4月28日礼拝説教「主に願うことはかなう」

聖書 ヨハネによる福音書15章1~8節

願い

ヨハネによる福音書15章7節に記されているように「私たちがイエス様につながっており、イエス様の言葉が私たちの内にいつもあるならば、望むものは何でも願うことができ、それはかなえられる。」とイエス様は言ってくださいました。本当にそうであれば私たちはどんなに嬉しいことでしょうか。

私たちはいろいろな願いを持っています。人の願いは尊敬されたいという願いであり、この世のものを手に入れたいという願いです。尊敬されたいという願いは地位や名誉を得たいということにつながりますし、この世のものを手に入れたいという願いは金銭欲や所有欲といった欲望につながります。どちらも他の人との関係で優位に立ちたいという願いです。

一方、イエス様を知った人たちは用いられることや神さまのために働くことを願うようになるといえます。それは聖書に記された神さまの言葉を読んで生き方を変えられたからです。医者の中村哲さんはアフガニスタンで病気の治療を続けましたが、病気を無くすにはきれいな水が必要だということに気づき、井戸を掘り、用水路を建設する仕事を始めました。中村さんは他の人より良い生活をすることを願うよりも、アフガニスタンの人たちがきれいな水を飲むことができることを願いました。そして生涯を通してその事業をおこないました。彼の願いは聞き入れられて用水路が完成し、何十万の人々がきれいな水を飲めるようになり、また農業ができるようになりました。

イエス様を知るということが「イエス様につながっており、イエス様の言葉が私たちの内にいつもある」ということなのだと思います。そしてそのことは自分のために願うことをしなくなり、人のために願うようになることではないかと思うのです。今日の御言葉を通してこのことを考えたいと思います。

イエス様につながる

15:1「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。

イエス様はぶどうの木に譬えてイエス様と神さまの関係を示されました。父なる神さまは農夫であるという譬えは当時のユダヤ人にはなじみの深いものでした。農夫はブドウの木を手入れします。ぶどうの実が大きくなるように枝を剪定します。

15:2わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。

ぶどうは1年目の枝には実がつかないそうです。ですからぶどうの木がある程度成長するまでは実を収穫することよりも枝を成長させることに力を注ぎます。「実を結ばない枝」とはその年に延びる枝のことです。これを剪定することで栄養が2年目以上の枝にいって大きくて甘いぶどうの実ができるようになります。「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」というのは、このことを指しています。農夫は実を結ぶ枝を手入れして豊かな実がなるようにします。

15:3わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。

ここで話はイエス様が語る言葉のことに移ります。イエス様はご自分の言葉を聞いて受け入れる人は清くなるということを語ります。当時の人々は汚れた状態では神の祝福が受けられないと考えており、清くなることは大切な事でした。これは現代でも変わりません。清い生活という言葉があるように私たちは清さを求めています。イエス様は父なる神を指し示してくださいます。人がどのようにすれば清くなるかを教えてくださいます。その言葉を聞いて受け入れる人は清くなるのです。

他の人より勝っていたいという願いはイエス様の言葉によって打ち砕かれます。私たちは他の人と自分を比べる生き方から神さまに従い共に生きる生き方へと変えられるのです。

15:4わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。

ぶどうの幹と枝の関係を考えれば、枝は幹から栄養をもらわなければ成長できませんし実をつけることもできません。これは農業をしていない人でもわかります。ぶどうの枝が幹につながっていなければ実を結ぶことができないように、私たちはイエス様につながっていなければ実を結ぶことができない、とイエス様は言われます。イエス様につながるとは聖書の言葉に留まるということです。聖書には神さまやイエス様の教えが書かれています。それを聞いて、それに従うならば人は実を結ぶことができます。もしそうしないならば私たちは自分の力で実を結ぶことはできません。

15:5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

イエス様は私たちとご自分の関係を「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」と譬えられました。私たちは枝ですからぶどうの幹であるイエス様から切り離されれば実を結ぶことはできません。

ここで「人が豊かに結ぶ実」とは何かが問題です。倫理的に考える(つまり人間が考える善悪)なら、正直、親切、優しさ、大らかさなどの善い性質を備えた人になることでしょう。しかし、世の中の論理によって、このような良い性質は嘲笑の的となります。世の論理は、勝ち馬に乗ること、うまく立ち回ること、嘘をついてでも優位に立つこと、金や地位などを得れば勝ち組といった他者との比較における競争の論理です。

イエス様が私たちに示すもの(聖書が示すもの)は「神を愛し、隣人を自分のように愛する」ことです。私たちは神に愛されていることを知ることによって、自分が罪を犯す存在であることを認めることができるようになります。そして世や人のために尽くすことを欲するようになります。これが「豊かに結ぶ実」です。

