「洗礼者ヨハネとイエス」(2020年12月13日礼拝説教)

士師記13:2~5
マタイによる福音書11:2~19

 三本目の蝋燭は、少し明るいピンクです。待降節は自らを悔い改めて、イエス・キリストが来られる道を整える時。
今日は洗礼者ヨハネのことをお話ししますが、洗礼者ヨハネという人は、イエス様が来られるための道を整えるために、イスラエルの荒れ野で人々に悔い改めを迫った人であり、イエス様に洗礼を授けた人でもあります。
 先々週の説教で、私たちキリスト教徒の生き方は、「終わりの日」=イエス・キリストが再び来られる日が来ることを見据える生き方であり、そのことを心に覚え、待ち望みつつ、日々落ち着いて、なすべきことを為し、猛り立ったり、過度に沈み込んだりするのではなく、絶えず祈りつつ、御言葉に聞き従いつつ、日々新しい種を蒔き続ける、心を絶えず天に開いて、前に進み続けるのだ、そのように語らせていただきました。私たちは、この待降節だけでなく、絶えず、そのようにして主の道を整えつつ歩むことを、聖書を通して教えられています。「主の日」は突然、やって来るからです。
 しかし、今週の蝋燭がピンクということは、そのような緊張のある生き方に、少し和らぎも持っていいよ、と言われている、そのような意味合いがあるようです。古代の教会は、待降節の時、断食をして自らを整えました。その断食を少し和らげる、主が近い、自らを整えるのと共に、主が来られる喜びも表す蝋燭のピンクなのです。

 洗礼者ヨハネという人、ルカによる福音書によれば、イエス様と生まれは半年違いくらいの、親戚同士です。しかし、イエス様とヨハネの間の幼い頃からの交流というのは感じられません。ヨハネは高齢の両親のもとに生まれた人で、もしかしたら、幼いうちに両親が召されてしまったのではないでしょうか。子ども同士の交流など持てないうちに。これは私の想像ですが。
 これも想像と言いますか、イスラエル旅行をした際、20世紀最大の考古学的発見と言われる死海文書が発見された、クムランという場所を訪れたのですが、その時ガイドさんが語っていらしたお話に、高齢の両親のもとに生まれたヨハネは、幼くして孤児となり、荒れ野でクムラン教団に育てられたのではないかというのです。クムラン教団は、残されている資料から、禁欲的な男性だけの共同体で、孤児を引き取り育てていたことが分かっています。
 私はガイドさんの言葉を聞いて、祭司の子どもとして、謂わばイスラエルの特権階級に生まれたヨハネが、突如荒れ野に現れたということを理解出来た気がいたしました。権力者や富裕層に対する反骨精神や、神にのみ自らを委ねる徹底的な信仰によって、祭司の身分を捨てて荒れ野に出た、それもそうかもしれません。しかしヨハネは、孤児として荒れ野で育てられ、親戚であるイエス様との交流も無いままに育ち、ひとり、神のみを見上げる、聖別されたナジル人―今日旧約朗読でお読みした、士師サムソンのように、厳しいまでの生活を子どもの頃から神によって強いられてきた人なのではないか、そう思うと当時のクムラン教団の歴史的な事柄、また洗礼者ヨハネという人の「厳しさ」が、神の深いご計画のもとにあったということがより深く感じられるように思えました。

 この時、洗礼者ヨハネは牢にいました。当時のパレスチナは三つの地域に分けられて分割当地をされていたのですが、マタイによる福音書14章によりますと、当時のガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスが自分の兄弟の妻と結婚したことに対して、ヨハネが、「あの女と結婚することは、律法でゆるされていない」と、ヘロデの不貞を糾弾したことで、怒ったヘロデが、ヨハネを牢に入れていたのです。預言者という人たち、週報の「牧師室より」にも記しましたが、神の言葉をはっきりと告げるがために、退廃した世にあっては嫌がれた人でもあったのです。
 当時の歴史書、ヨセフスという人の書いた『ユダヤ古代史』には、この時ヨハネは、死海の東岸から少し離れた山頂にあるマケルス要塞というところの牢に居たことが書いてあります。この書にはイエス様のことも書かれてあり、当たり前のことながら、イエス様が歴史の中に実在されていたことが証言されています。イエス様は「賢人」と書かれ、教師であり、奇跡を行うキリスト=救い主であったこと、ピラトのもと十字架にかけられ、三日後に復活されたことが記されています。

