「新しい掟―互いに愛し合いなさい」(2019年2月10日礼拝説教)

列王記下2:1~4
ヨハネによる福音書13:31~38

「神は愛です」
 私は幼稚園を卒園する時、このヨハネの手紙一の4章16節の御言葉カードをいただき、本当に嬉しかったことを今でも覚えています。「神は愛」、愛ってなんだろう?子ども心に神様が私に直接与えてくださった言葉に思えて、わくわくしました。
 愛とは温かい。自分の弱さもわがままな思いも、すべてを包んでくれる。私はそのような親の愛を受けて育ちました。
しかし、私自身、愛を受けることはあっても、自分の受けた愛のすべてに本当に応答をしてきているだろうか、また愛してきたのだろうか。愛してきた記憶は確かにありますが、愛するということは、さまざまな葛藤があり、ただ綺麗なだけものではないことを今は知っています。
例えば、人間は、愛を与えられている時、時に心が傲慢になるものではないでしょうか。愛を与えられることは心地の良いもので、心地良さに慣れると与えられている愛に気づかない。愛が当たり前だと思え、愛を与えてくれる相手に感謝をするどころか、ぞんざいに扱う場合すらあります。そして私たちは自分を一番愛してくれる人を、一番ひどく傷つけてしまうことすらあります。

「神が愛」であるならば、神ご自身、愛を巡るさまざまな葛藤をご存知であられるはずです。旧約聖書に於いて、神は「熱情の神」「ねたむ神」であるとご自身のことを語られました。神は、いつも超然として、いかなる悲しみや痛みにも心を痛めることのないような方ではなく、人間を愛するあまり、激しく愛に痛み、苦しまれ、葛藤をされるお方です。ただ高いところに鎮座して人間を見張って、時に人間を一方的に操るような方ではありません。神の愛の苦悩は、旧約聖書の至るところに語られており、主なる神は人間に対する愛の苦悩と葛藤の末に、居ても立ってもおられず、人となられて地上に降りて来られた。それはご自身の造られた人間の世にある苦しみ、苦痛のすべてを味わい尽くされる十字架という犠牲の死によって、人間を罪から、罪による滅びから救い出すためでありました。

 そのような神の激しいまでの愛ですが、旧約聖書の律法に於ける愛というのは、「ヘセド」というヘブライ語で語られています。これは与えられた愛への応答を求められる愛を表す言葉です。一方的に与える愛ではないのですね。律法は神から人間に与えられた愛。その愛に応えて、律法を守るという応答を求められる愛を表します。しかし、人間は律法を守れませんでした。神の愛に人間は応えることが出来ませんでした。神の愛に応えることが出来ず、律法を与えられた人間は罪が増し加わっていったのです。

 先週はユダのことをお話しいたしました。先週お話ししたことに少し加えて申せば、ユダはイエス様からパンを渡されました。主人が客人に食べ物を手渡すということは、かけがえのない友愛の証でした。ユダはそれをイエス様から絶えず受けていた。イエス様は、最後まで愛をユダに与え続け、ユダは裏切る直前まで、イエス様からの愛のしるしである食べ物、パンを渡され、それを受け取っていたのです。
 パンを受け取ったその時、ユダに「サタンが入った」と語られていました。イエス様は愛のしるしのパンを渡された。ユダはその愛に応えない、愛を踏みにじる思いのなかで、そのパンを受け取りました。 
愛の裏切りのあるところ、失われたところに、サタンはつけ入った言えるのではないでしょうか。ユダの行為が神の御計画の中にあるものであったに違いありませんが、ユダの側からすれば、イエス様の愛をぞんざいに扱ってしまった結果と言えませんでしょうか。
ユダは12弟子の中で、お金を預かるいわば会計の役割をしていました。信頼されていた人です。でも、心の中で、イエス様の与えてくださる愛への裏切りを抱きながら、冷ややかにずっとイエス様を見ていたのです。与えられる愛に胡坐をかきながら、二心を持ち続けていたのです。そして虎視眈々とその「時」を待っていた。

主の十字架―それは人間の救いのために、主なる神のご計画の中にあったものであり、尚且つ人間の罪―ユダの計画的な罪によって引き起こされた出来事でした。イエス様は、人間の罪―ユダの罪も含め、すべてを負われて、十字架に架かり、死なれることになるのです。イエス様は、すべての罪を赦されます。罪の増し加わるところに恵みも増し加わる。キリスト教信仰の逆説です。ユダの裏切りによってイエス様の十字架が直接的に引き起こされたということは、それはイエス様がユダの罪を、すべての罪の赦しの前提として、引き受けられたということでありましょう。ユダの大きな罪を主は背負われ、十字架で死なれます。しかし、イエス様は神であられますので、死は死で終わらず、死を打ち破り復活をされます。そしてすべての人の救いの道を拓かれます。ユダの罪は、イエス様が人間の罪の重い罪もすべてを引き受けられ救いの道を拓かれたという、象徴的な出来事だったのではないでしょうか。

