「主の祈り」(2020年10月4日礼拝説教)

詩編148編1~5
マタイによる福音書6:9~15

「主の祈り」、この大切な祈りをどのようにお伝えしたらよいのか、実は迷いました。そして今日は「主の祈り」という祈りの、その概観と共に、「祈り」ということについて主にお話をさせていただき、後に数度に分けて「主の祈り」の祈りの内容についてお話をさせていただくことにいたしました。

主なる神は、イエス様を通してご自身を現されました。「神」と言うと、人間にとってあまりにも遥かに遠い存在と思えてしまいそうになりますが、私たち、イエス様を知るものたちにとって、神はあまりにも近いお方ですね。祈る時、目を閉じれば「そこに」主がおられるのですから。
主なる神は、人間を愛し、罪の故に神から離れてしまった人間を愛し憐れまれるが故に、自ら罪の世に降られ、人となられることで、神の方から人に近づいて来られました。2000年前、人間に理解出来るお姿で現れ、ご自身を明らかにされました。それ故、私たちは聖書を通し、イエス様の行い、その言葉を通して、神のお考えと御心を知ることが出来るのです。そして、私たちが祈りをささげる時、主はすぐ近くにおられます。(フィリピ4:5)
 イエス様の語られた山上の説教を読んで来ておりますが、そのはじめの8つの幸い、それらの多くは人間の感情や視点から見ると「幸い」とは言い難い、人間の価値観とはま逆とも言える幸いの姿が語られていました。それに続く言葉も、人間の持って生まれた自然の感情としての、腹を立てる、姦淫、離縁など、ひとりの人を大切に出来ない姿、自分をひけらかす態度、復讐心など、それらに対し、神が人間に求める「あるべきあり方」を、イエス様は語っておられます。

 人間は神の被造物でありますのに、はじめの人アダムの罪によって神から離されてしまったため、私たちには神が見えず、自分のこの体と心と目に見える世界がすべてのように思えてしまい、目の前の世の状況に翻弄され、時に生きる道が見失われたように思われたりして、自分の内側に閉じこもりがちだったりしますが、人間の存在というものは、本来、天におられる神との関係の中にあって、神御自身の価値、神の御心の中にあるものです。
私たちが心を拓いて、見えない天に向かって神を求めるならば、神はそこにおられます。「天とはどこか」、それは神がおられるところです。主なる神は「私たちが心を拓いたときに、そこに神がおられる」ことに、私たちが気づくことを待っておられます。
人間の正しいあり方は、人間自身が自分を規定するというよりも、本来「創造主なる神によって規定されている」と言って良いと思うのです。
 人間の生きる世に起こるさまざまな理不尽なこと、また今のコロナの問題も、不完全で悪の力のはびこる罪の世の出来事ではあり、人間の尺度で見れば、「何故」と思えてしまいますが、しかしそれらすべてのことが起こる時も、「神はそこにおられる」ことを覚え、神の御手のうちに今あることを信じ、信頼して今を生きる時、私たちは自分自身の心の思い、またこの世の限界を超えた、神の御心を生かされていることに気づくことでしょう。

 そのように神との正しいあり方、神に創造された者としての「あるべき姿」を知り、神に立ち帰るあり方を、イエス様は山上の説教に於いて示されました。
 そして、「こう祈りなさい」と「主の祈り」を教えてくださいました。私たちは毎週礼拝で「主の祈り」を唱えますが、主の祈りはイエス様が私たちに教えてくださった祈り、イエス様ご自身の祈りの言葉なのです。このことを、私たちは深く心に留めるべきです。

 イエス様は、父なる神に祈るお方でした。イエス様は、神の御子として、世に人としてお生まれになられました。イエス様は父なる神と同じおひとりの神様であられますけれど、父の内におられるお方であり、またイエス様の内に父がおられる、とのような、聖霊と共に、三つにいましてひとりの神であられます。このことは、信仰によって受け入れる信仰の秘儀と言えましょう。
そのような神が人となられた主、世にあるイエス様の働きは、父なる神への祈りによって始まり、祈りによって担われておりました。時にひとり山に登られ夜を徹して祈られたことが語られています。イエス様が父なる神にささげる祈りを通して、神の業がひとつ、またひとつと拓かれ、御心が顕されて行きました。祈りには、絶大な力があるのです。
 そして、イエス様が教えてくださった「主の祈り」を、私たちは唱えることによって、イエス様の祈りとひとつになることが出来るのです。これほど確かな祈りがあるでしょうか。

 本来祈りとは、自らの心の静寂のうちに神と共にある姿です。私たちは祈る時、言葉を探したり、選んだり、また心の内で言葉にならない呻きのような祈りを神に献げることがあります。
言葉にならない呻きも主は聴いていてくださいますが、まことの祈りを献げるために、私たちは心が常に神との関係のうちに絶えず新たに目覚めていなければなりません。そのためには、私たちに働いて下さる聖霊を求めることは大切なことです。そして日常の生活に於いては、イエス様の御言葉に絶えず立ち帰るものでなければなりません。

