「体は主のため、主は体のため」(2020年10月18日礼拝説教)

詩編146:1~9
コリントの信徒への手紙一6:12~20

 皆様は、「自分の体」はお好きですか?私は、あまり気に食わないけれど、愛着は持っている、これが私なんだから受け入れている、何とか体の元気を保ちたい、歳を重ねることで変化していく体に、私自身は現在はそんな感じで付き合っているように思います。
 でも、パウロはこんな私の体を、「キリストの体の一部」であり、また「神の神殿」と語ってくれているのです。何と不思議で、また喜ばしいことでしょうか。

 体のことを考えていると、不思議な気持ちにもなります。お母さんのお腹の中で育まれて、小さな体で生まれて、それがどんどん成長して行く、体と共にさまざまな思い、感情、心―聖書が語るところでは、「心」というのは、人間の意志を司る器官と理解をされています―もそれなりに成長し、知識もそれなりに増して行きます。
 体と共にさまざまな感情や思いを体験することになり、意思決定をひとつまたひとつとしていくようになり、学校で、またさまざまな生きる経験によって知識は増していき、「私」という人格を形成して行きます。
 ある時、体は成長を終え、さまざまな過程を経て徐々に衰えて行きます。しかし、人の思いや心、知識は体の衰えには比例せず、より個体差のある複雑な課程を辿ると言えましょう。でも、この体のある限り、思いや感情、心と体はひとつです。体の健康は心の状態でと大いに関わっています。
そして、いつしか、この体は朽ちて行きます。体が朽ちる時、それを私たちは「死」と呼んでいます。このことを思う時、体というのは、私たちの「命」そのものだということを覚えるものです。

 私たちは「体」という時、この形づくられた「体」を思いますが、実は、旧約聖書に於いて、私たちの認識するところの「体」に対応する言葉はありません。対応出来る言葉を探しますと、「肉(バーサル)」という言葉がそれに当たりましょう。形づくられている体ではなく、「肉」「肉塊」なのです。土の塵で形づくられた肉塊に神の息が吹き入れられて人は生きるもの=命となる、もっと言えば、肉と共に、思いや感情、心も伴う、人格を持った「魂」となる、聖書に於いて「魂」とは、そのような理解です。
 神に吹き入れられた息=霊によって、肉と思いや感情、心はひとつとなる。そのような存在を、旧約聖書は人と呼び、命と呼び、また魂と呼んでいます。詩編で「我が魂よ、主を賛美せよ」という言葉は、「存在のすべて、全身全霊で主をたたえよ」という意味の言葉です。体内の一部分の「魂」が神を賛美するということではありません。体と思いや感情、心、すべての人間たるものはひとつであって、分離していない、このことは旧約、新約ともに根底に流れている人間観です。

 旧約聖書には「体」という認識と言葉が無いのに対して、新約聖書には「体」に類する言葉があります。体=形づくられたこの体のことです。パウロは、「体」ソーマという言葉を今日の御言葉はじめ、多く語っています。また「復活の体」ということにもソーマ、同じ言葉が用いられています。イエス様ご自身も「体」ということをよく語っておられます。たとえば「体のともし灯は目である」というように。

 さて、この体ですが、ヘレニズム・ギリシア文化の中では、非常に軽視されるものでした。「肉体は魂の牢獄である」と哲学者のプラトンは申しました。また近年に於いて、ある人は「体は自動販売機で、魂は自動販売機の中に閉じ込められている天使だ」と言った人もおります。日本人もどちらかと言えば、これらの言葉に近い人間観、死生観を持っているのではないでしょうか。死んだら体と魂は分離する―魂は、体から抜け出て浮遊する、魂は体よりも崇高なもの、永遠のものというような。「魂」という言葉の概念を、私たちは聖書を読む時、変えなければなりません。

 今日の旧約朗読詩編146編では、「霊が人間を去れば人間は自分の属する土に帰り、その日、彼の思いも滅びる」とありましたが、神の息=霊が人間を去れば、思いもすべて人間存在のすべてが失われる、人間という存在自体が生ける魂であり、魂が体から抜け出るという発想はまるでないのです。この言葉は死んだら無に帰す、そのような言葉にも聞こえますが、それは「君侯=人間に寄り頼む者」に対する厳しい言葉として捉えるべきでしょう。この詩のその先には、主を待ち望む人の幸いが語られており、その希望は、新約聖書に繋がる、死の滅びを超えるものであることを予兆しているように読めます。

 パウロは、旧約聖書に於いて、命=魂とは、肉塊に神の息が吹き入れられて、思いや感情、心やさまざまな知識を持つ人となる、それらのすべてが人を形づくると考えられていることを踏襲していると言いましょうか、パウロはユダヤ人ですので、ギリシア的な霊肉二元論と言われる考え方の影響を受けておらず、徹底的に旧約聖書の人間観を持ち、肉と思いや心のすべてを合わせて人、命、魂となるという考え方に立っており、「体」に対して、プラトンの言うような「魂の牢獄」のような考え方は持っておりません。パウロにとって「体」とは人格そのものであり、面倒くさく申し上げてきた聖書の「魂」という言葉に非常に近く、体と魂の分離という考えはパウロには無いのです。そしてパウロは徹底的に「体」に拘るのです。
何故なら、イエス・キリストは人間の「体」を持って世に来られた神であられ、その体を、十字架の上で裂かれ、血を流され、体をもってすべての人間の罪の贖いとなられたからです。「主は体のためにおられるのです」、パウロは13節で語っています。

