「わたしを愛しているか」(2021年4月18日 礼拝式文 礼拝説教)

前奏        
招詞   ヨハネの黙示録 11章15節
賛美   51 愛するイェスよ
詩編交読  62編10~13節(70頁)
賛美   433(126) あるがままわれを
祈祷
聖書   ホセア書6章4節  (旧1409)
      ヨハネによる福音書 21章15~19節 (新211)  
説教   「 わたしを愛しているか 」
祈祷
賛美   509 光の子になるため
信仰告白   日本基督教団信仰告白/使徒信条
奉献
主の祈り
報告  
頌栄   29 天のみ民も
祝祷
後奏

ホセア書6:4
ヨハネによる福音書21:15~19

「わたしを愛しているか」
 イエス様は、ペトロに問われました。「わたしを愛しているか」、ちょっとどきっとしますね。

「聖書は神様からのラブレター」と言われたりいたします。主なる神は人間を愛して、人を御自分に向かい合う存在として、御自分の「似姿」として造られました。でも、人は神に背いて、愛そのものであられる神と向き合う関係から離れ去り、自分勝手に自分の願望や富、名誉、そんなことばかりを求めて、人と人とが争い戦う―そのような世となってしまいました。
 そんな人間に対して、主は「愛しているよ」「命を得るためにわたしに立ち帰りなさい」と狂おしいほどに語りかけ続け、人を御自分のもとに取り戻そうとされました―旧約聖書をひとことで言い表したならば、そのように言えるのではないかと私は思っています。
 そして、私たちは今も、イエス様から問い掛け続けられているのではないでしょうか。「わたしを愛しているか」と。

 先週、ギリシア語に於ける「愛」は、聖書に於いて、アガペーとフィリアという言葉が使われており、アガペーは神の愛、神のもとにある完全な愛であり、フィリアとは人間同士の友愛ということに触れながらお話をさせていただきました。
 これらギリシア語の「愛」を表す言葉そのもの、同じニュアンスを完全に含む言葉は、旧約聖書ヘブライ語には無いのですが、ヘブライ語の愛という言葉は大きく分けて二つ、アーハブとヘセド、それに加えてヘーンという言葉もそれに当たろうと思います。
アーハブは激しい熱情も表す言葉で、人間同士で言えば、激しい情動につき動かされ、例えば結婚をしようと選択するまでの愛のようなことでしょうか。そして、結婚という契約の関係に入って、共に生きる応答の関係に入る中でのそこに留まるための誠実さと責任を伴う愛をヘセドと言います。
 アーハブが神の人間に対する愛として語られる場合、それは神の無条件の愛として語られ、旧約に於いて、恵み、また慈しみとも訳されて語られています。今日の交読詩編にも「慈しみ」という言葉でヘセドが語られていました。ヘセドは契約の愛、応答の愛とも言われ、モーセに与えられた掟を、民が守るという誠実と責任のもとに成り立つ愛、神の愛のもとに留まり続ける責任を意味する言葉なのです。
 もうひとつ、加えて申し上げたヘーンは、特別な契約関係には入っていない者同士の愛や好意を表す言葉です。
 アーハブとヘセドを合わせたギリシア語の愛という言葉がアガペー、アーハブとヘーンを合わせたギリシア語の愛がフィリア、そのように言えそうです。

「愛しているか」、ここでイエス様から問い掛けられたのは、ペトロです。ペトロは、イエス様の一番の側近の弟子。「あなたのためなら命を捨てます」と言いながらも、イエス様の逮捕の際には、三度イエス様を「知らない」と否定して逃げてしまいました。しかし、主は何事も無かったかのような明るさで、ペトロはじめ弟子たちの前に復活の姿を顕されました。そして、そんな裏切り逃げたペトロに、復活の主は「わたしを愛しているか」と三度、問い掛けられたのです。

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 さて、4年ほど前からヨハネによる福音書の講解説教を折々にして参りました。受難、復活については、その時期に合わせて読みたいと思いながら、他の文書を交えつつ時間を置きながら、全部を読みたいと願っていましたが、17章のイエス様の十字架を前にした祈りだけは読めないままになっています。その御言葉を残して、次週でヨハネによる福音書を読み終えることになります。

 ヨハネによる福音書は、復活の記事が多いことにお気づきになられましたでしょうか。今日は21章をお読みしていますが、20章、トマスの記事の後「本書の目的」という小見出しが新共同訳にはつけられており、実は20章で一旦、この福音書は完結しているのです。
 21章は、一旦完結をした後に書かれた「付記」のようなものと言われているのですが、21章のはじめ、「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された」とあり、エルサレムでイエス様の復活に出会った弟子たちは、その後、ティベリアス湖、すなわちガリラヤ湖に戻って、再び網を持って漁の仕事を始めたことが語られています。そこに、再びイエス様が現れたのです。この箇所は、3,4年前、イースターでお話をさせていただいたと思います。
 復活のキリスト・イエスは、漁をしている弟子たちの朝の食事の支度をして待っておられました。十字架で死なれたけれど、復活されたキリストなるイエス様の整えられた食卓、食卓を通して温かい温もり、生きていることの喜びが感じられる夢のような出来事です。イエス様は、パンを取って、弟子たちに与えられ、また魚も同じようにされました。

