聖書 コロサイの信徒への手紙 3章12~17節
あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、
憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。(12節)
「御言葉が心に宿るように」
2025年度が始まりました。そして今日は教会創立41周年の創立記念日礼拝です。昨年度は創立40周年を感謝のうちに過ごしました。40年は出エジプトの民が約束の地に着くまでの荒れ野での旅の期間です。私たちの教会も大きな試練を何度も乗り越え、主が導いてくださるままに40年を過ごしました。出エジプトの民は約束の地カナンに入った後も困難に出遭いました。土気あすみが丘教会も困難に出遭い課題を抱えています。それは日本社会全体の課題がこの教会にも現れているということでして、この教会だけが特別なのではありません。困難はいつもあるということを知っていれば、いつまで続くのかと思い煩う必要はありません。
主の名のもとに集まるのが教会ですから、この原点を忘れないでいれば課題は困難ではあっても解決できないものではないことに目覚めます。「福音に堅く立つ」ことが大切です。私たちがこれさえしっかり保ち続けるならば当面の課題は必ず解決します。極端なことを言えば「福音に堅く立つ」ことにおいて、境内も会堂も必ずなければならないものではありません。もちろんそのような教会は集まる人々の大きな熱情を必要とします。礼拝を定期的に行なう手はずを整え、礼拝のプログラムを準備し、誰かが説教者として立てられて教団の教師になり礼拝に望む、参加者も礼拝のために一人ひとりに与えられた役割をおこなうということを、集まる人たちが分担して担わなければなりません。しかしそうすれば教会は存在します。それを人々が喜んで行ったのが初代教会です。主のお名前によって集まるところが教会であることを改めて確認し、目の前の課題に信仰の目を曇らされないようにして信仰生活を送っていきたいと思います。
今年度は年間聖句としてコロサイの信徒への手紙3章16節から「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るように」が与えられました。この年間聖句を覚えつつ礼拝を中心とした生活を送りたいと思います。
この御言葉が記されている箇所の前後、3章12節から17節は「教会の生活」についてのパウロの勧告です。12節の冒頭に「あなたがたは」と書かれている通り、私たちは個別に信仰生活を送るのではなく、信仰者が集まる教会を我が家として信仰生活を送るのだということが勧告の前提になっています。
12節前半に「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」と書かれていて、パウロはキリスト者が神のものとされた新しい存在であることを私たちに思いおこさせています。神のものとされた新しい人間は古い慣習に捕らわれることなく、主の指し示す新しい関係のもとに生活するのです。
信徒同士がどのような生活を送るようにとパウロは勧告しているか読み進めたいと思います。12節後半に5つの徳目が書かれています。それは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容の5つです。一つづつ掘り下げて、私たちのものにしたいと思います。
第1の「憐れみの心」は自分の内臓が痛むような憐れみのことです。福音書の中でイエス様が自分の痛みとして受け止めたことを示す「深く憐れまれた」という言葉が記されています。そこに使われている言葉と同じような言葉がここに使われています。神の家族である信徒の中に困難に出会って悲しんでいる人がいれば、その人に寄り添うというような、互いの関係を保つことです。悲しみや辛さを素直に出せる関係にあることが必要ですので、互いに愛し合っていることが前提だと思います。
第2の「慈愛」は親切や優しさといった他者を思いやる気持ちです。他者を思いやるというのは簡単なことではありませんが、できないことではありません。
第3の「謙遜」は言い換えると高ぶらないことです。キリストを模範として互いに相手を自分よりも優れた者と考えるならば、決して高ぶることはできません(フィリ2:3)。4月20日のイースターにはお二人の方が洗礼を受けられますが、それは先に洗礼を受けた人たちが神の愛を確認する機会でもあります。神の愛を体験した者は神の前でも他者に対しても高ぶることはできません。
第4の「柔和」は隣人であること、他者を受け入れることです。あなたの隣人は誰かという問いにイエス様は「善きサマリヤ人のたとえ」を通して、関係を持つことだと教えてくださいました。それは取引関係ではなく相手を信頼する信頼関係です。他者と関係を持った結果として人はやさしく穏やかになるのだと思います。
第5の「寛容」は日本語の意味では「他人の欠点や行動を広い心で受け入れること」というものですが、パウロが勧告している「寛容」は聖書的な意味で「怒ることを遅らせること」です。神の人間に対する気の長さを示す言葉ですが、パウロはそれを人間同士にも適用させて、互いが「怒ることを遅らせる」関係になるように勧告しています。
