「神の『聖』を前にして」(2019年10月13日礼拝説教)

レビ記19:2
使徒言行録4:32~5:16

 今日は神学校日。伝道献身者のために祈る日として日本基督教団では覚えています。
 牧師、神学生と言うと、皆様はどのようなイメージを持っていらっしゃいますか?いろいろな牧師がおられ、聖人のような・・・とはまさかお思いにならないでしょうが、どこかそれに近いことを期待するというか、理想として持っておられる気持ちはあるのではないかと思います。私自身、私の信仰を育んでくださった牧師たちのことを思いますと、皆、その理想から離れない、偽りがなく、謙遜で、自分ではなく神が大きく、自分が小さい、そのような神の僕でいらっしゃいました。その意味での信頼と尊敬を今でも深く持っています。そして、私に神の「聖」ということを、教えて下さいました。そのような牧師に出会えたことを、私は神に感謝しています。
 でも、牧師の卵の神学生の学ぶ神学校というところはそのように、思い描き、理想とする牧師像とは、ちょっと違うところでした。特に私が学んだ日本聖書神学校は、昼間働きながら学ぶ、夜間の神学校でしたので、年齢を重ね、社会経験を積んでいて、自己をしっかり持っている人が多い学校だったせいもあるのでしょうか。それぞれがキリストに出会い、自らを神に献身をする志を持って、入学した人たちですが、皆、自己主張が強く、生意気に神学を語り、またそのようにやりたい放題だからなのか、神の御前に弱さや迷いもさらけ出す信仰を持っているのか、個性的で「なんでもあり」というそんな「面白い」場所でした。
しかし、そんな中で皆、生まれたままの自分自身と、神の聖なることとの間の格闘をしていたのだと今は思います。神学生であっても、牧師にならない人、途中で止める人もある一定数おりますが、牧会の現場に出て行ったら、皆見事に「牧師」になっていることに驚きます。教会で働き、苦労するなかで、また、週ごとに御言葉を取り次ぐために御言葉と必死で向き合うことで、また、信徒の方々との出会いの中で、神に整えられ、牧師という職務に生きる者とさせていただいているのだと思うのです。
罪ある人間が、神に仕える働きをすること、このことは、ある意味特殊で、また困難も伴う働きだと思っています。どうぞ、神学生、神学校の働き、また牧師のためにも、これからもお祈りください。

さて、今日の御言葉、使徒言行録5章は特に、使徒言行録の講解説教という形で読み進めて来ている中で、この御言葉の取り次ぎが果たして出来るのか、スルーしてしま おうかと思って悩んだ御言葉でした。初代教会のひとつの出来事です。

ユダヤ人たちからの迫害の予兆に恐れ、震えつつ祈った時、その場が揺れ動き、一同が聖霊に満たされて大胆に神の言葉を語り始め、教会がいよいよ聖霊が力強く働かれるようになっていきました。そして、人々の群は心も思いもひとつとなり、それは彼らの生活にも及んで行き、人々は自分の持ち物、土地や家を持っている者は皆それを売って、代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、おのおの必要に応じて分配をされ、イエス・キリストを信じる群には貧しい人がひとりもいないという状況になっていました。
このことは、信じる群に加えられるためには「持ち物を全部売り払わなければならない」というそんな決まりがあった訳ではなく、自主的な献身の思いをもって献げるということであったようです。それは、5:4のペトロの言葉、「売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか」という言葉から分かります。「売ること」「献げること」は、各々の判断に任されていたのです。
しかし、何故共有することが必要であったのかと考えますと、誰よりも、ペトロをはじめとする使徒と言われる人たちは、ガリラヤから自分たちの職業を捨ててエルサレムに来ている人たちでした。エルサレムで職業があった訳でも、家があった訳でもありません。おそらくは、12章に出てくるのですが、「マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家」に皆で滞在をしていたのであろうと考えられています。使徒たちの生活を支え、またイエス・キリストに救われた、例えばペトロに足を癒して貰った生まれながらの足の不自由な人など、聖霊によってひとつにされたイエス・キリストを信じる群は、支えあって生きるようになっていたのです。
そして使徒たちは、大いなる力を持って―語ること、しるし―主イエスの復活を証しし、皆人々から非常に好意を持たれておりました。
その中には、バルナバ―後にパウロと共に第一次伝道旅行に赴き、一時仲たがいをすることもありましたが、パウロのかけがえのない親友であり、また初代教会で多くの働きをした人のひとり―もおり、バルナバも自分の持っていた畑を売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた人であった、バルナバの信仰と誠実さが現れるエピソードが語られています。