礼拝では定型の祈りとしての「主の祈り」があり、自由祈祷があります。
 以前礼拝で、私は小学校5年の時に今日の御言葉を読んで衝撃を受けて、それまでくどくどと寝る前に祈るというか、神に向かってつぶやき続けていたことを止めて、「主の祈り」だけを祈るようになったという話をさせていただきましたが、教会の祈りは、「主の祈り」と「自由祈祷」の両輪です。
 定型の祈りということについて、本日は旧約朗読で詩編をお読みしましたが、詩編とは旧約の時代の礼拝の賛美、定型の祈りの言葉でした。詩編に於いては、祈るべき言葉が先にあります。詩編を歌い、唱和する時、発すべき言葉が先にあり、心は発する言葉と声に従わなければなりません。「主の祈り」も同様の祈りと言えましょう。
 私たち人間は、生まれながら神から離れてしまっており、神は私たちにとってあまりにも深く大きく、神秘に満ちておられるので、私たちは自分からは「どのように正しく祈るべきか」を知りません。
 そのような私たちに、イエス様は祈りの言葉を与え、祈ることを教え、イエス様から与えられた祈りの言葉によって神に近づくことを得させてくださいます。

さて礼拝で「主の祈り」を唱える、唱和する、司式者がそのように語ることがありますが、信徒の時代、礼拝の司式をする時、「唱える」「唱和する」という言葉遣いに、私はある時少し抵抗を覚えて牧師に「唱和という言葉で良いのですか」と尋ねたことがあります。牧師は「それで良い」と答えられました。
 与えられた言葉を口に出して「唱える」時、私たちは、はじめは心と、発する声が一致していないと思うかもしれません。分からない、これは私の言葉ではないと思ってしまうかもしれない。しかし、イエス様が教えてくださった「主の祈り」を私たちが「唱える」時、その教えられた祈りを言葉に大切に言葉に出し唱え続けることによって、はじめは単に口から「発する言葉」であったものが、私たち自身のものとなって来ることを知ることでしょう。
「主の祈り」はイエス様が私たちに与えてくださった祈りであり、「言は肉となって」私たちのうちに宿ってくださり、単に祈りの言葉を教えてくださるだけでなく、それを超えて私たちの存在を形作り、イエス様の思いに私たちを導いてくださる祈りなのです。
私たちは自分自身の心をもって、イエス様から私たちに与えられた、教えていただいた言葉「主の祈り」を迎え入れ、その言葉に向かって自らを開き続けることによって、私たちは、主が私たちと共に、どのように祈ることを望んでおられるのか、分かるようになって行くことでしょう。

「主の祈り」の内容ですが、「主の祈り」は、一つの呼びかけと、七つの願いからなっています。この願いのうちの三つは「あなた」と呼びかける祈りであり、四つは「私たち」の願いです。
呼びかける「あなた」とは「天におられるわたしたちの父」。こう呼びかけてしまうと、とても畏まった言葉ですが、原文のギリシア語―昨年のマルタの会で、皆様と共にギリシア語の主の祈りを唱えましたが―では、呼びかけの言葉は「パーテール」、お父ちゃん、と子どもが無邪気に呼びかける言葉から始まっているのです。ギリシア語は、主語動詞述語の並びのように文法が明瞭ではなく、一番伝えたい言葉から順に並べられているということなのですが、一番伝えたい始まりは「お父ちゃん」という呼びかけなのです。
三つの「あなた」は、「御名があがめられますように」「御国が来ますように」「御心があらわされますように、天におけるように地の上にも」。これら、日本語訳には「あなた」が語られていませんが、三つすべてに「スゥ」=あなた という言葉が原語にはあります。
また、「主の祈り」はモーセに与えられた十戒とも関連づけられます。
十戒の第一戒めは「あなたには、わたしをおいて他に神があってはならない」から始まります。「主の祈り」の始まりの、「パーテール=おとうちゃん」という信頼の言葉は、十戒の第一戒と符合します。そして、第四戒まで、何よりも主なる神を重んじることを告げています。
このように、「主の祈り」に於いても、「十戒」に於いても、まず神のことが優先され、そこから自ずと人間の正しいあり方についての配慮が引き出されていくのです。
ギリシア語で「ヘーモーン」=「私たち」の願いとして語られる祈りの始めは、「日毎の糧」を求める願いであり、二つ目は「罪の許しを乞う祈り」、三つ目は「誘惑に陥らせないでください」という願い、四つ目は「悪い者から救ってください」という祈りです。

 神が人間に先立ってあられること、それは神によって創造された人間のあるべき姿です。人間は自分中心に物事を考えてしまいますが、神中心の生き方に変えること、これは、神の求める悔い改めであり、回心です。人間は正しく求め、願うことが出来るためには、真理のうちに立っていなければなりません。何よりも真理とは、「神の国と神の義を求める」こと(マタイ6:23)です。
まず、神に対して自らを開き、神との正しい関係に入ること、神がどのようなお方で、何を求めておられるのか、そのことをまず知ろうとすること無しに、神を人間が知ることは出来ません。自分の考えや思いがあくまで先立つならば、どこまでも神との正しい関係には入れないのです。
 そのため、主の祈りは神をもってはじまり、そこから人間の願い、あるべき姿へと導いて行くのです。

「主の祈り」これを、私たちは、「私」の祈りとし、イエス様と一つのさせていただくために、日々、御言葉に自分を照らし合わせて、行動に於いても絶えず、イエス様の言葉に立ち帰ることが大切だということを、今日は覚えたいと願っています。
 そして、今、世界が大変な時期を迎えていますが、絶えず祈り、神が「そこに」居てくださることを信じて、祈りによって強められ、希望のうちに日々を歩む者であらせていただきたいと願っています。