ミカ書7:8~10
ヨハネによる福音書14:1~14
ずっと前ですが、私の母教会の友人がにこにこしながら、「僕は死ぬことが楽しみなんです。だって、イエス様が『わたしの父の家には住むところがたくさんある』と仰ったんですよ。『あなたがたのために場所を用意しに行く』とまで。死んだら天に家が用意されているんです!」そのように言ったことをよく覚えています。それを聞いて、死んだら天国に行って、今の私が(肉体を脱ぎ捨てるとはいえ)この私のまま天国に行って用意された家に住むんだということを想像して、「ほんとうかな」と思うのと同時に、ちょっとわくわくしました。今でもこの御言葉を読むとその時のことを思い出します。
この御言葉の中の「住むところ」と訳されている言葉は、少し先の15章のイエス様の言葉、「わたにつながっていなさい」という言葉の「繋がる」という動詞の名詞形です。住むところ、とはイエス様に「繋がっているところ」と言い換えてよい場所であろうと思われます。
ユダが「今しようとしていることをするために」、皆と共にいる食卓の席から立ち上がって出て行き、イエス様の十字架の死が確定的となり、ペトロには「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と裏切りの予告をされ、それらの只中で、イエス様は「互いに愛し合いなさい」という「新しい掟」を弟子たちに与えられました。
「互いに愛し合いなさい」という掟、先週ははっきりとは触れなかったのですが、この掟は、「互いに」ということがとても大切なことなのだと思われます。時々、イエス・キリストを信じる者は、一方がどれほど愛さない者であったとしても、一人の人を愛してどこまでも羊飼いなるイエス様のように追いかけるような愛し方をしなければならないと他者に対して望む方がおられますし、そうでない姿を責めたり、またそのように理解し、人間関係に悩みながら御言葉のゆえに、自らの愛に苦しむ方がおられます。確かに、イエス様は、私たちの命を救うために、どこまでも追って来て下さるお方です。しかし、そのために命まで捨てられたお方でした。また、そのことをするためには、命を捨てなければならないほど大変なことであったということでもあります。
「互いに愛し合いなさい」というこの言葉は、イエス様が去って行かれたあとの、信仰共同体に向けて語られた言葉ですが、ひとりを救うということをどこまでもなそうとすれば、命を捨てるほどに、追っていく人、また共同体が時に壊されてしまうほどに厳しい場合があります。そしてそれを、信仰を持った人間同士、また教会共同体に対して、絶えず安易に求めることは、非常に難しいことですし、聖書が語ることとは違うと私は考えています。しかし命を捨てること、理不尽と思えるほどの愛を、既にイエス様が為してくださいました。
愛を受ける側も与える側も、それぞれが、自分がそして他者が、イエス様の命を捨てるまでの愛によって既に救われている者同士なのだということを、まず心に刻まなければなりません。イエス様の愛によって「救われている」ということを心に刻みつつ生きること、それは「イエス様のうちにとどまる、イエス様に繋がる」ということでありましょう。そしてひとりひとりが赦された者の自覚を持って、「互いに愛し合う」のです。一方的に与え続けたり、受け続けたるするのではありません。「互いに」という意味に於いて、私たちは自覚をもって「愛する」という意志を尽くすものでありたいと願います。また、難しい場合は「待つ」ということも愛の一つの表れでありましょう。放蕩息子の父が、息子をずっと待っていて、帰って来た息子を喜び迎えたように。
イエス様はペトロに語られた後、「イエス様が去って行く」ということに、「心を騒がせ」、動揺している弟子たちに言われました。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい」と。
この後、イエス様の逮捕、十字架へと時は進んで行きます。イエス様はそのことをはっきりと知っておられ、弟子たちに言われたのです。「静まって信じなさい」と。私たちもさまざまな思い煩いで心が乱されることがありますが、そのような時、イエス様はきっと私たちに語り続けておられるに違いありません。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい」と。
さらに「わたしの父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなたがたがのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」と言われました。
イエス様はこの後、十字架の上で死なれます。しかし死の国、陰府を打ち破り、復活され、天の父なる神の御許へと昇って行かれます。イエス様はそのことを指して、そのことを通して、「あなたがたのために場所を用意する」と仰いました。主の十字架の死が前提としてあり、この御言葉は語られています。
いつもしゃしゃり出るペトロは、裏切りの予告をされ、主の言葉に沈んでいたのかもしれません。今日の御言葉では、他の弟子たちがイエス様に問い掛けます。