しかし、事件が起こりました。アナニアとサフィラという夫婦です。このふたりも勿論、イエス様を信じて洗礼を受け、聖霊を受けて、イエス・キリストを信じる人となった人々でした。そして、イエス様のために、教会のために、自分たちの持っていた土地を売って、その代金を使徒たちの足もとに置いたのです。土地というのですから、彼らの家は家であり、別の持っている土地を売ったということなのではないでしょうか。
この時、売ったお金を持って来て、足元に置いた=共同体のために使うように差し出したのは、夫のアナニアでした。そのお金は、夫婦で相談をして、売ったお金のすべてを使徒の足もとに置いたわけではなく、全部と言いながら、置いたのはその一部でした。
彼らはイエス・キリストを信じて、また教会の交わりも愛していたに違いないのですが、心の中に、自分たちの財産をすべて献げることは不安だとか、勿体無いという気持ちもあったのでしょう。それは、当たり前の人間の感情で、この夫婦はありきたりの人たちだと私には思えてしまいます。また、「これは売ったものの一部です」と言って正直に差し出せば、ペトロも喜んでそれを受け取ったのではないでしょうか。
しかし、彼らはペトロたちに対して「嘘をついた」のです。そしてペトロは、彼らが持ってきたお金が、家を売った代金のすべてではなく、一部であったことを、聖霊によって見抜いたのです。
先週お読みした4章25節に「あなたは聖霊によってこうお告げになりました」という言葉があり、また例えば先の13章2節では、「彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が告げた」と言う言葉があり、また16章7節では「イエスの霊がそれを許さなかった」などの言葉があるのですが、イエス・キリストの十字架と復活を経た弟子たちは、聖霊を受け、新しい言葉を語り始めたというのがペンテコステの出来事でした。
イエス様は天に昇られましたが、ひとりひとりに与えられ、ひとりひとりのうちに住まわれるイエス様の霊であられる聖霊は、使徒たちのうちに力強く働かれ、使徒言行録に於いては、使徒たちは聖霊の促しによって語り、行動をしていたということが鮮やかに語られています。使徒言行録が「聖霊行伝」と呼ばれる所以です。
そのように、この時のペトロも、聖霊によって知恵を与えられて、アナニアの不正を見抜いたのです。
ペトロは続けて「売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思い通りになったではないか」と語っています。そしてペトロがここで聖霊によって叱責をしているのは、彼らが「サタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかした」ということのためでした。
そして、そのペトロの言葉を聞くやいなや、アナニアはその場で倒れて息絶えた―死んだのです。
そのことを聞いた人々は驚き恐れ、そのまま若者たちが立ち上がって死体を包み、運び出して葬りました。

それから三時間ほど後、アナニヤの妻サフィラが、その出来事を知らずにペトロたちの居る家に入って来ました。皆がその日起こった出来事に、静まり返っている中に、何も知らないサフィラは、夫が献げ物をしたことに、少し誇らしげに入ってきたのではないか、でも、周りの状況が不気味にしんとしていることに、少々の違和感を感じつつ・・そのようなことを私は想像します。
ペトロは、サフィラに話しかけました。「あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。言いなさい」。サフィラは「はい、その値段です」と答えました。夫婦で口裏を合わせて嘘を言ったことは明白となりました。
ペトロは「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。見なさい。あなたの夫を葬りに行った人たちが、もう入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう」その言葉に、サフィラはたちまち倒れ、息絶えて死に、即座に青年たちが入って来て、彼女を運び出し、夫の傍に葬ったと言うのです。
そして、人々は皆非常に恐れました。

このことをどう捉えたら良いのでしょう。
アナニアとサフィラが、聖霊を欺き、神を欺いたという行為は、献げ物の多寡ではなく、献げるその心でした。恐らく「売ったお金のすべて」と言わず、その中の一部を献げますと言ったなら、聖霊に対する欺きにはならなかったのではないでしょうか。彼らは恐らく自分たちの良いところを見せたかったのではないでしょうか。彼らの中にあったのは、献げることで、群の中での自分たちの地位を高めたい、名誉を持ち、使徒のように中心的な人物となりたいという野心を持ちつつ、売ったお金を惜しみ、自分たちの懐に入れた。それは神を思うのではなく、自分を高めることを望むあり方でした。人の中で、自分をきわだたせ、尚且つ、陰で私腹を肥やし、すべてを献げていると言いつつ、隠し持とうとしている。そのような人間中心、自分中心の思いを、聖霊によってひとつとされた群、これからイエス・キリストを証しをしながら、命を掛けて福音を宣べ伝える群には、相容れない行為であり、心の持ち方だったのです。

それにしても、あまりにも恐るべき出来事です。ふたりは、ペトロの言葉によって死にましたが、それは、神の裁きが彼らの上に下されたということそのものでした。そして、この出来事は、新約の時代、イエス様の十字架の救いが顕された後の出来事の中では、違和感のある、旧約の時代、律法にそぐわない方法で神の箱を担がされ、その場で神の怒りに触れて打たれて死んだウザの出来事を思い出してしまいます。
 このような記述は非常に衝撃的で、神は恐い、信仰など持たない方がましだと咄嗟に思えてしまう聖書の記述ではないでしょうか。神は愛であるならば、何故このようにお金をごまかしたくらいのことで、ここまでの裁きを受けねばならないのか、どうしてもそう思えてしまいます。