それに対して、ギリシア・ローマ文化の中で育まれている人たちが多かった、コリントの教会の人々の中には、当時「グノーシス」と呼ばれる、体と魂の分離を唱える思想の影響を受けている人たちがおりました。これはギリシア文化の中で育まれた思想で、プラトン的な思想で、体と心、人格は別のものであり、体はないがしろにされるもので、魂は崇高なもの、とそのような考え方です。パウロ自身が立て上げた教会で、パウロの教えがはじめにあった筈ですのに、コリントの教会には、そのようなギリシア的な考え方を、イエス・キリストの信仰に持ち込む人々がいたのです。コリントの教会は、さまざまな面で問題の多い教会でした。

 12節の「わたしには、すべてのことが許されている」という言葉は、信仰によってキリストによって救われ、贖われた者の自由を語る、コリント教会の「標語」のようなものであったと言われているのですが、「すべてのことが許されている」ということを、コリントの教会の人々は、飲み食いも奔放、性的なことに於いては放縦であることを、「自由」と呼んで、コリントは港町で、神殿娼婦をはじめ、体を売る女性たちが多い町だったのですが、そのような女性たちと交わったり、奔放で放縦な生活を、イエス・キリストを信じると言いながら相変わらず続けている人々がいたのです。
パウロは、そのように体を疎んじるがために放縦に身を任せている人々に対し、「体とは何か」を語り、更に戒めているのです。

 キリスト者は自由である、ということについて、宗教改革者のマルチン・ルターの有名な言葉があります。「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない」また同時に「キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する」という言葉です。これは律法から解き放たれ、またルターの時代のカトリック教会の権威や規則からの自由であり、ただ「信仰によって」自由な存在であると語っています。
更に、与えられている自由を何に使うのか―勝手気ままに振る舞ってよいというわけではなく、その自由を隣人を助けるために僕となり、与えられている自由をキリストがわたしのために為してくださったように、自由を隣人のために用いる、そのような自由を語っていることであり、それは私たちが目指すべき自由であることを覚えたいと思います。

「食物は腹のため、腹は食物のためにある」、この言葉も恐らくはコリント教会の誤った信仰理解を持つ人たちの主張する言葉と思われるのですが、パウロはこの言葉に対し、「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにあるのです」と応じます。確かに世の体に於いては「食物は腹(胃)のため、腹(胃)は食物のため」でありましょう。しかし、世の体はいつか朽ちるものです。「神はそのいずれをも滅ぼされます」とパウロは語っています。これを語るパウロは、「復活の体」を見据えて語っています。

 そしてイエス・キリストの信仰によって贖われた者たちの体は最早「私自身」のものではなく、「主のもの」とパウロは語ります。そして、「主は体のためにおられる」と。不思議な言葉です。
 イエス様は、人間の体をもって世に来られた神。その体を、私たちの救いのために、十字架の上で献げてくださいました。私たちは、イエス様の体と血が私たちの罪に対する罰の代価として支払われて、私たちはただ神の憐れみによって、自らの罪を知り悔い改め、信仰によって罪赦され救われました。
 イエス・キリストを信じて、洗礼を受けた者は、罪に死に、キリストと共にある命に生かされることになります。信じて洗礼を受けること、そのことによって17節にありますように、私たちは主に結びつく者とさせていただき、主とひとつの霊となる―それは、永遠なる神と共にある、永遠の命を受け継ぐ者にさせていただくということです。

 皆さん、このことを是非とも信じていただきたいのです。

 イエス・キリストは、十字架の上で死なれ、葬られましたが、復活の体、新しい体をもって蘇えられました。イエス様は、見えない霊に於いて復活をされたのではなく、「体をもって」復活されました。
そして私たち、イエス・キリストの十字架の上で裂かれた体と流された血によって贖われた者たちは、主に結びつけられ、主とひとつの霊となる。世にありながら、私たちの体は、復活のキリストの体に結ばれて、復活のキリストの体の一部とさせていただき、今はこの罪の世にあって、神から引き離された場所で苦労する私たちですけれど、聖霊が私たちの内側に宿ってくださり、聖霊がイエス様の霊が私たちの体のうちに絶えず居てくださる、そのような神の神殿としての体とされているのです。
 そして、私たちのこの世の体はいつの日かやがて「死」という時を迎えて、この体は土に帰りますが、信仰によって贖われ、既にキリストに結ばれて、聖霊が宿って下さる体とされていた、その体=人格は、キリストの体の一部と既にされており、イエス・キリストが体をもって私たちを贖い取って下さり、体をもって復活をされたように、やがて私たちも何時の日か、永遠の命を受けとると共に、復活の主の体に結ばれて、新しい復活の体をいただく時が来るのです。

 私たちの体は既に、そのことが約束された体です。聖霊を宿す神殿として今を生きており、この体は、復活の体に結ばれて行く体です。聖霊を宿す神殿ということを言い換えれば、「イエス様が絶えず私と共におられる体」ということになります。
 
 そして、そのような者とされているのですから、最早、この世の放縦に身を任せて、自分の体を汚してはいけません。自分の体に対して罪を犯してはなりません。
 私たちの体は、主のものなのです。体を大切にしなければなりません。この体、私たちひとりひとりの人格は、イエス・キリストの体という代価を払って買い取られた体です。聖霊が宿る神殿であり、永遠の命、復活の体に結びついて行く体だからです。
 そのような体を既にいただいている私たち―これからいただこうとしてる方たち―、自分の体で主の栄光を表すものとさせていただきたいと願います。
 体は主のもの、それであるなら、今の体の不自由も困難も、聖霊が宿る神殿であり、主が共にいてくださる体なのです。弱く思えても、主の体。主が贖い取ってくださった体です。
 日々、この体と共に、主を証ししつつ、歩ませていただきましょう。主は私たちのうちにおられます。