていた。イエス様は、半年以上、裏切る考えを抱いていたユダと更に共に歩まれ、この日の食卓では、「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」その中に、ユダも居たのです。
食卓についたユダ、足を洗っていただいたユダ。ユダが何故イエス様を裏切ろうとしていたのか。それは「既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」(13:2)からだと語られます。
イエス様が「選ばれた」時から、イエス様は、ユダが裏切ることを見抜いておられたのか、それとも、ユダは選ばれた後に、悪魔にそそのかされる者となったのか。
ユダを巡ることは、聖書の聖書最大の謎とも言われることであり、断定は出来ないことではありますが、私には、「どのような人々を選び出したのか分かっている」というイエス様の言葉から、そのはじめから、ユダが裏切る者となることを知っておられた。それでも、敢えて選び、共に歩まれ、「世にある弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と言われる中にユダも入れられていたのだと思えるのです。イエス様はそれでもユダを愛しておられたと。

今日の御言葉で、ユダは「金入れを預かっていた」と言われていますので、12人のうちでは信頼されていたのではないでしょうか。だから、イエス様が「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と言われても、「疑わしいのはユダだ」とは誰も思っている様子はない。ユダというのは、見た目は穏やかで、信頼出来ると思われる人と見做されていたのではないでしょうか。しかし、ユダの心はずっとイエス様を裏切り続けているのです。
イエス様は更に「『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。・・・事が起こったとき、『わたしはある』ということをあなたがたが信じるようになるためである」と言われました。「わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった」という御言葉は、詩編41編の中の御言葉です。イエス様は絶えず旧約聖書を引用されて語られます。そして、ご自身が、旧約の時代から約束された「わたしはある」―この意味は「わたしは主である」という意味ですが―と呼ばれるお方であること、すなわちすべては神の御計画の中にあることを語られるのです。
そして、29節の「わたしを遣わすものを受け入れる人は~」と、イエス様が去られた後、宣教に遣わされる弟子たちに与えられる権威を語られた後、イエス様は「心を騒がせ」られ語られるのです。「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と。

当時のユダヤ人の食卓というのは、実はダヴィンチの絵画にあるようなテーブルと椅子の食卓ではありませんでした。低いテーブルのようなものがあり、主人を中央にして、Uの字のような形に、食卓に着く人皆、左腕をついて、寝そべるような形で、右手で真ん中にある食事をとって食べるのです。その横になり方というのは、互いに重なり合っていたと申します。主人を中央にして、右の席に着く人は、主人の胸元によりかかる、そのように重なり合うような位置関係です。

「イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席についていた」とあります。
 この「愛しておられた者」というのは、ヨハネによる福音書に置いて数度語られる弟子のことで、名前は一切語られません。「愛弟子」と神学用語で言われる人なのですが、この弟子は、イエス様の十字架の時、側に居り、十字架のイエス様から、「見なさい。あなたの母です」とイエス様の母マリアを指して言われ、その後、マリアを自分の家に引き取ったとされる弟子です。一説には、ヨハネによる福音書の著者、ヨハネとも言われますが、分かりません。
 この「愛弟子」はイエス様の「胸元によりかかったまま」とありますので、イエス様の右側に居り、ペトロの合図で、その姿勢のまま、「主よ、それはだれのことですか」と訊ねるのです。おそらく囁くような声で。この対話は一対一の囁き声のような対話であったことを想像いたします。そして、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と、イエス様は、胸もとにいる「愛弟子」に囁かれ、パン切れを浸して取り、ユダに渡されたのです。
 主人が客人に食事をとって与えるということ、これは中近東に於いて特別な友情のしるしでした。恐らくイエス様は、いつも愛する弟子たちに、特別な友情のしるしとして、食卓の食事を手にとって渡していたのではないでしょうか。聖餐式の食卓のように。そのように、特別な愛情を弟子たちにいつも示しておられた。ユダがパンを受け取るのも、これ一度ではなく、おそらく何度もあった。ユダは、その愛をイエス様から受け取っているにも拘らず、恐らくずっと心ではイエス様を裏切り続けていたのです。そして、この時も、何食わぬように、裏切りの心を持ったまま、イエス様からパンを受け取っている。パンを受け取ったのがユダであったことの意味を、イエス様の胸元にいた「愛弟子」以外、知りません。
この時、「サタンが彼の中に入った」と福音書は語ります。
「サタン」とは、悪魔の名。固有名詞です。世を支配する悪の親玉のような存在を表すと言いましょうか。それが、イエス様がパンを渡した時に、ユダの中に入ったと言うのです。イエス様の「時」。この出来事が起こる時に、悪魔サタンが自ら動いたのです。
 そしてこのことによって18節でイエス様が「実現しなければならない」と語られた詩編41編の「わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった」という言葉が実現することとなります。