 このことは、神が「聖なる神」であられる、ということと深く関係しているのではないか、私にはそのように思え、今日の説教題とさせていただきました。
「聖なる神」と呼ばれることがありますが、例えば、イザヤ書6章で、イザヤという人が預言者として召される時、セラフィムと呼ばれる天の使いのような者たちが「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」と唱えており、神殿の入り口の敷居が揺れ動き、煙で満たされた時、イザヤは「王なる万軍の主を仰ぎ見た」とおののき、「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇を持つ者。汚れた唇の民の中に住む者」と、神の栄光の御前に、自分の罪を示され、自分は罪の故に滅びると恐れに包まれます。そのように、旧約に於いては、「神を見た者は死ぬ」、それは人間が罪ある者であるが故に、ということが言われています。
神の「聖」ということ、これは原語のもともとの意味は、「距離」「分離」を表す言葉です。人間は、神の似姿として創造された存在ですが、はじめの人アダムの罪によって神と引き離された、分離された者とされてしまいました。罪の無い神は、罪ある人間と共に生きることが出来なかったからです。律法に於いては、「汚れたもの」ということが非常に忌み嫌われ、例えば律法では、部屋の黴のことも汚れと言われており、黴を見つけたならば、祭司がそれを念入りに点検をし、徹底的に取り除かねばならない、黴は増え広がっていきますので、そのもとを無くしてしまわなければならないことが語られています。そのように、小さな汚れ、罪が全体を汚していく。そのような汚れは、聖なる神とは相容れないものです。
このアナニアとサフィラの出来事は、そのことの象徴的な出来事なのではなかったのでしょうか。初代教会、教会の始まりの大切な時、聖霊に満たされひとつとなっている教会に、人間の名誉欲、所有欲といった人間の自分本位な思いというものは、決して受け入れてはならない、人間のもともと持っている性質であり、罪であり、律法祭儀的には汚れであったのではないでしょうか。
非常に厳しく、また人間的に見れば神に対して恐怖を抱きそうになる出来事ですが、このような徹底した厳しさがあったからこそ、この後、主の教会は信仰を守りぬき、2000年に亘って全世界に広がり行く信仰となっていったのだと思うのです。

しかし、私たちには聖なる神と人間との中保者、間を取り持ってくださるイエス様がおられます。
イエス様のお言葉に「人の子=イエス様の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない」(ルカ12:10)というお言葉がありますが、イエス様の悪口を言う者は赦されるということは、イエス様が私たちと神との間を執り成してくださるからということがその意味でしょう。「しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない」。アナニアとサフィラはそのことに触れてしまいました。サタンに心を奪われ、名誉欲と私欲の故の故に、嘘を言って金銭をペトロに渡したことは、神を侮る出来事であり、聖霊を冒涜する出来事でした。
この時、もし、アナニアとサフィラに一抹の罪悪感、罪を認める思いがありながらこのことを為していたならば、違ったのではないでしょうか。罪の自覚の無いところでは、イエス様の贖いは完成しないからです。私たちがどのような罪を神の御前に犯してしまおうとも、それを悔いて、イエス・キリストの御前に罪の悔い改めをするならば赦されます。どのような罪も赦されます。しかし、人間の高慢、名誉欲、私利私欲のようなものを持ったままであるならば、イエス様の十字架の贖いは、成し遂げられないのです。

私たちは恐らく、アナニアとサフィラと何ら違いが無いような、裁かれるべき罪を持った人間でありましょうが、それにも関わらず、神は私たちを愛してくださっておられます。私たちが罪から救われるために、世にイエス様を与えてくださいました。
自らのうちにあるさまざまな罪の問題、そのことに気づき、悔い改め、主の御前に自分を誇るのではなく、自分ではなく、神を私たちのうちで大きく大きくし、神の御前に絶えず身を低くしつつ、謙遜な思いを持ち、偽りを言わず、神を賛美しつつ世を歩みたいと願っています。
お読みしたレビ記で「聖なる者となりなさい」と語られていましたが、私たち人間は、自分の力で「聖なる者」となることは出来ません。それが出来るのは、イエス・キリスト、神と人間との間の中保者、執り成しをしてくださるイエス・キリストの御前に絶えず神の聖なることを見上げ、自分の内側を見つめつつ、自らを悔い改めつつに生きることです。
おひとりおひとりが、イエス・キリストを通して聖なる者とされ、神と共に生きる者として祝福された歩みをされますよう願い祈りたいと思います。