 そしてイエス様が整えられた食事が終わった時、イエス様は、シモン・ペトロに問われたのです。
「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と。
 イエス様がペトロのことを敢えて、「ヨハネの子シモン」とここで呼ばれたのは印象的です。それは、1章でイエス様が初めてペトロに出会って弟子にした時、同じように「ヨハネの子シモン」と呼び掛けておられるからです。
 ペトロの名前に関してはちょっと複雑なのですが、「ヨハネの子シモン」とは、彼の生まれたままの名前。イエス様の弟子になることによって、イエス様は「あなたをケファ=ヘブライ語で岩=ギリシア語でペトロと呼ぶことにする」と言われて、ケファ、ペトロと呼ばれるようになったのです。しかし復活の主は、この時初めて名を呼ぶかのように、「ヨハネの子シモン」と、ペトロに呼び掛けておられます。まるで新しい出会いのように。
「この人たち以上に」というのは、「一緒にいる弟子たち以上に、誰よりも」と、そのような意味で、訳されていますが、「これら以上に」と読むことも出来る言葉です。「これら」と読むならば、繋がる文章の流れから、食卓のパンや魚、日常の生きるために大切な事などを指し示すことになるのではないでしょうか。生きるためのパン、生業、仕事以上に、また誰よりも「わたしを愛しているか」と。
 ペトロは、イエス様との出会いの初め、生きるための仕事であった「網を捨てて」イエス様に従いました。その時と同じように、復活されたキリスト・イエスは、ここでペトロとの新しい出会い、新しい関わりを持とうとされているのではないでしょうか。「わたしを愛しているか」と問われつつ、新しく「互いに愛し合う」関係の中にペトロを入れようとしているのではないでしょうか。

 イエス様は「わたしを愛しているか」、イエス様はここで神の愛アガペーを使って問い掛けられました。それに対し、ペトロは「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えます。ペトロがここで答えた「あなたを愛していることは」の「愛」はフィリア、フィレオー、アガペーよりも一般的な友愛を表す言葉で返しています。「愛しています」とアガペーでひとこと答えたらよいのに・・・と思えますが、ペトロは敢えて違う言葉で答え、また、「あなたはご存知です」と、非常に曖昧な言い方で返しています。
 それに対し、イエス様はもう一度、「わたしを愛しているか」とアガペーの愛を使って問われ、ペトロも一度目と同様に、「愛していることは、あなたがたご存じです」と答えます。そして、三度目、イエス様は「わたしを愛しているか」と、三度目は、それまでのアガパオーではなく、ペトロが答え続けている「フィレオー」を用いて問われます。そして、ペトロはこれまで同様「わたしが愛していることを、あなたはよく知っておられます」とフィレオーを使って返しています。

「わたしを愛しているか」
 このイエス様の言葉を、訳文の印象と、イエス様は神様だ、という思いから、お上が下々に「汝は我を愛するか」のように、一方的な愛の押し付けのように聞こえてしまいそうになります。でも、実際、三度のやり取りがあり、アガペーに対して、フィレオーで返し続けるペトロに、イエス様の方が「折れて」、ペトロの言い分に従い、ペトロの感情の在るところにまで「降りて来ておられる」ことを感じます。この「わたしを愛しているか」は、決して高圧的な問い掛けではないのです。
 それであるならば、「わたしを愛しているか」という問い掛けは、問い掛けるイエス様にとっては、問い掛けることに「勇気が必要な」問いかけではないでしょうか。愛する者をご自分の愛のうちに抱きたいという熱情と、心の微妙なひだの中で問い掛けられた言葉なのではないでしょうか。
 この御言葉の本質からはずれてしまうようで恐縮ですが、例えば男女の場合で、このやりとりを考えてみたのです。私が女性ですので、女性の立場から、男性に同じ問い掛けをするならば、それは、「愛を確かめたい」という強い気持ちと、愛に対する不安がある時にそれを問い掛けるのではないかと思いました。
「あなたは私を愛しているの?」、心に真剣な思いと決意を込めて自分の愛している人に対して問うことでしょう。それに対し、少々の躊躇いを見せつつ、「僕が、君のことを好きだということを、君は知っているはずだよ」と答えられたらどんな風に感じるでしょうか。肩透かしをくらったように思えませんでしょうか。このイエス様とペトロのやり取りは、平たく、ちょっと下世話に言い換えてしまうと、私にはそんなやり取りに、思えてしまいました。そして、それらの応答を受けて、相手の心を慮って、自分自身の愛を相手の視点まで落として、三度目は相手の言葉と同じ言葉で「私のことを好きなのね」と問うている、そんな風にも感じられます。
 イエス様の真剣な問い掛けに対して、ペトロは別の言葉を使って―私の語った譬えで言えば、「愛していますか」を問われて、「好きだ」という言葉で返している―また、「あなたは知っているはず」と、自分の本心を相手の思惑に転嫁する、心に後ろめたいことのある人特有の返答のように聞こえてしまいます。

