「イエスの愛しておられた弟子」(2021年4月25日礼拝説教)

前奏        「 み神のみわざは 」     曲:マールプルク
招詞        ヨハネによる福音書11章25節
賛美       14(134) たたえよ、王なるわれらの神を
詩編交読     63編(70頁)
賛美 289    みどりもふかき
祈祷
聖書       ヨハネによる福音書 21章20~25節 (新212)
説教       「 イエスの愛しておられた弟子 」
祈祷
賛美       543 キリストの前に
信仰告白     日本基督教団信仰告白/使徒信条
奉献
主の祈り
報告
頌栄       24 たたえよ、主の民
祝祷
後奏

ヨハネによる福音書21:20~25

「イエスのなさったことは、このほかにもたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないだろう」
ヨハネによる福音書の最後の言葉です。
今日で17章を残してヨハネによる福音書を読み終えます。「初めに言葉があった」、旧約聖書の天地創造を彷彿させる言葉から始まり、神の「言が肉となって、わたしたちの間に宿られた」(1:14)出来事、神の「受肉」語り、イエス様というお方はどのようなお方―何者であるか―そして、真理とは何かを、書ききれないイエス様の御業の中から語り続けています。
イエス様は、神から「遣わされた方」であられ、「エゴーエイミ=私はある」とご自身を主なる神を表す言葉で自ら語り、父なる神とイエス様はひとつであることを語られ、更にイエス様が十字架という栄光を受けられて、復活され天に帰られた後、聖霊を与える約束をされました。ヨハネによる福音書は、全体を通して「三位一体」なるおひとりの神、その関係性を明確に語っています。カールバルトという神学者は、「三位一体」を「父・子・聖霊の愛の交わり」と申しました。
さらにイエス様は「互いに愛し合いなさい」という「新しい掟」を弟子たちに語られ、14章で、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」と、イエス様を愛する者たちも、父、子、聖霊、三位一体なる神と共にある命の中、愛の交わりの中に置かれるのだということも語っておられました。この愛の交わりの中に入れられることこそ、聖書の語る「永遠の命」そのものです。
そして尚且つ世を生きる者たちにとって「互いに愛し合う」ことによって、迫害という困難な状況に置かれている教会を再建しようとしている、その時代に向けての励ましの書であるとも言われています。

ヨハネ福音書を語らせていただく最後の時に、この福音書が書かれた時代背景について、今更という感じがしますが、お話をさせていただきますと、この福音書が書かれたのは、紀元90年頃と言われています。90年と言うと、イエス様の十字架と復活から約60年後。
初期のイエス様を信じる信仰は、ユダヤ教の中の一分派として始まりました。キリスト教徒に対するユダヤ人たちからの迫害は当初からあり、またローマ皇帝ネロの時代のキリスト教徒への大迫害をはじめ、ローマ帝国からの迫害もありましたが、それでもキリスト教徒はユダヤ教の枠内に留まっていたのです。
紀元70年にはユダヤ戦争と呼ばれるローマとの戦争によってエルサレム神殿が破壊され、ユダヤ教は危機を迎えます。神殿を失ったユダヤ教は、神殿で動物犠牲をささげる礼拝に終わりを告げ、「掟」「言葉」を中心とするあり方への変革を余儀なくされ、そのような中、新しく祈祷規定をつくり、またすべての会堂において守られるべき礼拝規定を制定しました。
その中に、「異端者たち」に対する厳しい呪いの祈願が含まれていました。「ナザレ人たち(キリスト教徒のこと)と異端者たちは瞬時に滅ぼされるように」「彼らは命の書から抹殺されるように」と。そしてユダヤ教会堂からのキリスト教徒の追放が行われて行ったのです。
ヨハネによる福音書には「会堂から追放する」という言葉が、3箇所(9:22、12:42、16:2)に現れて来ていますが、これらの記述は、その頃のキリスト教徒弾圧と、ユダヤ教会堂からの追放が背後にあったことを伺わせます。9:22では「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていた」のように。
生まれた時からそこに居て、気心の知れた仲間が居るユダヤ教会堂を、イエス・キリストを愛する者であるが故に呪われ、追放され、それまでユダヤ教徒として持っていた市民権といえる権利を剥奪され、命の危険にまでさらされるようになっていた当時のイエス・キリストを信じる人々。従来のユダヤ教の中に留まるか、キリストに従うか、二者択一を迫られ、すべてのキリストを愛する者たちの信仰は揺さぶられて行きました。
ヨハネによる福音書は、ユダヤ教会堂から追放され、迫害によって苦しめられることがあろうとも、イエス・キリストの愛にとどまりなさい、滅びではなく、命を得なさい。ヨハネによる福音書は、このような背景のもと、信仰から離れようとしている人々に向けてのメッセージでもあるのです。