まず主のご復活の後、「主の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と語った、疑い深い性質を持っているとトマス。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と。
トマスの心には、いつもイエス様の言葉に対し、さまざまな疑問があったのではないでしょうか。しかし疑い深さは、良いほうに働けば、まことの探究心となります。疑い深いトマスの言葉は、イエス様から真理の言葉、イエス様が語られた言葉の中でも、最も心に留めるべき真理の言葉を引き出しました。
主は言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことが出来ない」と。
そして、言われます。「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」
ヨハネによる福音書をこれまでくまなく読んできておりますが、この言葉と同じニュアンスの言葉を、イエス様はこれまでにも何度も語っておられることを覚えていらっしゃいますでしょうか。「私と父はひとつである」と。
私たちがヨハネによる福音書を読んで知っている以上に、イエス様のお側で直接教えを受けていた弟子たちは、何度もイエス様のこの言葉「私と父はひとつである」という言葉を聞いていた筈です。しかし、この言葉を弟子たちは聞くには聞いていましたが、その意味を理解しておりませんでした。
さらにフィリポも言うのです。「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と。フィリポもイエス様の言葉を聴きながらも、ずっと「分からな」かった。いえ、トマスとフィリポだけでなく、弟子たち皆、イエス様の言葉を理解してはいなかったのです。
そのようなフィリポ、そして弟子たちに向かって、イエス様は「わたし・イエスを見た者は、父を見たのだ」「わたしが父のうちにおり、父がわたしの内におられることを信じないのか」「わたしが語る言葉は、自分から話しているのではなく、わたしの内におられる父がその業を行っておられると、わたしが言うのを信じなさい」「信じないならば、業そのものによって信じなさい」と、父なる神様と、イエス様はひとつである、ということをとくと語られ、そして「信じなさい」と仰るのです。
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」この言葉自体は、復活のイエス様が、トマスに語っておられる言葉ですが、ヨハネによる福音書の全体を通してのメッセージでもあります。「神を信じなさい、そしてわたしをも信じなさい。わたしが父のうちにおり、父がわたしの内におられることを信じなさい」。
神はおひとり。しかし、神は人間の理解も思いも超えたお方です。人間をはるかに超えた「在り方」をされるお方です。「ヨハネによる福音書」の冒頭を覚えておられますでしょうか。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」
また「ヘブライ人への手紙」の冒頭にはこのような御言葉があります。「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物をご自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました」(1:3)。
イエス様は、神が万物を創造されるそのはじめから、神と共にある「神の言」であられました。神は「光あれ」と言葉を発せられて、すべての物は言葉によって造られた、神の発せられた「言葉」そのもの、万物を造られた「言葉」がイエス様であるのです。父なる神は、声を発せられたお方。イエス様はその言葉そのもの。そして、言葉の内には、人間を照らす光なる命があった、神の言、聖書として今、私たちに与えられている神の御言葉は、イエス様であり、神の言葉には、暗闇に生きる人間に光を与える命があると語られるのです。
そして「御子」というのは、人となられた神を表す言葉ですが、御子は神の栄光の反映、映しであり、神の本質の完全な現れであるいうこと。これは、人として世に降られたイエス様のお姿、人をとことん愛され、愛に苦しまれ、貧しい人、病を持つ人の友となられたその在り様は、天の神の本質の完全な現れであると言うのです。
神は三位一体と言われますが、人間など遥かに超えた、創造主なるおひとりの神が、父子聖霊という三つのあり方をされ、それでも尚且つ「ひとりの神」であられる、このように人間の目には不思議と思える在り方をされるお方です。
このことを、イエス様は今日の御言葉の中で、「わたしが父のうちにあり、父がわたしのうちにある」と言う言葉で語っておられるのです。
人間の弱い肉体の目で見ますと、おられる場所、あり方は違います。イエス様は私たちと同じ人、身体を持たれた神であり、父なる神は天におられますから。しかし、父なる神と御子なる神はひとつである。互いにそのうちにある、とイエス様ご自身が仰り、そのことを「信じなさい」と言われるのです。
以前にも譬えでお話ししたことがあると思います。パンを作るとき、粉を水で捏ねますが、捏ねた粉からひとつまみを取り出す、同じ物がふたつになり、もうひとつまみ取り出すと三つになる。しかし、再び混ぜると同じひとつのものになる。三位一体とは、そのような在り方と言いましょうか。
