「愛は律法を全うする」(2020年12月6日礼拝説教)

エレミヤ書31:1~6
ローマの信徒への手紙13:8~10

 蝋燭に二本目の灯が灯りました。まことの光なるイエス・キリストの到来の希望を掲げて、主のおとずれが静かに、一歩一歩近づくことに耳を澄ませつつ、このアドヴェントの時を過ごさせていただきたいと願っています。

 今日は、旧約朗読としてエレミヤ書31章をお読みしましたが、今日のこの御言葉も、先々週のミカ書、先週のイザヤ書に遅れること200年後、紀元前6世紀のユダ王国の預言者であるエレミヤによる「終わりの日」=終末の預言です。
 6節で「見張りのものがエフライムの山に立ち 呼ばわる日が来る。『立て、我らはシオンへ上ろう。我らの神、主のもとへ上ろう』と語られていますが、この御言葉は、先週のイザヤ書のエルサレムが贖われ、エルサレムから終わりの日の救いが始まる、と語られていたことと、ほぼ同じ事が語られています。聖書に語られる神の言葉は、年月を経ても変わらない、同じことを200年後にも告げておられる、そのことに驚かされます。

 そして今日注目するのは3節です。
「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることのない慈しみを注ぐ」。
 この短い主の言葉ですけれども、ここには旧約聖書ヘブライ語に於ける「愛」を表す大切な言葉が二つ使われています。「とこしえの愛」「あなたを愛し」は、ヘブライ語でアハバー。この言葉は、神の一方的な選びのもとに、「欲する」という意味から派生して、ギリシア語のエロースの領域も含む、激しい愛、神の人間に対する激しく狂おしいまでの熱情の愛を表す言葉です。主なる神の私たち人間に対する愛は、激しいほどのものなのです。このことは、旧約聖書の随所に読み取れることです。
 そして「慈しみを注ぐ」、この「慈しみ」もヘブライ語のもうひとつの「愛」という言葉であり、これはヘブライ語でヘセド。ヘセドという言葉は、「契約の愛」を表す言葉で、神の愛に対して、人間は応答することが求められる愛の形を表します。言い換えれば、律法の愛とも言いましょうか。

 律法は、主なる神が、その憐れみと愛の熱情によってイスラエルの民を一方的に選び、ご自身の民とするために、出エジプトをさせることを経て、預言者でありイスラエルの指導者モーセを通してイスラエルの民に与えられた神の掟です。神と人との間が契約の関係に入るための掟であり、神の定められた掟、律法に、人間が応答すること、律法を守り行うことによって成り立つ愛。ヘセドとは、そのように神の憐れみと愛に、人間が応えること、応答することが求められる愛なのです。

「愛」ということ、私たちの人生を取り巻く事柄の中で、恐らく最も大切な出来事なのではないでしょうか。人間は生まれたその時から、さまざまな愛の中に生きるものであり、愛を受けることも、愛を与えることも、また愛を失うことも、私たちの生涯、全人格の形成に於いても、最も影響を与える事柄で、私たちは愛に喜び、愛に苦しみ、愛に悩み、愛が失われたならば、自分の存在が無くなると感じられるほどの、とてつもない喪失感に襲われることでしょう。
 しかし本当に愛って難しいです。一方的に受け取られないままに与え続けるならば、与える側は傷つくだけになる場合がありましょうし、一方的に与え続ける相手に知らず知らず借りを作ると言いましょうか、そして与えられた側の重荷になることがあり得ましょう。また愛を与えられながらもそれを受けず、退けることも、余程冷酷でない限り、心に負債というか、重荷のようなものも圧し掛かってくることでしょう。
 しかしながら、それがお互い様と言いましょうか、互いに求めて互いに受け取り合う、そのような「借り」「負債」であるならば、それはそのように深く関わりあう者同士、人間同士のことですから困難がありましょうが、互いに忍耐と練達へと導くものとなり得ましょう。そのように「互い」の「借り」だけは、「認める」、一方的な「借り」ではいけない、今日お読みしたローマの信徒への手紙13:8の「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」とパウロは語っているのだと思われます。それがなされるためには、互いに自分自身を謙遜に見つめて、自らを悔い改めることから始めることが必要でありましょう。