時が来ました。イエス様は、「しようとしていることを、いますぐ、しなさい」とユダに囁かれました。ユダはそのまますぐに、食卓の席から離れ、出て行きました。それは夜でした。ユダは夜の暗闇に去って行ったのです。
このユダの裏切りは、イエス様の十字架への直接的な道筋を開くことになります。これまで何度もイエス様はユダヤ人たちの殺意から逃れて来られた。しかし、「時」が来て、イエス様の「しようとしていることを、いますぐ、しなさい」という言葉が語られ、ユダの裏切りを通して、イエス様は十字架への道を歩まれ、十字架の上で苦しまれ、死なれることになります。

ユダ、この人のことを私たちはどう理解しましょうか。
二方向からの捉え方が大きくはあると思います。ひとつは、ユダは悪い。悪人。イエス様を十字架に架けて殺した裏切り者。聖書自体、その視点でユダのことを語っており、ユダを語ることに容赦ありません。
マタイによれば、ユダは銀貨30枚で、イエス様を売り渡します。しかし、その後ユダは自分の犯した罪を後悔し、銀貨30枚を神殿に投げ入れ、首を吊って死んだと語られます。祭司長たちは、「血の代金だ。神殿の収入にするわけにはいかない」とその銀貨で「陶器職人の畑」を買い、外国人墓地にしたと言います。今日お読みしたゼカリヤ書の言葉、救い主を拒絶し、それだけでなく、救い主を銀30シェケルで売り渡し、その金で陶器師の土地を買うという預言の成就がこの時、ユダに於いて実現したことが語られるのです。
また、使徒言行録に於いては、イエス様を売ったお金で土地を買い、地面にまっさかさまに落ちて、ユダの体が真ん中から裂けて死んでしまったと語られます。これら「裏切り者」というのが、伝統的なユダ観と言えましょう。

しかし、ユダを巡る出来事はそれほど勧善懲悪的に単純ではないこと、皆様も信仰の目に感じられると思います。何よりも、今日の御言葉にあることは、旧約聖書の預言の成就ということが、強調して語られていました。預言の成就であるならば、そこには神の意思があり、ユダの意思はどこにあるのか、イエス様もこれから起こるすべてを知っておられて、ユダに「しようとしていることをしなさい」と言われたならば、そこには抗し得ないユダの運命のようなものがあったのではないか。それであるならば、あまりにもユダは残酷な運命を、神によって与えられたのではないか。イエス様は、ユダをそのような裏切りから引き離すことを何故なさらなかったのか。