ところで、もし私たちがパウロの勧告を完全に守ろうとするならば、私たちは自分を裁くことになるでしょう。自分が勧告通りの生活を送ることができないことに悩むことになります。さらに周りの人たちが勧告通りの生活をしていないことにいら立ち、その人を裁いてしまうことにもなりかねません。そのような生き方はイエス様が裁かれたファリサイ派の人々の生き方に近いものとなるでしょう。そのような生き方は神を必要としません。自分の努力で神の命令ともいえるパウロの勧告を完成させようとすることになるからです。
大切なことは13節にあるように「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合う」ということです。イエス様が私たちのために罪を負ってくださり、そのことによって父なる神が私たちを赦してくださいました。私たち自身がパウロの勧告を完全なものにしようとするのではなく、パウロが勧告するような生活を送ることができるような者にならせていただくように神に祈り、主の助けによって努力することを目ざしたいと思います。
パウロは12節で「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」と、私たちがすでに主のものであることを告げています。つまり私たちにはできなくても、神に祈りつつ主の導きを信じて豊かな喜びの生活を送ることができるように、勧告に従う努力をすることが許されているのです。14節にある通り神の愛こそが勧告を完成させるきずなです。愛は私たちをキリストの体としてひとつに結び合わせます。
私たちが神の愛に根差して5つの徳目を生きているかを判断する基準はキリストの平和です。15節に「キリストの平和があなた方の心の中を支配するように。」と書かれています。キリスト者は一つの体である教会を構成しており、キリストの平和にあずかるように招かれています。私たちは隔ての壁をキリストの平和によって取り除き、共に御国を目ざしているかを判断することができます。
「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」(16節)。これが今年度の年間聖句です。ここまでに私たちは教会生活についてパウロの勧告に耳を傾けてきました。しかし聞いただけでは私たちは変わることはできません。私たちが新しい存在として神の愛を体現する教会生活を為すためにはキリストの言葉が私たちの内に豊かに宿ることが必要です。
「言葉」と訳されているギリシア語のロゴスには「出来事」という意味もあります。プロテスタント教会は言葉を重視する傾向にあります。聖書のみに信仰の基準を置くというのはとても重要なことです。しかしそこにイメージがなければ言葉は私たちを殺します。これはパウロが告げた「文字は殺しますが、霊は生かします。」(Ⅱコリ3:6)という言葉に通じます。またギリシア語で「宿る」という言葉は「記憶する」という以上の意味で、「宿って影響を与える」ということを表します。つまり年間聖句は「キリストの言葉と出来事が私たちの内に宿って私たちに影響を与えるように」ということです。
神はご自分に象って人をお造りになりました。その意味は私たちが意思をもつものとして造られたということです。そして神はその意思を尊重され、忍耐されておられます。ですから私たちの内にキリストの言葉と出来事が影響を与えるように、私たちが心を整えるように求められています。
キリストの言葉ではありませんが、私たち人間の言葉でも人の心に影響を与えるということは多くの人が知っていることだと思います。新聞の記事だったと思うのですが、ある寒い日に幼い子供が誤って池に落ちてしまいました。家族がそれに気づいて池から子どもを引き上げた時、その子の心臓は止まっていました。母親は子どもが死んでしまったことを嘆き悲しみました。その時にその子の父親が妻に「お前は看護師じゃないか。」と声をかけました。母親はその声を聞いて我に返り、蘇生を試みました。その時に妻は母親ではなく医療従事者として子どもに向き合っていたのです。知識の限り、経験の限りを尽くして、冷静に諦めることなく蘇生を行いました。すると子どもの心臓が動き出したのです。なんと子どもは一気に冷たい水に浸かって仮死状態になっていたのでした。人間の言葉でさえ、人の心を支配し影響を与えるならば、このようなことが起きるのです。
キリストの言葉と出来事が私たちの心に宿り、私たちを支配するならば、私たちはパウロが勧告する5つの徳目を互いにおこなう群れとなることができます。
失敗を恐れず、互いに愛し合い、赦し合いながら御国へと進んでまいりましょう。教会生活は教会を一歩出れば消えるというものではありません。教会での豊かな愛の交わりはパウロの勧告を実行することにより実現し、そのことが社会に良い影響を与えるのです。この喜びや平安を周りの人に伝えていけるように祈りを合わせましょう。