 結婚をする時、私は牧師から結婚カウンセリングを受けました。その時語られたことで一番印象に残っていること、多分牧師が一番結婚をするふたりに伝えたかったことは、「愛は情熱や感情ではないんですよ。愛は愛するという意志を持つことです。愛は愛するという意志なんですよ」と言われたことです。そして「これからいろいろなことが起こると思いますが、互いに愛する意志を持って、ひとつひとつの物事を選択し、生涯の終わりに『共に生きてよかった』と思える歩みをしてください」と仰いました。
 恋は一時の感情で、若さ故の情熱ですとか、いろいろなことが重なり合うものでしょうが、結婚するということは、確かに情熱だけでは生きられない。ここに集う皆様の多くは恐らくご経験のことと思います。

「愛」という言葉を表す旧約聖書ヘブライ語は、アハバー=激しいまでに求める愛、そしてもうひとつヘセド=応答が求められる愛であることを先ほどお話ししました。
 新約聖書ギリシア語に於いて、愛を表す言葉は、アガペー、フィリエ、エロース、三つの言葉があります。「恋」の感情は、エロースから始まるものでしょうが、この言葉は新約聖書には一度も語られません。
 新約聖書で最も使われる「愛」とは、アガペー。
 アガペーは、よく「母親の子に対する無償の与える愛」に譬えられ、また「見返りをもとめない愛」とも言われたりします。母の愛は無条件に子どもを愛します。自分の命に代えて子どもを守ることすらあります。そしてアガペーの究極の姿とは御子イエス・キリストの十字架です。神がひとり子を世にお与えになり、ひとり子を信じる者をひとりも滅びないで永遠の命に至らせるために、大切な御子を犠牲にされた、その愛です。
 私たちは、主の十字架の愛によって罪を買い取られ、贖われ、罪赦され、救われました。またそのようにされようとしています。救われた者には救われた者に求められる、新しい生き方があります。神の愛に応答して生きる生き方が求められて行きます。

 神の愛、アガペーとは、旧約聖書のヘブライ語のアーハブとヘセド、激しいまでの熱情の愛と、与え続ける果てには、必ず愛に対する応答があることを熱望すること、それが重なり合う愛だと私は理解します。
 旧約聖書の歴史というのは、神の激しいまでの愛に対して、人間がどこまでも主なる神に背を向けて、主をないがしろにして、罪に生きる歴史です。しかし、神の愛はどこまでも人間が神の愛に応えることを激しいまでに求め続ける愛なのです。「聖書は神から人間へのラブレター」とも言われたりしますが、そのように、ご自身が与える激しいまでの愛へ人間が応えること、人間の応答を求めて、罪の堕ちた人間を救い、ご自身と共にある場所に奪還するために、ご自分に相応しいものとして人間が神に応答して生きるようになるために、人間を探し求め、追い求める、そのためには命を捨てるほどの愛、それがアガペーなのです。

 しかし聖書が語る愛、アガペーとは「愛しているから何をしてもいいよ、いいよ」と言う生あたたかいような生ぬるいような、私たちが甘えて願いやすい「愛」とは違う、応答をも激しく求める愛であることを覚えなければならないと思います。例えば、コロサイの信徒への手紙3:12には「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい」と語られており、神の愛に応えて、与えられた者はいかに「応えるか」が求められていることが分かります。

 そして、「愛」アガペーという言葉は、名詞として「愛」という「存在」「観念」として語られ使用されるよりも、アガパオー=愛する、という意志と行動を表す動詞で使われている方が圧倒的に多い言葉です。またフィリエ「友愛」という言葉もフィレオーという動詞で使われることが殆どです。
「愛」とは「愛」という「漠然としたあり方」や「観念」のようなものというよりも、「愛する」という能動的な「動詞」が使われることで表されるように、行動、意志が伴うものです。
 愛するためには、相手の弱さや欠点も含めて、欠けた者同士、認め合い、受け入れ合う意志が必要でありましょう。このことは時に、非常に時間が掛かったり、困難を覚えることもありましょう。しかし、主は「互いに愛する」、感情ではなく意志を持つこと、愛するための決断をしていくことを、私たちに大切なこととして教えておられると思います。