 でも、この時のペトロが不誠実だったとは私は思いません。聖書はペトロの人間的な弱さや単純さをあからさまに書いています。この時、ペトロは、突然のイエス様の問い掛けに、自分が数日前に裏切ってしまった出来事が心を過ぎり、動揺したのではなでしょうか。イエス様の「愛」に相応しく、自分は振る舞えなかった。イエス様は、自分の足を洗ってくださり、「互いに愛し合いなさい」と教えられた、でも自分は、イエス様の愛に応えられず、舌の根も乾かぬうちに自分の身の上の危険を感じて、イエス様を「知らない」と否定をして逃げてしまった―彼はその自分の罪を思い、イエス様の愛に相応しくなかった重荷があり、咄嗟に言葉を言い換えて答えたのではないでしょうか。

 そんな返答しか出来ないペトロに、イエス様は一度目からの問い掛けへのペトロの返答から、「わたしの羊を飼いなさい」と仰いました。
 イエス様は、弱いペトロ、その心の中も、すべて知っておられました。ルカによる福音書22:32で、イエス様はペトロが裏切ることを予告されながら、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われました。イエス様はペトロの弱さを憐れまれ、祈られ、「立ち直ったら、兄弟たちを力づける」そのような人になりなさいと、既に語っておられました。そして、三度言われたのです。「わたしの羊を飼いなさい」と。
 三度、「わたしを愛しているか」と問いかけられたのは、ペトロが三度イエス様を「知らない」と言って裏切ったこと、それをひとつ、ひとつ、またひとつと、イエス様は裏切りから「愛する」ことにペトロを取り戻されたのではないでしょうか。
神の言葉は確かなもの、神の言葉はそのまま出来事になります。聖書は言葉を大切にいたします。そして神の言に応答する人間の発する言葉も大切で、発する言葉には責任が伴います。
ペトロは「愛していることをあなたはご存知です」という、ちょっと曖昧な返答をいたしましたが、イエス様はそんなペトロの心の弱さや重荷もご存じであられ、アガペーよりも、少しよそよそしいフィレオーとして、ペトロが躊躇しながら応答する言葉のひとつ、ひとつを確かめつつ、イエス様はペトロの自責の念から、回復しようとなさったのではないでしょうか。
イエス様はペトロが立ち直り、「兄弟たちを力づける」人になって行けるように、「わたしを愛しているか」と言葉を掛け続けられたのです。

 そして、弱いペトロに「わたしの羊を飼いなさい」と、ペトロにイエス・キリストの救いを宣べ伝え、人々を神の救いに入れるための働きを命じられました。
 弱いペトロを御自身を証しする者として立てられることを命じれらたイエス様。主の福音宣教は、いわゆる世にあって「立派な」人たちを用いられるのではない。「立派な人」など、本当には居ないのかもしれませんが、欠けのある罪人を主は用いられる。
コリントの信徒への手紙二12章で、パウロがイエス様に三度、彼の身に与えられた「棘」を取り除けてくれるように祈ったところ、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と幻の中でイエス様が答えられたことが語られています。人間の弱さの中に、神の力は豊かに働かれるからです。強く、自分を誇る人の中に、神は介入されることは出来ません。その人自身の強さが、神を弾き退けてしまうからです。力は人間の弱さの中でこそ働かれます。

 そして、イエス様は言われました。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところに行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところに連れていかれる」と。
 この罪の世にあって神の国を宣べ伝えること、イエス様の羊を飼うこと、それには困難が伴います。
 ペトロはこの後、聖霊を受け、力強く主を証しする人となりますが、最期、ローマで逆さ十字架に架けられて殉教の死を遂げたと伝承されています。
 このイエス様の言葉には、若い頃、罪を知らない頃、人は思うままに生きるけれど、主を知り、主の御業のために用いられる者とされる時の「自分の十字架を担う」という厳しさをイエス様は語っておられることを覚えます。

 ペトロは三度イエス様を裏切りましたが、三度躊躇いと恐れの中で言葉を代えながらもイエス様を「愛する」ことを伝え、イエス様はそれを受け入れられました。
 ペトロの弱さを知っておられ、赦された主は、私たちの弱さをもご存知です。イエス様を「愛する」私たちも、ペトロ同様に主の憐れみと赦しの中に生かされています。そして「わたしを愛しているか」「わたしの愛の中にとどまれ」と絶えず、イエス様は私たちに真剣に問い掛けておられます。
 主の愛と憐れみのうちに生かされていることを覚え、主の愛にお応えして主を心から愛して、生きるものでありたいと願います。