ユダが出て行った時、イエス様は言われました。「今や、人の子は栄光を受けた」と。
イエス様はこれまで「わたしの時は来ていない」と再三に亘って語って来られました。が、ここで「栄光を受けた」と語られました。「時が来た」のです。
「人の子」というのは旧約聖書ダニエル書に語られている、「救い主」を表す言葉です。イエス様はご自身を「人の子」、約束された救い主であることを自ら宣言され、「栄光を受ける時が来た」ことを語られました。最早イエス様の十字架への道は確実となりました。主の十字架の時が迫り、「人の子」なるイエス様だけでなく、父なる神も栄光をお受けになった、とイエス様は語られました。罪ある人間の救いのため、主なる神ご自身が苦しみぬいて計画をされた「時」が来たのです。

主は言われました。「子たちよ」と。何という愛に満ちた呼びかけでしょうか。弟子たちが、御自分の「子」、ご自分のふところに抱く大切な存在として、ご自身が弟子たちの許から去って行かれること、その後のことを語られるのです。これから語られるイエス様の言葉は、謂わば、イエス様の弟子たちへの遺言です。
イエス様は言われます。「いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることが出来ない』」と。この言葉は既にご自身が7章34節に於いて、イエス様を逮捕しようとしているユダヤ人たちに向かって語った言葉を、再び弟子たちに向けて語っている言葉と同じです。その言葉をここでイエス様は再び語られ、更にイエス様が去られた後、残される教会共同体に向かって言われるのです。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい」と。
「互いに愛し合う」、これが、十字架を前にした、イエス様が語られた「新しい掟」でありました。
「神は愛」であられます。そしてご自身が愛であるように、「互いに愛し合いなさい」という新しい掟を、遺される者たちへの教えとして語られたのです。イエス様に倣う者たちとして、「互いに愛し合いなさい」、そのことによって、イエス様の弟子であることを、皆が知るようになると。 

 しかし、シモン・ペトロはイエス様の言っておられる意味が分かりませんでした。「愛し合いなさい」という掟よりも、イエス様が「去って行く」ということに心を奪われています。そして問います。「主よ、どこに行かれるのですか」と。イエス様は答えられました。「わたしの行く所に、あなたは今ついてくることはできないが、後でついてくるようになる」。
 不思議な言葉です。ペトロはイエス様が去って行かれた後、十字架の後、残され、「互いに愛し合う」共同体を作ることを、この時、使命として与えられました。しかし、「後でついてくるようになる」。それはこの福音書の先、21章で、復活されたイエス様がペトロに言われた言葉、「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」に関連する言葉なのでしょう。21章の言葉は、ペトロがどのような死に方で、神の栄光を表すようになるのか示そうとして、イエス様は言われたのだと語られています。
 今はまだその時ではない、しかし、いずれ、イエス様の栄光を表す器として、イエス様に倣う道を与えられる、イエス様はペトロのこの後の使命と生涯について、ここでも述べられているのです。

 ペトロと言う人は、主の復活の後、聖霊を受けて、めくるめく力強く変えられて、主を証しする伝道者として歩みぬくのですが、イエス様のお側に居て、その愛を一身に、明らかに分かる形で受けていた時には、なかなか頼りない性質を持つ人でした。
良いところはたくさんありました。ペトロは正直です。ユダとは対照的だと思えます。ユダは狡猾に頭でさまざま思い巡らし、恐らく口数は少なく、感情をそのまま言葉にするタイプではなかったでしょう。それに対し、ペトロは思いの丈をすぐに言葉に出す人です。弟子たちの中でも一番にしゃしゃり出るというのでしょうか。福音書で語られる弟子たちの言葉は、その多くがペトロです。
今日の御言葉でも、イエス様の言葉を理解出来ず、申します。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と。「あなたのためなら命を捨てます」という言葉は、この時のペトロの素直な思い、イエス様に対する愛と信頼の表現だったはずですが、しかし、イエス様はペトロに言われるのです。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と。
実際、ペトロはイエス様が逮捕された後、「お前もあの人の弟子なのではないか」と問われ、「違う」と三度、イエス様のことを否定いたします。問題の無い時には、ペトロは自分を主の御前に正しくあろうとすることに心がけていました。でもペトロは瞬間的に罪を犯してしまうのです。ユダが計画的に罪を犯したのとは、対照的に、ペトロは主を愛し、主に従おうとしながらも、身の危険が自分に及びそうになる時、咄嗟に裏切ってしまう、そのような瞬時の弱さを持っていました。ペトロの意志はあまりにも弱かったのです。
しかし、イエス様はそのようなペトロの弱さもよく知っておられました。イエス様はペトロを愛し、愛するがゆえにこの直前に自らペトロの足を洗われました。ペトロの弱さを知り抜かれながらも、そのようなペトロを尚愛し抜かれたのです。
ルカによる福音書でも、同じ出来事が語られていますが、そこでイエス様は言っておられます。「サタンはあなたがたのことを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と。
イエス様は、弱いペトロのために、祈られました。そして立ち直ったならば、兄弟たちを力づけてやりなさいと、弱さの故に犯してしまった過ちに、自分を否定し続けるのではなく、私が祈っているのだから、私があなたを愛しているのだから、自分を否定するのではなく、立ち直りなさい。そして、同じように自分の弱さのために苦しむ人を、力づけ、励ましてやりなさいと、イエス様がご自身が、ペトロを励まされるのです。