 ヨハネは牢の中で、イエス様のなさったことを聴き、自分の弟子たちをイエス様のもとに送って、「来るべき方はあなたでしょうか。それともほかの方を待たねばなりませんか」と尋ねさせました。ヨハネは自分の使命は「主の道を整える者」であること、「荒れ野で叫ぶ声」であることを自覚しておりました。自分自身に与えられた使命にひたすら謙遜な人でした。このことは、ヨハネによる福音書の講解説教の中などで、何度かお話をさせていただいたと思います。
 牢の中に捕らえられ、残虐な支配者の手によって今しも命を取られるかもしれない、その状況の中、自分の命の日のことを思いつつ、自分は神からの使命を果たせるのか、またこれまでの道を思い起こして、自分の歩みは既に主の御心を果たしているのだろうか?何より、「そのお方」を知りたい、などなど思いを馳せつつ、イエスというお方が「そのお方なのではないか」、そのことを確かめない訳にはいかなかったのではないでしょうか。
 2節でマタイによる福音書は、「イエスのなさったこと」と言わずに「キリストのなさったこと」と書いています。それは、マタイ8章以降に記されてあり、また4節でイエス様が「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」と言われた内容でもある、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人に福音が告げられている」というその内容こそ、キリスト=救い主のなさる業であるということを、マタイは明確に自覚しているからでありましょう。そしてイエス様は言われました。「わたしにつまずかない人は幸いである」と。

 ヨハネの弟子たちが帰った後、イエス様は群衆に対し話し始められました。イエス様の周りに就き従っていた群衆というのは、洗礼者ヨハネのもとにも詰め寄せていた人々でもあったようです。
「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では何を見に行ったのか。預言者か。そうだ、言っておく。預言者以上の者である。」
 そして、洗礼者ヨハネこそが、旧約聖書の最後、マラキ書で預言されている、終わりの日、救い主が来られる前に現れると信じられていた、救い主に先立って主の道を整える、死なずに天に上げられた、預言者エリヤの再来であるということを、イエス様が明確に宣言されたのです。

 さらに「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼より偉大である」と、不思議で難解な言葉を語られました。
 イエス様も人間の女性マリアの胎からお生まれになられたのですから、イエス様が最も偉大なお方であるに違いないと思えるのですが、イエス様はヨハネを「女から産まれたものの中で最も偉大」そのように仰ったのです。
 実はこの「女から生まれた者」という言葉は、旧約聖書ヨブ記に3回出てくる言葉なのですが、それによれば、これは「死ぬべき人間」を意味する表現です。ヨハネは人間の中で最も偉大な預言者だけれども、しかし世にある「女から生まれた者」であるから、死に定められている。ヨハネは、神が人となって来られることに先立つ、「女から生まれた者」として、旧約の時代の終わりの預言者です。イエス様が13節で「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである」と言われていますとおりに。
 しかし、イエス様は天に属するお方です。しかし、「女から生まれた者」=死に定められた者となられるために、天より降られ、死に定められる命と弱い体を持つお方として世を生きられ、十字架の上で惨い死を遂げられましたが、イエス様は三日後に復活されました。イエス様は、死を命に変えられる、死を超えて復活をされる、その初めのお方であり、信仰による新しい命の始まり、復活の命の道を拓かれる救い主キリストです。そのようにイエス様は、完全に神であられ、完全な人となられたお方です。
 天の国は、信仰の闘い闘い抜き、最早世の死を超えて、「女から生まれた者」の命を超えて、神共にある命のうちにて招き入れられた人々のいるところです。私たちの愛する先に召された兄弟姉妹は、既に「女から生まれた者」としての命を超えて、天の国で「最も小さい者」であるかもしれないけれど、世にある者たちよりも、神に近いと言うより神共にいる天に於いて平安を得ておられます。その意味で「偉大」である、神と既に共にある、イエス様はそのように仰っておられるのではないでしょうか。