御子は人間の救いのために世に来られました。
人間は、罪によって神から離されて世に生まれています。神から離されている罪ある世に生きる人間を憐れまれ、居ても立ってもおられず、人間の救いの道を開くために、神が大胆にも降りて来られたのがイエス様でした。
しかし、イエス様はこれから弟子たちのもとを去って行かれます。それは「行ってあなたがたのために場所を用意する」(14:2)ために「去って」行かれるのです。そして、「場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」とも言われるのです。さらに「こうして、わたしがいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」とイエス様は言われました。
そう言われてもトマスは分かりません。そして尋ねたのです。「どうして、その道を知ることができるでしょうか」と。
そこでイエス様は答えられたのです。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことは出来ない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父を知ることになる」
世に来られた神、神の栄光の反映であられる御子イエス・キリストを知ること、それが、イエス様がこれから行かれるところ、私たちの住むところを用意してくださる場所に迎え入れていただける道であると言うのです。
イエス様の去って行かれる場とは、十字架です。十字架で死なれます。それは、すべての人の罪をその身に帯びて死なれるという姿です。イエス様は「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことは出来ない」と言われました。
「わたしを通る」とは、私の私たちの罪を、私たちが負うべき罪を、イエス様が代わって担ってくださって、十字架で罪を滅ぼしていただくということです。それは、自らの罪の悔い改めと、イエス様は父なる神のうちにあり、イエス様のうちに父なる神がおられることを信じること。父と御子はひとつであることを「信じる」。罪の悔い改めと信仰、そのことが、イエス様が「去っていかれ」、「住む所、場所を用意」してくださるところに、私たちも行ける道であるのです。
8章では、イエス様はイエス様を信じないユダヤ人たちに対し、「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることは出来ない」と言われました。信じない人々に対する厳しい言葉であったことを改めて思いますが、自らの罪の悔い改めによって、イエス様の十字架を通り、赦され、信じること、そのことが、まことの命=永遠の命に至る、真理の道であるとイエス様ははっきりとここで言われたのです。
そして、その「住む所、場所」とは、所謂私たちが想像し勝ちな「天国」という意味とは少し違う。父なる神のうちにイエス様があり、イエス様のうちに父なる神がおられる。そのような不思議な「ひとつ」のうちに、私たちも信仰によって入れられるということを、意味としてイエス様は語っておられるのです。
カール・バルトという神学者は、父子聖霊なる三位一体を、「愛の交わり」と呼び説明いたしました。私たちも、イエス・キリストの十字架を通して、罪赦されたならば、父子聖霊の愛の交わりのうちに、信仰によって入れていただけるようになるのです。それが、聖書の語る「永遠の命」なのです。そこにイエス様を信じる者たちは、赦され、迎え入れていただけるのです。その形は、イエス様の語っておられるとおり、そのまま天の家という形で、私たちも神と共にある命に入れられるのかもしれません。そう考えるとわくわくしますね。
先週の御言葉で、ペトロに対し、イエス様は「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来るようになる」とイエス様は言われましたが、これは、ペトロの使徒としてのキリストに倣う苦難の死を予告する言葉であると共に、この直後イエス様への裏切りの言葉を発するペトロに対する赦しの言葉でもあったのです。ペトロは罪のある、また迷いの多い人でありましたけれど、それでもイエス様に赦されるのだ、そして、わたしの行くところに後でついてくるようになる、永遠の命へと導かれると、そのこともイエス様は告げておられたのです。
私たちはイエス様の十字架によって救われました。また救われようとしています。そのような愛される者として、互いに愛し合い、またイエス様をひたすらに信じる者でありたいと願います。信仰によってイエス様の行かれるところ、三位一体の愛の交わりの中に入れられた者への約束の言葉が、今日の御言葉の最後に語られています。
「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」
何という力強い約束でしょうか。これは、イエス・キリストを信じる者たちへの約束の言葉です。このイエス様の約束の言葉をしっかりと心に刻みつけ、信じて願い求め、絶えず祈り続ける者でもありたいと願います。