ユダは計画的にイエス様を裏切りました。ペトロは自分に危険が及ぶ時、衝動的にイエス様を裏切りました。ユダの裏切りの予告と、ペトロの裏切りの予告に挟まれるように、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という、イエス様の言葉があります。
イエス様は、ユダも、ペトロも愛し抜かれたのです。裏切られることが分かっていながらも、彼らの弱さも狡猾さも、すべて知りながらも、それでもイエス様は、ユダも、ペトロも愛し抜かれたのです。
しかし、ふたりともイエス様の愛に本当に応えることは出来ませんでした。ユダは夜の闇にイエス様に背を向けて出て行き、「棄てられた者」となってしまい、イエス様を僅かな銀貨でユダヤ人に売り渡すという大きな罪を犯します。ペトロはイエス様が逮捕される時、一目散に逃げ出し、さらにイエス様の弟子だったと言われると「違う」と三度も否定をすることになります。
ふたりとも、イエス様のありったけの愛を受けながらも、イエス様を傷つけ、裏切る者となってしまいました。人間は罪深い。与えられる愛に応えることが出来ない、自分勝手な存在です。そして、愛の裏切りの行為は、ユダにはユダ自身に悲劇をもたらし、またペトロは苦しみをもたらすことになりました。

そのような中、イエス様は、弟子たちのもとから去って行かれることになります。
イエス様が居なくなられるその時に、弟子たちに与えられた新しい掟―「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」。
「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉を、イエス様を信じる共同体に残されました。
「わたしが愛したように」とは、相手のすべてをありのまま、弱さもあやまちも受け入れるということでありましょう。たとえ、自分の側から見て、不都合なことがあったとしても、イエス・キリストにあって、愛しなさいと仰るのです。
 私たちは罪人です。誰一人罪の無い者はおりません。そして、さまざまな弱さを持つ者です。しかし、私たちはそのような者であっても、いえそのような者であるからこそ、イエス様にとことん主に赦され、愛されているのです。
主に赦され、愛されている者として、イエス様が残された「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」ということを、為せる私たちでありたいと願います。
ペトロのような衝動的な弱さを持っているかもしれない。私たちの意志は弱い。すぐに挫けます。愛は感情や一時の衝動的な思いでは乗り越えられないものがあります。何しろ、私たちは罪のある弱い者同士です。イエス様は無条件なまでに、私たちを受け入れ、愛して下さっていますが、しかし私たち人間に於いては、愛するということは、「愛する」という意志を持つことに於いて以外、持ち得ない場合があるのではないでしょうか。自らに弱さや欠点のある者であることを認め、同じように弱さや欠点のある隣人に対し、「にもかかわらず」愛する受け入れ、愛する意志を持つのです。その人のありのままを知り、受け入れることは葛藤が多くありましょう。愛は一方的なものではなく、受けて貰えなければ、愛を与えた側が、途轍もなく傷つけられるということが起こり得ます。愛すること、また愛を受けることは難しいものです。しかし、私たちは愛というものを、イエス様の愛を基点として、イエス様に倣い、葛藤しながらもそれでも愛することを選び、愛にとどまり、また自分に愛を与えてくれる人に、愛をもって応える私たちでありたいと願います。
そのような「互いに愛し合う」共同体として、私たちの群が豊かに育まれることを祈ります。また、私たちの日常のそれぞれの場に於いても、キリストにある愛を持って、すべてのことに向かい合う私たちでありたいと心から願うものです。