 そして、お読みしたローマの信徒への手紙13:8、「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」とパウロは語っています。この「愛し合う」はアガペーです。主の命を捨てるほどの愛によって救われた者は、救われた者同士として、「互いに愛し合う」、愛の重荷を担い合うということ以外、借りを作ってはいけない。互いに借りを、重荷を担い合い、愛し合って生きることを、主は私たちの隣人との関係に求めておられます。そのように生きる者に対して、「人を愛する者は、律法を全うしているのです」とパウロは語っているのです

 人間同士が感情の赴くままに「愛する」のであれば、それはエロースでありましょう。恋愛に於ける「片思い」は、エロースに属するものですが、それも時に素敵な心の経験にはなりますが、エロースは時間と共に失われていく儚い愛です。また愛の一方通行は良からぬ「借り」「負債」を負ったり、相手に「借り」や「負債」を与えたりして、傷だけが残ったりします。愛は互いに育むものです。

 神の愛アガペーとは、激しくもまた、「変わることのない慈しみ」です。
 神は罪によって神から離れてしまった人間を、それでも激しいまでに愛して、人間を罪の縄目から救うために、神の御子イエス・キリストを世にお遣わしになりました。そのお方は、「神の言葉」であられ、また、「御もとにあって、・・・日々主を楽しませる者」(箴言8:20)であられたお方。そのお方を、人間を救うため、世に送られ、すべての人の罪を償う生贄とされたのです。そこまでしなければ、人間の命を、根源的に救うことが出来なかったのです。神の私たち人間に対する愛は、最も大切なもの、命を捨てるほどの愛なのです。
 命を捨てるほどの愛に今、私たちは生かされている私たちひとりひとり、そして主にある共同体は、互いに愛し合う、互いに借りを、負債を負いつつ、「愛する」という意志をもって向き合うことを主は求めておられます。

 時に優しい温かい神の愛をひたすらに受け続けることがキリスト教信仰の恵みだと思っておられる方もおられますが、そこにとどまり続けることは、神の愛、アガペーに応える生き方ではありません。「受けるより与える方が幸いである」とイエス様は語られたとパウロが語っている言葉が使徒言行録20章で記されてありますが、私たちの信仰はイエス・キリストの十字架によって罪赦された者として、命を捨てるほどの愛に新しく生かされている者として、自覚をもって、主の恵みに相応しく、自分自身を変革していくこと、主を絶えず見上げ、主を礼拝し、御言葉に聴き、絶えず祈ること、そのことを通して、与える者となり、そこで初めて「互いに愛し合う」ということが実現することを覚えたいと思います。

 また信仰の違う、まだ主を知らない隣人であるならば、まずその隣人のために祈り続けること。祈ることは愛のしるしです。祈りに神が働かれ、神の御心は顕されて行きます。祈っても求めても、しかし向き合い、愛し合うことが拓かれないならば、主は別の道を備えていてくださっているということに違いありません。

「互いに愛し合うことは律法を全うする」のです。神は私たちが神の愛に応えて生きることを求めておられます。神の愛に応えて生きることを私たちがひたすらに求めるならば、主なる神は私たちに「互いに愛し合う」その道を教えてくれないはずはありません。時間が掛かることであり、また知恵が必要なこともありましょう。神の愛アガペーが罪ある私たちの間に実現するためには、信仰の鍛錬が必要にもなりましょう。
 しかし、命を捨てるほどの愛が、今私たちを包んでいてくださいます。主はもうすぐ来られます。信頼と希望を絶えず掲げて、私たちは私たちの「隣人」とされている人たちを、イエス・キリストの愛を通して今一度見つめなおし、「互いに愛し合う」その借りだけを担い合うことを求めたいと思います。