先週は、ペトロに復活のキリストが「わたしを愛しているか」と三度問われ、「わたしの羊を飼いなさい」とペトロに命じられた出来事、さらにペトロが神の栄光を表すために殉教の死を預言する言葉をイエス様は告げられ、さらに「わたしに従いなさい」とイエス様がペトロに言われたところまでお読みしました。
今日の御言葉は、「ペトロが振り向くと」から始まります。
ペトロが振り向いたところに居たのは、「イエスの愛された弟子がついてくる」姿でした。

「イエスの愛された弟子」とは、最後の晩餐の席で、イエス様の最も傍に居て胸元に寄りかかったまま「主よ、裏切るのはだれですか」と問うた弟子であり、十字架のイエス様の下におり、イエス様の母マリアを「見なさい。あなたの母です」と言われ、マリアを自分の家に引き取った弟子です。このマリアのことを、受難週の説教で、「イエス様の世に於けるただひとりの血縁、母マリアは、イエス様の血縁としてのユダヤ教、旧約聖書、律法の民であるユダヤ民族とユダヤ教を象徴しているのではないか」と申し上げました。そのマリアをキリスト教徒としての「イエスが愛しておられた弟子」が、ユダヤの血統である母マリアを引き取ったこと、それはユダヤ教から分離したイエス・キリストを頭とする教会にこそ、ユダヤ教の行くべき真理があるということを告げていたのではないでしょうか。
またこの弟子は主の復活の朝、ペトロとともに走り墓に行き、ペトロより先に着きながら、一番先に墓に入ることはせず、初めて墓が空であることを「見る」証人となることをペトロに譲りました。そして、墓が空であることを「見」て、イエス様が復活されたことを信じました。また、ティベリアス湖畔に立って、「舟の右側に網を打ちなさい」と命ぜられた方がイエス様であると最初に気づき「主だ」と言ったのも「イエスが愛しておられた弟子」でした。絶えず、ペトロより先に気づき、ペトロよりもイエス様のお傍に留まり続け、また、ペトロに先を譲る、謙遜な弟子であり、また真理への洞察力が優れた弟子であったことが伺えます。
そして、この「イエスに愛された弟子」こそが、ヨハネによる福音書を書いた人なのです。このヨハネとは、恐らくはゼベダイの子ヨハネ。ペトロと同様ガリラヤの漁師であった人で、兄はヤコブ。イエス様が、山上でモーセとエリヤに出会われ、真っ白な姿に変わられた時、またゲツセマネで祈られる時、イエス様は、ペトロとゼベダイの子ヤコブとヨハネの3人を連れて行かれました。12人の中でも、側近中の側近であり、先だってお読みしたマタイによる福音書に於いて、ゼベダイの子らの母が、イエス様が王座に着かれる時、自分の息子二人をイエス様の一番お傍の右と左に置いて欲しいと願ったというところをお読みしましたが、その母の子でもある人です。
イエス様の十字架から60年後にこの福音書を書いたのですから、この時、ヨハネは80歳に近い年齢だったのではないでしょうか。当時にしては長寿の人であったことでしょう。23節で「この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった」とあるのは、彼が誰よりも長生きをしている―イエス様の十字架と復活から60年経って福音書を書くほどに―ということを暗示しているのではないでしょうか。

***

ペトロは「わたしに従いなさい」とイエス様に命じられました。そして、イエス様の求められるところに前を向いて歩こうとしていました。しかしそこで、ペトロは「振り向」いたのです。
イエス様が復活された時、墓の暗闇を向いて泣いていたマグダラのマリアが後ろを「振り向く」と、そこには復活のキリストが立っておられました。マグラダのマリアにとって、この時「振り向く」ことは、闇から光へと向き直り、復活のキリストを、真理を「見る」ことになりました。
この時、ペトロは、イエス様の方を向いていました。光なるキリストに従う道をはっきりと指し示されて、イエス様を愛することに全身を向けていたその時、彼が後ろを振り向いた時には、「イエスの愛しておられた弟子」がついて来るのを「見」ました。ペトロと「イエスの愛しておられた弟子」であるヨハネ、後のキリスト教会の大きな柱となるふたり。共に、イエス様の後ろから従い行く信仰者の姿です。
しかし、ペトロは振り向きました。イエス様の方をまっすぐに見ることから目を逸らし、振り向いて、「イエスの愛しておられる弟子」を見たペトロがイエス様に問い掛けたことは、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」でした。
同じようにイエス様のお弟子として、歩んで来ているペトロとヨハネ。イエス様は、それに応えて「わたしが来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたはわたしに従いなさい」と言われました。「わたしが来るとき=キリストの再臨、終わりの時まで彼が生きていることを、わたし=イエスが望んだとしても」という言葉を、当時の人はヨハネは死なないとイエス様が言われたとうわさをするほどまで長寿となっていましたが、ヨハネはそれに対して、ただ単にイエス様は「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるのか」と言われただけであり、当たり前ながら、「死ぬ」時が来ることを自ら知って、このことを語っています。
そして、これを書いているヨハネはこの時既に、ペトロがイエス様の語られたように、「行きたくないところに連れていかれ」、殉教の死を遂げたことを知っています。ペトロは紀元67年頃、ローマで殉教したことが伝承されています。そして、自分は生きている。ヨハネは長寿であり、恐らく殉教ではなく、自然な死を遂げたと思われます。
ヨハネ福音書が書かれた時代、大きな迫害が起こり、信仰により命の危険にさらされる人たちが多くいました。信仰を守り抜くために死ぬ人たち。しかし、信仰者の中には長く世の役目を果たし、平和のうちに長寿を全うする人もいます。
ペトロは殉教の死を彷彿させる言葉をイエス様に告げられて、まっすぐにイエス様に従う目線から振り向いて、ついて来るヨハネを見て「この人はどうなるのでしょうか」と問いました。
イエス様に従おうとしながら、振り向き、共にイエス様に従う弟子であるヨハネのこの先のことをイエス様に尋ねたペトロ。神を見ながら、人を見るペトロ。そのようなペトロの心には、共に同じ主に従う者でありながら、ペトロのうちには「競争心」、またヨハネと自分との価値の「比較」があったのではないでしょうか。