ユダのことを語ることは、聖書に於ける最大の謎とまで言われるほどですので、さまざまな人がさまざまに理解し語っています。難しい問題なのですが、カール・バルトという20世紀最大の神学者と呼ばれる人のユダの理解をご紹介しながら、最後に少し考えてみたいと思います。
バルトは、ユダのことを、神がイエス・キリストを介して、人間の救いの達成のために選んだ「神の器」であると理解しています。ユダは、イエス様に対して「裏切り」という最大の罪を犯した人間であり、その罪に於いて、神に「棄てられた者の姿」であり、尚且つ神によって神の器として「選ばれた人間」である、と難しい言葉で語るのです。「棄てられた者の姿」とは、罪の中に呻く人間の姿と言い変えましょうか。しかしバルトは、神に「棄てられた者の姿」ということと、「選ばれた者」ということを、結びつく一対のこととして語るのです。
バルトの言う「神に棄てられた者の姿」というのが、「罪の中に呻く人間」であればユダに限ることではない。すべての弟子もそうであり、ひいては、罪を持つ私たちすべてが元来「神に棄てられた者の姿」であると言えましょう。
しかし、ユダの罪は決定的でした。ユダの「棄てられた者の姿」のままに行った、「イエス様への裏切り」によって、人間の歴史の全くの転換点である、神の御子の十字架の死が起こったのですから。しかし、十字架は、神の人間への救いの意志の決定的な出来事でありました。バルトはこのことをして、ユダは、「棄てられた者の姿」で、神への奉仕者となったと語るのです。このことのために、神の救いの業が顕されるために、ユダは神に選ばれたのだと。
ローマの信徒への手紙5:20に次のような言葉があります。「罪が増したところには、恵みはなお一層満ちあふれました」と。人間の罪が増し加わるところにこそ、神の恵みがさらに増し加わり、その罪を神の恵みが覆う。バルトは、ユダをそのように恵みに覆われた罪人の頭として理解をしています。その罪に於いて、「棄てられた者の姿」で、神の人間に対する救いの御計画を達成したと語るのです。

ということであれば、ユダは神の恵みのうちに、神の御計画を生きたということになりましょう。ユダは、「棄てられた者の姿」「罪の中で呻く者の姿」で、罪人の頭として、神の恵みに覆われた者とされた、神のご計画を成し遂げた。
選ばれて与えられた道は、「棄てられた者の姿」で始まり、「棄てられた者の姿」で終わったかに思えますが、ユダはイエス・キリストの赦しに於いて恵みの増し加わる器であったというのがバルトの理解です。
難しい理解ですが、ユダに救いは無いのか、と言えば、「ある」と言うことなのでありましょう。罪人こそが、イエス・キリストの福音を聴くべきであり、またキリストの恵みに与るべき者であるということ、キリスト教信仰の真髄をユダは生きたということなのでしょうか。神のご支配に於いて、ユダの罪は赦された、このことを私自身信じています。しかし、同時に神に選ばれる、ということは、厳しい道である、ということも、強く思います。

私たち、世に生きるそれぞれ「棄てられた者」、神に対する罪、背きという罪を持っています。「棄てられた者の姿」のままで、惨めに神の御前に泣くこともある。ペトロは、イエス様のことを三度「知らない」と言ってしまい、その後、自分のしてしまった裏切りの言葉に、大泣きに泣きました。それはペトロの「棄てられた者の姿」でした。私たちも、誰にも言えない罪を持ち、また世に於けるさまざまな苦難を受ける中、「棄てられた者の姿」で、泣く時があります。
しかし、「棄てられた者の姿」で、神の御前で泣くならば、そこにはキリストの光があります。ユダは、「棄てられた者」として、夜の闇に出て行き、決定的な罪を犯してしまい、イエス様を十字架に掛けてしまった。
ユダは裏切りという罪によって、実は神の恵みは増し加わり、決定的な人間への救いがもたらされた訳であり、人間の罪というものに対しては、どこまで行っても、神の恵みが追って来ると言える。
が、しかし、私たちは、「棄てられた者の姿」で、ユダのように暗い闇に出て行くのではなく、苦しむならば、泣くならば、神の光の中、苦しみたい、泣きたいと思う。主の憐れみの光にあるところに、主の愛のある共同体に私たちは既に招かれているのですから。
そして、主が与えてくださるパンを、喜んで、命の糧として受け取りたいと願います。
今日は、これから主の晩餐に与ります。ユダのように心から受けることなく、パンを取っても、そのまま世の暗闇に出て行く者になるのではなく、心からのイエス・キリストの与えてくださる愛に対する応答をしつつ、この晩餐を受け取る者でありたいと願います。
イエス・キリストの十字架は、既に立てられたのですから。ユダの「棄てられた者の姿」に於ける罪、暗闇に出て行く罪によって神の御心が成し遂げられることは、ユダでもう終わり、主の救いが顕されたのですから。キリストの光のうちに、愛された者として、生きて参りましょう。