15:6わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。

ぶどうの幹につながっていない枝は枯れて火に投げ入れられて焼かれます。それと同じようにイエス様の言葉を聞いて受け入れない人は投げ捨てられ、焼かれてしまいます。私たちは神を畏れなければなりません。神さまは必ずそのようになさいます。これが人間的な価値観とは違うところです。人間が作り上げた倫理などの価値観は否定することができますが、神さまの言葉は否定することはできません。神の言葉は決して変わらないのです。人間がそれを否定したらなくなるというようなものではありません。神さまの裁きは必ず下るのです。

15:7あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。

私たちがイエス様につながって、イエス様の言葉を聞いて受け入れるならば、そしてイエス様の言葉が心にあるならば、私たちはイエス様の言葉を基礎にしてそこからすべてのことを願うようになります。良い人間や完全な人間になるのではありません。人のために自分の力を使う人間になりたいと願うようになります。そんな願いは馬鹿げていると言われても、無視されても、ご苦労なことだと価値を認められなくても、そのように願うように変えられていきます。そのような人の願いは神の御心にかなうものになっていきます。

15:8あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。

私たちは「豊かに実を結ぶ」ことができます。それは私たち自身の能力や知力によるのではありません。イエス様の言葉を聞いて受け入れ、祈り求めることによってです。ここに「弟子」(マセーテース)という言葉があります。この言葉には「学ぶ人」という意味があります。イエス様の言葉を聞き受け入れるというのはイエス様の言葉を学ぶことです。弟子となった人は神さまの言葉を学び続けるのです。そしてイエス様の言葉を知ることによって私たちは豊かな実を結ぶことができるようになります。すでにキリスト者は柔和や豊かな交わりや喜びという豊かな実を結んでいます。自分のことを気にかけなくても神さまが守り導いてくださることを知っていますから、他の人のために働くことへと目を向けることができます。そのような実を結んだ私たちによって神さまは栄光をお受けになります。

秋元梅吉さんの願い

目が不自由な人たちのために点字聖書を作った目が不自由な秋元梅吉という人がいました。この人はヨハネによる福音書9章1節から3節を知って人生の意味を知った人でした。

ヨハネによる福音書9章の1節から3節には、生まれつき目の見えない人に対して、弟子たちが、「誰の罪でこの人は生まれつき目が見えないのですか、本人の罪ですか、親の罪ですか」とイエス様に聞いたときに、イエス様は、「誰の罪のためでもない、ただこの人に神の業が現れるためである」と答えている有名な言葉があります。

この言葉に、秋元さんや目が不自由人たちは自分が視覚障害であることの意味を見出していったのです。過去からの因果から解放されて、未来の自分の働きを志向していきました。ある意味、折角自分は目が不自由になったのだから、同じ辛い思いをしている目が不自由な人たちのために、自分にしかできな仕事をしようと立ちあがったのです。同じ境遇の人々の幸せのために、自分が働くという、大きな希望と喜びを見出して、活動をし、またイエスの福音を伝えたのであります。点字聖書を作りたいと願って親友の伊藤福七に秋元は「どうだ、伊藤君、聖書のために死なないか」と語り、伊藤は並々ならぬ秋元の決意に動かされて、また、本当に聖書のためなら死んでもいいと思って、それを引き受けました。1922年、大正11年のことでした。当時の点字製版は一点一点2枚重ねの亜鉛板に点字を打ち込むものでした。この時のことを伊藤はこのように言っています。

 「私はどの一字によって目の不自由な人が信仰を起こすかも知れないと思いましたので、一点一点祈りながら打って参りました。」

これは祈りですが、目の不自由な人が救われるようにという願いを込めて点字を打ち込んだのです。この願いは聞き届けられて彼らは点字の聖書を出版することができました。

イエス様の言葉を聞いて受け入れたならば、その人が願う願いはこのようにして叶えられるのです。もちろん努力が必要です。また一人の人の願いで出来上がるのではなく多くの人が願いを引き継いでかなうこともあるでしょうが、イエス様につながっているならば願いはかなうのです。

日本の福音伝道のためにと願い、説教塾を始め、多くの牧師を育てた加藤常昭牧師が先週金曜日に95歳で天に召されました。加藤先生の願いもかなったといっていいでしょう。私も説教塾の一端に加えさせていただき加藤先生や説教塾の仲間たちと研鑽を積ませてもらいました。

使徒パウロは自分の肉体にあるとげを取り去ってくださいと何度も願いましたが、主は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリ12:9)とパウロに告げ、パウロはそれを信じて主の宣教の働きに仕えて多くの人に福音を伝えました。パウロの願いはその主の言葉でかなったのです。

御言葉にとどまり願うことはかなう

「つながる」とはイエス様に留まること、すなわち御言葉を聞いて受け入れることです。そうすれば私たちの内にはイエス様の言葉が響きます。そうするとその人は神の御心にかなうことを願うようになります。御言葉によって神はその人に何かの使命を与えておられることを知るようになります。病気が治ることや勝ち組の人生となること以上に大切なことに目を開かされるのです。