 そしてこの時、洗礼者ヨハネが主の道を整えるために現れ、いよいよイエス様が救い主としての働きを始められている中、「天の国は力づくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている」と言われます。
 世には、天の国、天の支配が洗礼者ヨハネが道を整えることによって現れようとしています。世には天の支配が力づくで到来し、新しい神の支配が始まろうとしている。それと同時に、天の国の働きを阻止しようと、天の国の働きを阻もうとする世の力に激しく襲われている。
この時、洗礼者ヨハネが牢に繋がれており、この後牢から出ることなく14章に於いては殺されてしまうのですが、天の国の支配を告げる洗礼者ヨハネは、そのように力づくで天の支配を阻もうとしている世の悪の力によって繋がれてしまっているのです。ヨハネにとっては無念に違いありません。力づくで奪い取る者=世の力によって、「女から生まれた者」としてのはかない命を奪われようとしているのですから。
 世には神の働きを阻もうとする、人間を滅びに至らせようとする力がうごめいています。私たちもそのことにもっと敏感であるべきである、そのこともこの御言葉から思わされます。

 そのような世の状態、世の人の無関心な姿、眠っているような態度に対して、イエス様は17節で、子どもたちの遊び歌になぞらえて嘆き語られます。「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった」。これは、笛を吹いて結婚式ごっこをやろうと言っても、お葬式ごっこをしようと言っても、どう誘っても相手になってくれず、無関心を装う人々に対することに対するイエス様の批判の言葉です。
 洗礼者ヨハネが禁欲的な姿で食べも飲みもせずに人々に悔い改めを迫ったら「悪霊に取りつかれている」と批判し、またヨハネと反対の姿のように、イエス様が人々と共に食べること、会食をして楽しむという自由な交わりの姿に対しては「大食漢で大酒のみで、徴税人や罪人の仲間だ」と悪口を言うような、いつも冷ややかな傍観者で批評家である人々、そのような態度で、神の支配が来ていることを嘲笑うような人々と世に対して、イエス様は嘆かれ、怒られるのです。真理を見つめる知恵を持ちなさいと。

 現代に於いて、宗教に対する嫌悪感のようなものがこの国に蔓延しています。人の心を不思議な力のようなもので惹きつけて、一時心を高揚させても、そこには実は世の悪しき力が働いていて、人の心を蝕んで行く、そのような宗教は世にあまたありますので、それらのものに対して嫌悪感を持つことは、「知恵の正しさ」という側面もありましょう。しかし、そう言いながら同時に、この国の人々の多くは、占いやスピリチュアルなものには何故か寛容すぎるくらいの人々が多く居ることに、言葉にならない歪さも覚えています。
 そして、イエス・キリストを信じる信仰、この2000年に亘って、世界の人々の生き方を変え、歴史を作り、芸術、科学技術の発展、世のすべてのことに影響を及ぼしてきている、時を経ても滅びることなく世界に広がっている「天の国」の支配を告げるイエス・キリストの信仰、その歴史的事実を通して、知恵の正しさとして人間の歴史を通して証明されています。そこに私たちは今導き入れられていますが、それに目を背け、傍観者として、信仰ということ自体を嘲笑う人々も居られます。
イエス様は悲しんでおられると思います。
 しかし、それは気づかない人々のせいだけではなく、世の教会、私たちも悔い改め、イエス・キリストの信仰を、各々、言葉と行いで証ししながら、また、ひるまずに御言葉と信仰を宣べ伝える態度も、求められておりましょう。
 私たちは地上にあっては、さまざまな弱さも抱える者たちですが、主にあるまことの知恵を求め、御言葉に聴き、絶えず祈り、主と共にあるならば、必ずそのあり方は世に証しをされ、天の国の働きに参与させていただくことになることでしょう。
「天の国」の支配は、既に私たちに来ています。イエス・キリストを通して現されている恵みを数えつつ、私たちの為すべきこと、語るべき言葉を、今一度吟味すべきなのかもしれません。
 主の道を整え、主を喜びお迎えいたしましょう。