人は神を見る、イエス様に従うと言いながら、絶えず他人が与えられている生き方、環境、持ち物それらを比較して、比較の中で自分が良い位置に居たいと願う心がある者です。私たちが人生に於いて苦しみを持つ原因の多くは、「自分と他者との比較」なのではないでしょうか。主はおのおのの人生を知っておられ、ひとりひとりに与えられる生は、「時に適って美しい」(口語訳コヘレト3:11)のです。人は細かいことにも争い、人と自分を比較し、自分を時に惨めに思い、自分の人生を人との比較によって嘆きます。それは、恐らく「むなしいこと」です。
主は、殉教の死を遂げるペトロの生涯も、長寿を持って平安のうちに生涯を閉じるヨハネの生涯も、比較するものでなく、神の目には、各々にご自身の賜物を与えられ、生かし、全うされるからです。
しかし、人は神を見て、神に、イエス様に従おうとしながらも、振り向き、人を見て、自分と他者を比較し、自分が優れていなかったり、世において恵まれていなかったりと思えることを悲しみ苦しみます。しかし、ペトロにとって自分との比較の対象となっていたヨハネについてイエス様は言われました。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるのか」。
「あなたに何の関係があるのか」とイエス様は問われました。短くとも長くとも、それがどのような形であったにせよ、神の目から見れば、「あなたに何の関係があるのか」であるのです。神は私たち各々に、神の賜物としての生を祝福のうちに与えてくださっているからです。

10年前、癌で天に召された私の高校時代からの親友は、病気が既に末期だったことを知り、神を知りたい、聖書を知りたい、死とは何かを知りたいと私に懇願しました。私は一日も早くと思い、彼女に自分の当時使っていた聖書のひとつを送り、その聖書は「旧約聖書続編つき」のものでした。何をどう読んで良いか分からない友は、まず闇雲に聖書を開いた時、目にまず止まったのが、続編の「シラ書」41章、小見出しに「死」と書いてある箇所でした。その最後には、「死の宣告を恐れるな」また「陰府では、寿命の長さは問題とされない」と書かれており、彼女はその言葉が示されたことを不思議だと言っていました。そして意味を教えて欲しいと言いました。私も続編のシラ書については、深く知りません。しかし、今、その「死」について書かれているシラ書を読む時、世をどう生きて、どう死ぬか、長いか、短いか、各々に与えられた神の賜物であることを、今は思い巡らせています。

神を見ながらも、見ようとしながらも、振り向き、人間同士の関係の中に無意味な苦しみに埋没しそうになる私たち。ヨハネは、徹底的に、この最後の御言葉を通して「神のみを見よ」と語っているのではないでしょうか。そして、真理をしっかりと見据えて、主から与えられる各々の賜物を生きよと。そして、互いに重んじ合い、互いに「愛し合いなさい」、それが新しい掟であると。

ヨハネによる福音書の講解を始めた時、この福音書はヨハネの黙示録に出て来る、天上の玉座の周りの四つの生き物のうち、空飛ぶ鷲に譬えられている、それは鷲は太陽の光―真理と譬えられる―を直視することの出来る唯一の生き物だから、そのようにお話をさせていただきました。
ヨハネによる福音書は、三位一体の神、そしてイエス様を愛する私たちも、信仰によって神の内側に入れられるという永遠の命を得ることが出来る、そのことを語っています。そしてイエス様はそのことを成し遂げるために世に来られ、十字架で死なれ、栄光を顕され、永遠の命への道を拓かれました。
イエス・キリストを通して顕された真理をしっかりと見据える鷲のように、私たちも真なる神、主に向かってひたすら歩みを進める者でありたいと願います。人を見るのではなく、神を見て、神を愛し、神に愛されている自分を愛し、隣人を愛し、互いに愛し合う、ヨハネによる福音書を通して、イエス様が教えられた「新しい掟」を歩む私たち、そして、土気あすみが丘教会の信仰共同体でありたいと願っています。